16
逃げるように自転車をこいで家についた頃、僕は全身びしょ濡れだった。
薄暗いガレージの隅に自転車を止め、鍵をかける。カシャンという冷たい音が胸に響く。
何も言わずに玄関を開け家の中へ入ると、今一番会いたくない人に会ってしまった。
「どうした、コタ。びしょ濡れじゃないか」
風呂上がりらしき龍介が、タオルで頭を拭きながら僕に声をかける。
「風呂入ってこいよ。体、冷えるぞ?」
「いい」
「じゃあこのタオル……」
「いらねぇよ!」
差し出されたタオルを右手で払う。そのままタオルが床に落ちる。
八つ当たり――なんにも悪くない龍介に、どうしようもなく腹が立つ。
「お前……なにかあった?」
床に落ちたタオルを拾い上げ、龍介が言う。僕は龍介から顔をそむけたままつぶやく。
「なんで……ミクと付き合わなかったんだよ?」
「え?」
「あんたがミクと付き合えば……ミクも、おれも、こんな思いしなくてすんだのに」
目の前の龍介を押しのけるように進む。だけどそんな僕の腕は、龍介の手に強く引き止められた。
「それ、どういう意味だよ?」
龍介の真っ直ぐな視線が痛い。痛すぎて……涙が出そうだ。
「い、意味なんかない」
「はっきり言えよ?」
いつだって、龍介の言うことは正しい。だけど僕にはそれができない。だから……だからきっと、美空は僕じゃなくて、龍介のことが好きなんだ。
「悔しいんだよ!」
僕の口が勝手に動いた。
「なんでそんなに野球が上手いんだよ! なんでそんなに優しいんだよ! ミクにあんなに想われて……おれのほうが……おれのほうがリュウよりもずっと……ミクのこと見てたのに!」
子供じみた言葉で、一気に想いを吐き出した僕の前で、龍介が吹き出すように笑った。
「ああ、やっぱりそういうことか。お前、ミクのことが好きなんだよな?」
「……笑うなよ」
「笑ってないよ」
そう言いながら声を立てて笑う龍介。めちゃくちゃ腹立つ。
「笑うな! おれがミクを好きじゃおかしいか?」
「おかしくない。ていうか、たぶんそうだろうなと、ずっと思ってた。お前見てればフツーわかる」
そして龍介はふっと息を吐き、真面目な顔つきに戻って言った。
「前にも言ったけど、おれだってミクのことは可愛いと思ってる。だからこそ、いい加減な気持ちで付き合ったりしたら申し訳ないって思ったんだ」
龍介の前で、僕はうつむくしかできない。
「だからはっきり断った。おれはミクとは付き合えないって」
濡れた制服からぽたりと水滴が床に落ちる。
「お前はちゃんと言ったのか? ミクに、自分の気持ちを」
自分の気持ち――そんなの、言えるわけない。
いつだって怖かったから。美空に、龍介と比べられるのが、一番怖かったから。
「言っとくけどおれだって、なんでも上手くいってるわけじゃないんだぞ?」
顔を上げた僕の頭に、龍介が笑ってタオルをかぶせる。
「まぁ、お前もがんばれよ」
くしゃっとタオルをかき混ぜて、去って行く龍介の背中。リビングからは「コター、帰ったの?」と、のん気な母さんの声が聞こえてくる。
龍介が、努力の人だったって、本当は知ってる。高校卒業して野球を辞めた時も、あっさりなんかじゃなくてすごく悩んでいたことも、本当は知ってる。
知ってるくせに知らないふりして、ひがんでばかりいた僕は、中学生の頃と全然成長していない。
「バカみてぇ……」
そんな男に、美空が振り向くわけないじゃないか。
「やだ、あんたびしょ濡れじゃない」
リビングから顔を出した母さんがあきれたように僕を見る。
「風邪ひいたら大変よ。日曜日試合に出られるんでしょう?」
「レギュラーじゃないよ」
「でもあんたが背番号もらってきたの初めてじゃない。代打でも代走でもいいから、出させてもらいなさいよ」
「そんなの、おれが決めるわけじゃないし」
「アピールするのよ! アピール! あんたはいつだって自信がなさすぎなの。あんただって、やれば少しはできるんだから」
少しは……か。
龍介のタオルで頭を拭きながら、僕は美空を想う。
控えの選手として僕の名前が呼ばれた時、美空は自分のことのように喜んでくれた。
自分は試合に出られないってわかっているのに。
――コタ、待って……。
さっき最後に聞いた、美空のせつない声。
ヘンなこと言っちゃったな……あいつ、怒ったかな? 泣いたかな?
熱、下がったかな……。
頭から落ちかけたタオルをぎゅっとつかむ。
美空に自分の気持ちを伝えたら……なにかが少しは、変わっていくのだろうか。




