12
僕の夢にたまに出てくる美空は、どうしてだかいつも、まだ小さい子どもなんだ。
「こたー! 行くよー!」
よく通る高い声が響いて、美空が全身を使ってボールを投げる。
そよ風に揺れる緑の草。遠くまで広がる青い空。美空の持っている赤いグローブ。
夢の中の色彩は、こんなに鮮明に覚えているのに、美空の表情だけがわからない。
美空は笑っているのかな? 美空は僕の前で笑っているのかな?
グローブの先でボールが弾かれ、僕の後ろに転がっていく。
「こたの下手くそー」
美空の声を背中に聞きつつ、草むらの中のボールを追いかける。
やっとのことでそれを拾って振り返った時、美空はもう僕の前にいなかった。
「ミク?」
遠くに見えるユニフォーム姿の美空は、中学生の美空だった。僕に背中を向けて、誰かと並んで歩いて行く。
「リュウ……」
龍介と並んで去って行く美空は、とても幸せそうに笑っていた。
「コタ! コタってば! あんたまだ起きなくていいの?」
母さんの声で目が覚める。
「……今、何時?」
「もうすぐ七時よ」
「……七時!」
がばっと布団を蹴って起き上がる。全身に冷や汗があふれ出る。
「なんで起こしてくれなかったんだよ!」
「何度も起こしたわよ。それなのにあんた起きないから」
やばい。やばい。完全に遅刻だ。
「今日試合なんでしょ? 何時集合なの?」
「七時!」
ユニフォームを羽織って、帽子をかぶる。バッグをひったくるようにつかんで、階段を駆け下りる。
最後の大会の日に遅刻だなんて……何やってんだ、僕は。
「コタ! 水筒水筒!」
母さんの声に振り向きもせず、僕は玄関から飛び出した。
重いバッグを肩にかけ、いつもの川沿いの道を走る。
だけど上手く足が回らなくて、なんだかまるで夢の中を走っているみたいだ。
「夢……」
あんな夢を見たから、寝坊したんじゃないか。
「くそっ、あいつら!」
逆ギレのようにあのふたりを恨みながら、朝の日差しの中を走る。そんな僕の耳に、自転車のベルがチリンと鳴った。
「おい! 後ろ乗れよ!」
キッとブレーキの音がして、僕の隣に自転車が止まる。
「そんな荷物持って、ちんたら走ってたら、間に合わないぞ」
どうせもう間に合わないし……目の前の龍介を見ながら、心の中でつぶやく。
「ほら、早く乗れ! 川田に怒鳴られてもいいのか?」
頭の中に、僕のことを怒鳴り散らす川田先生の姿が浮かんで、身震いする。
ああ、最悪だ。頑張ります、なんて言った翌朝にもう遅刻だなんて……。
「コタ! 早く!」
龍介の声にうながされて、自転車の後ろに座る。
「まったく……時間を守るってのは、基本中の基本だぞ?」
「……わかってる」
ふっと龍介が笑って前を向く。右足でぐっとペダルを踏み込み、自転車が走り始める。
飛ぶように流れる見慣れた景色。頬に当たるじっとりとした風。帽子のつばを上げて空を見上げたら、今日も僕の上に、青い空が広がっている。
「ミクはさ……」
突然龍介がつぶやいた。昨日の自分の捨て台詞を思い出し、どうしようもなく恥ずかしくなる。
「おれにとっては妹みたいなもので……すごく、可愛いと思ってる」
僕は黙って龍介の背中を見つめる。
「だからつい、頭なでたり、声かけたりしちゃって……だけどもうあいつも、中三なんだよな。いつまでもちっちゃい女の子だと思ってたおれが、悪かったのかもしれない」
龍介の声が胸に響いた。深く、深く……そしてジタバタしていた自分が、ものすごく子供に思えてきた。
「……べつに、リュウは悪くないよ」
龍介の後ろでぽつりとつぶやく。ちらりと振り返った龍介が、僕に向かって笑いかける。
「でもやっぱり、今日は見に行くのやめとくよ。確かに少し不純だった。お前らの試合を口実に、マネージャーの彼女を誘いたいって思ってた」
そんなふうにあっさり認めてしまう龍介は、やっぱり潔いスポーツマンで、そして僕より少しだけ大人だった。
ブレーキの音を立てて自転車が止まる。僕たちはもう校門の前についていた。
「じゃあ。陰ながら、後輩たちを応援してるから」
「リュウ……」
自転車から降りた僕の耳に、高い声が聞こえてきた。
「コター! あんた、なにやってんの!」
美空だ。ユニフォーム姿の美空が、僕に向かって駆け寄ってくる。
「え、あれ、リュウちゃん?」
「遅刻の弟を送ってきた。あとはよろしくな、ミク」
龍介が小さく美空に笑いかけ、自転車をUターンさせる。
「おれは練習が入って見に行けなくなったけど、お前ら、絶対勝てよな?」
僕は黙って隣に立つ美空を見た。美空は唇をきゅっとかみしめ、龍介のことを見つめた後、いつものように笑顔で言った。
「うん! 頑張るよ!」
「よし!」
龍介が笑って、颯爽と自転車を走らせる。僕はその背中を見送りながら心の中で思う。
かなわないな。やっぱりあの兄貴には……だって、爽やかすぎるだろ?
そして美空がこんな兄貴に惹かれたわけも、わかる気がする。
「いてっ」
突然頭を殴られた。隣で美空が僕をにらんでいる。
「サイテー。最後の大会の日に遅刻とか、ありえないし。もうみんな集まってるよ?」
「川田は?」
美空がふうっとため息をつく。
「お腹壊したから遅れてくるって」
「……助かった」
「もうっ! そんなんだから、コタはダメなんだよ!」
もう一度僕の頭を小突いて、美空がグラウンドに向かって走り出す。
朝陽を浴びる美空の背中。その背中はとても小さい女の子の背中で……。
僕はそんな美空に、なにをしてあげられるんだろう。
「ミク」
僕の声に立ち止った美空が、ゆっくりと振り返る。
「あきらめるなよ」
「え?」
「最後まであきらめるなよ。リュウのこと」
美空の顔がみるみる赤く染まっていく。
「おれ、応援するから。リュウがマネージャーの子にフラれて、お前とうまくいくように」
「バカ!」
恥ずかしそうに目をそらし、美空が背中を向けて僕に言う。
「今そういうこと言わないでよ! 応援してくれるなら、あたしがヒット打てるように祈ってて!」
「うん……」
「声が小さい!」
「うるせぇな! ヒット打て! 絶対打て! お前ならできる! 最後まであきらめんな!」
美空が吹き出すようにぷっと笑って、僕を残して走り出す。
そうだよ。お前ならできる。その小さな体で、今まであんなに頑張ってきたんだから。
グラウンドを見ると、玲二が僕に向かって手を振っていた。その周りでは、あきれたように笑っている仲間たちの顔。
美空もそこへたどり着くと、こちらを振り返って大きく叫んだ。僕の大好きなあの笑顔で。
「コター! 早く来いー!」
帽子を深くかぶり直し、バッグを肩にかけ直す。そして僕はその輪に向かって、小さな一歩を踏み出した。




