15
朝からどんよりと曇っていた空は、放課後になってさらに厚みを増していた。
「日曜日、晴れるかなぁ?」
部の練習が終わった後、グラウンドの片隅でバットを振っている美空が空を見上げる。
「どうかな……まだ梅雨だしな」
僕はそのそばに座って、美空のスイングを眺めながら答える。
「晴れて欲しいなぁ……最後の大会だもんね」
強豪校でもなく、特にすごい選手がいるわけでもないウチの野球部でも、夏の県大会の前はやっぱり特別だ。誰の頭の片隅にも、甲子園という文字がちらつく。
去年も一昨年も一回戦敗退という、甲子園には程遠い成績の僕らなんだけど。
「あ、降ってきた」
ポツンと空から、僕の肩に雨粒が落ちた。
「降ってきたぞ? 帰ろうよ」
「ん……そうだね」
そう言いながらもバットを振り続ける美空。
女の子の美空は、たとえ三年生でも大会には出られない。体の大きな男子に交じって、小さな体でずっと同じ練習を続けてきたっていうのに。
それでも美空は大会前になると、いつも以上に練習量を増やす。「あたしも、みんなと一緒にやってるんだって気になれるから」美空はそんなことを言って、僕の前で笑ってみせた。
「ミク……」
空から落ちる雨。薄暗くなったグラウンド。ユニフォームの上から、じんわりと冷たさが染み込んでくる。
「ミク、帰るぞ。風邪でもひいたら大変だろ?」
「わかってる」
雨に濡れた腕を強引に引っ張ると、やっと美空がバットを下した。こうでもしないと美空は、練習をやめようとしないのだ。
びしょ濡れになりながら自転車をこぐ。いつもの帰り道が、今日はなんだかずいぶん遠い。
「ミク? 大丈夫か?」
後ろを走る美空に振り返る。
「ん? 大丈夫だよ?」
透明なレインコートを羽織っていても、美空の髪から水滴が滴り落ちているのがわかる。
少し遠回りして、美空の家の前で自転車を止めた。
「コタ。ごめん。遠回りさせちゃったね?」
雨に濡れているからか、街灯の灯りに照らされた美空の顔はいつもと少し違った。
「いいよ、べつに」
「なんか今日のコタ、優しくない?」
美空が僕の前でくすくすと笑う。僕はそんな美空の額に右手を当てた。
「やっぱ、熱いよ。お前」
雨で体は冷えているはずなのに、美空の額はものすごくほてっている。
「熱、あるんじゃね?」
「……気のせいでしょ?」
「いつから?」
美空が僕から目をそらす。
「いつから具合悪かったんだよ?」
美空はいつだってそうなんだ。自分の体調が悪くなると、それを周りに気づかれないように、わざと元気に振舞う。
さっきから、なんかおかしいと思ってたんだ。
「家の人は?」
僕は電気のついていない美空の家を眺めながら聞く。
「お母さん、同窓会で遅くなるって。お父さんは仕事で、お兄ちゃんはバイト」
「早く帰って来てもらえよ?」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
美空がそう言って笑う。
そんないじらしい笑顔を見せられたら、放っておけなくなるじゃないか。
「とにかく家に入るぞ?」
「え……コタ?」
「お前に寝込まれたりしたら、こっちが調子狂うんだよ」
美空の手を引いて一緒に家に上り込む。
体拭け。着替えろ。薬飲め。布団に入れ。立て続けに命令したら、お母さんみたいだって、美空がもう一度笑った。
ピンク色のカーテンの美空の部屋に入ったのは、中学生以来だった。
美空の部屋は相変わらず少女趣味で、枕元にはあの時と同じ、小学生の僕たちの写真が置かれていた。
「それじゃ、今日はおとなしく寝てろよ? わかったな?」
ベッドにもぐりこんだ美空が、布団を口元まであげて、まだおかしそうに笑っている。
「やっぱり今日のコタ、すっごくヘンだよ」
「ヘンじゃねぇよ」
「ううん、ヘン。いつもより優しい」
それは……今日の美空が、すごく可愛く見えたから。
「しゃべってないで寝ろ。それから明日の朝練は来るなよ。お前無理して絶対来るから」
「ん……」
熱のせいか頬を赤らめた美空が僕にうなずく。これ以上この空間にいたら気が変になりそうで、僕はそんな美空に背中を向けた。
「……コタ」
ドアノブにかけた手を一瞬止める。
「ごめん。もう少し……一緒にいて?」
思いもよらない言葉に振り返ると、美空が頭まで布団をかぶって僕に言った。
「もう少し……そばにいてよ」
「な、なに言っちゃてんの? お前、おかしい」
「うん……おかしいの。なんだかすごく寂しくて……つらいの」
ゆっくりと布団から顔を出す美空を見る。
「コタの顔……すごくリュウちゃんに、似てる」
枕元に置いてある僕たちの写真。同じユニフォームを着た僕と龍介が、同じような顔をして笑っている。
呆然と立ち尽くす僕と、そんな僕を見つめる美空。
一瞬、この部屋の時間が止まってしまったような気がした後、すぐに美空の笑い声が聞こえてきた。
「ごめん、コタ。あたしやっぱりヘンだね。きっとリュウちゃんにフラれたショックが、まだ残ってるんだよ」
くすくすと笑いながら、美空が布団を顔に引っ張り上げる。
美空の目からこぼれ落ちる涙。笑い声がすすり泣く声に変わっていく。
「ミク……」
僕の前で、美空は小さな子供みたいに泣いていた。
そんなに……そんなに龍介のことが好きだったのか? そんなに龍介のことが……まだ好きなのか?
泣きたいのは――こっちのほうだ。
「ミク! もう泣くな!」
思わず上げた僕の声に、美空の肩がぴくんと揺れる。
「やるだけやってダメだったんだからしょうがないだろ? いつまでもめそめそ泣くなよ」
美空が涙目で、ゆっくりと僕を見上げた。
「お前のとりえは、元気なことくらいしか、ないんだからさ」
「ひどい、コタ。あたしだって他にもできることあるもん」
知ってる。美空が実は料理上手なこと。ピアノが弾けること。本当はすごく女の子らしいこと。
僕はずっと美空のことを、見てきたから。
「わかったよ。わかったから、もう寝ろ」
「コタ……」
「それから」
部屋のドアノブをつかみ、美空に背中を向けてつぶやく。
「おれは……龍介じゃないから」
「え……」
「ミクがそばにいて欲しいのはおれじゃなくて、龍介なんだろ?」
ゆっくり振り返ったら、潤んだ目で僕を見ている美空と視線が合った。
こんなに……こんなに近くにいるのに……僕たちの距離はとても遠い。
「リュウの代わりとか……そういうの、おれ絶対イヤだから」
「コタ……あたし、そんなこと……」
「おれは龍介じゃない」
自分に言い聞かせるように言って部屋を出る。僕の名前を呼ぶ美空の声が聞こえたけれど、それを振り切るように、雨の降り続く外へ飛び出した。




