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 朝からどんよりと曇っていた空は、放課後になってさらに厚みを増していた。

「日曜日、晴れるかなぁ?」

 部の練習が終わった後、グラウンドの片隅でバットを振っている美空が空を見上げる。

「どうかな……まだ梅雨だしな」

 僕はそのそばに座って、美空のスイングを眺めながら答える。

「晴れて欲しいなぁ……最後の大会だもんね」

 強豪校でもなく、特にすごい選手がいるわけでもないウチの野球部でも、夏の県大会の前はやっぱり特別だ。誰の頭の片隅にも、甲子園という文字がちらつく。

 去年も一昨年も一回戦敗退という、甲子園には程遠い成績の僕らなんだけど。

「あ、降ってきた」

 ポツンと空から、僕の肩に雨粒が落ちた。

「降ってきたぞ? 帰ろうよ」

「ん……そうだね」

 そう言いながらもバットを振り続ける美空。

 女の子の美空は、たとえ三年生でも大会には出られない。体の大きな男子に交じって、小さな体でずっと同じ練習を続けてきたっていうのに。

 それでも美空は大会前になると、いつも以上に練習量を増やす。「あたしも、みんなと一緒にやってるんだって気になれるから」美空はそんなことを言って、僕の前で笑ってみせた。

「ミク……」

 空から落ちる雨。薄暗くなったグラウンド。ユニフォームの上から、じんわりと冷たさが染み込んでくる。

「ミク、帰るぞ。風邪でもひいたら大変だろ?」

「わかってる」

 雨に濡れた腕を強引に引っ張ると、やっと美空がバットを下した。こうでもしないと美空は、練習をやめようとしないのだ。


 びしょ濡れになりながら自転車をこぐ。いつもの帰り道が、今日はなんだかずいぶん遠い。

「ミク? 大丈夫か?」

 後ろを走る美空に振り返る。

「ん? 大丈夫だよ?」

 透明なレインコートを羽織っていても、美空の髪から水滴が滴り落ちているのがわかる。

 少し遠回りして、美空の家の前で自転車を止めた。

「コタ。ごめん。遠回りさせちゃったね?」

 雨に濡れているからか、街灯の灯りに照らされた美空の顔はいつもと少し違った。

「いいよ、べつに」

「なんか今日のコタ、優しくない?」

 美空が僕の前でくすくすと笑う。僕はそんな美空の額に右手を当てた。

「やっぱ、熱いよ。お前」

 雨で体は冷えているはずなのに、美空の額はものすごくほてっている。

「熱、あるんじゃね?」

「……気のせいでしょ?」

「いつから?」

 美空が僕から目をそらす。

「いつから具合悪かったんだよ?」

 美空はいつだってそうなんだ。自分の体調が悪くなると、それを周りに気づかれないように、わざと元気に振舞う。

 さっきから、なんかおかしいと思ってたんだ。

「家の人は?」

 僕は電気のついていない美空の家を眺めながら聞く。

「お母さん、同窓会で遅くなるって。お父さんは仕事で、お兄ちゃんはバイト」

「早く帰って来てもらえよ?」

「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」

 美空がそう言って笑う。

 そんないじらしい笑顔を見せられたら、放っておけなくなるじゃないか。

「とにかく家に入るぞ?」

「え……コタ?」

「お前に寝込まれたりしたら、こっちが調子狂うんだよ」

 美空の手を引いて一緒に家に上り込む。

 体拭け。着替えろ。薬飲め。布団に入れ。立て続けに命令したら、お母さんみたいだって、美空がもう一度笑った。


 ピンク色のカーテンの美空の部屋に入ったのは、中学生以来だった。

 美空の部屋は相変わらず少女趣味で、枕元にはあの時と同じ、小学生の僕たちの写真が置かれていた。

「それじゃ、今日はおとなしく寝てろよ? わかったな?」

 ベッドにもぐりこんだ美空が、布団を口元まであげて、まだおかしそうに笑っている。

「やっぱり今日のコタ、すっごくヘンだよ」

「ヘンじゃねぇよ」

「ううん、ヘン。いつもより優しい」

 それは……今日の美空が、すごく可愛く見えたから。

「しゃべってないで寝ろ。それから明日の朝練は来るなよ。お前無理して絶対来るから」

「ん……」

 熱のせいか頬を赤らめた美空が僕にうなずく。これ以上この空間にいたら気が変になりそうで、僕はそんな美空に背中を向けた。

「……コタ」

 ドアノブにかけた手を一瞬止める。

「ごめん。もう少し……一緒にいて?」

 思いもよらない言葉に振り返ると、美空が頭まで布団をかぶって僕に言った。

「もう少し……そばにいてよ」

「な、なに言っちゃてんの? お前、おかしい」

「うん……おかしいの。なんだかすごく寂しくて……つらいの」

 ゆっくりと布団から顔を出す美空を見る。

「コタの顔……すごくリュウちゃんに、似てる」

 枕元に置いてある僕たちの写真。同じユニフォームを着た僕と龍介が、同じような顔をして笑っている。

 呆然と立ち尽くす僕と、そんな僕を見つめる美空。

 一瞬、この部屋の時間が止まってしまったような気がした後、すぐに美空の笑い声が聞こえてきた。

「ごめん、コタ。あたしやっぱりヘンだね。きっとリュウちゃんにフラれたショックが、まだ残ってるんだよ」

 くすくすと笑いながら、美空が布団を顔に引っ張り上げる。

 美空の目からこぼれ落ちる涙。笑い声がすすり泣く声に変わっていく。

「ミク……」

 僕の前で、美空は小さな子供みたいに泣いていた。

 そんなに……そんなに龍介のことが好きだったのか? そんなに龍介のことが……まだ好きなのか?

 泣きたいのは――こっちのほうだ。

「ミク! もう泣くな!」

 思わず上げた僕の声に、美空の肩がぴくんと揺れる。

「やるだけやってダメだったんだからしょうがないだろ? いつまでもめそめそ泣くなよ」

 美空が涙目で、ゆっくりと僕を見上げた。

「お前のとりえは、元気なことくらいしか、ないんだからさ」

「ひどい、コタ。あたしだって他にもできることあるもん」

 知ってる。美空が実は料理上手なこと。ピアノが弾けること。本当はすごく女の子らしいこと。

 僕はずっと美空のことを、見てきたから。

「わかったよ。わかったから、もう寝ろ」

「コタ……」

「それから」

 部屋のドアノブをつかみ、美空に背中を向けてつぶやく。

「おれは……龍介じゃないから」

「え……」

「ミクがそばにいて欲しいのはおれじゃなくて、龍介なんだろ?」

 ゆっくり振り返ったら、潤んだ目で僕を見ている美空と視線が合った。

 こんなに……こんなに近くにいるのに……僕たちの距離はとても遠い。

「リュウの代わりとか……そういうの、おれ絶対イヤだから」

「コタ……あたし、そんなこと……」

「おれは龍介じゃない」

 自分に言い聞かせるように言って部屋を出る。僕の名前を呼ぶ美空の声が聞こえたけれど、それを振り切るように、雨の降り続く外へ飛び出した。

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