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 僕の夢にたまに出てくる美空は、どうしてだかいつも、まだ小さい子どもなんだ。

「こたー! 行くよー!」

 よく通る高い声が響いて、美空が全身を使ってボールを投げる。

 そよ風に揺れる緑の草。遠くまで広がる青い空。美空の持っている赤いグローブ。

 夢の中の色彩は、こんなに鮮明に覚えているのに、美空の表情だけがわからない。

 美空は笑っているのかな? 美空は僕の前で笑っているのかな?

 グローブの先でボールが弾かれ、僕の後ろに転がっていく。

「こたの下手くそー」

 美空の声を背中に聞きつつ、草むらの中のボールを追いかける。

 やっとのことでそれを拾って振り返った時、美空はもう僕の前にいなかった。

「ミク?」

 遠くに見えるユニフォーム姿の美空は、中学生の美空だった。僕に背中を向けて、誰かと並んで歩いて行く。

「リュウ……」

 龍介と並んで去って行く美空は、とても幸せそうに笑っていた。


「コタ! コタってば! あんたまだ起きなくていいの?」

 母さんの声で目が覚める。

「……今、何時?」

「もうすぐ七時よ」

「……七時!」

 がばっと布団を蹴って起き上がる。全身に冷や汗があふれ出る。

「なんで起こしてくれなかったんだよ!」

「何度も起こしたわよ。それなのにあんた起きないから」

 やばい。やばい。完全に遅刻だ。

「今日試合なんでしょ? 何時集合なの?」

「七時!」

 ユニフォームを羽織って、帽子をかぶる。バッグをひったくるようにつかんで、階段を駆け下りる。

 最後の大会の日に遅刻だなんて……何やってんだ、僕は。

「コタ! 水筒水筒!」

 母さんの声に振り向きもせず、僕は玄関から飛び出した。


 重いバッグを肩にかけ、いつもの川沿いの道を走る。

 だけど上手く足が回らなくて、なんだかまるで夢の中を走っているみたいだ。

「夢……」

 あんな夢を見たから、寝坊したんじゃないか。

「くそっ、あいつら!」

 逆ギレのようにあのふたりを恨みながら、朝の日差しの中を走る。そんな僕の耳に、自転車のベルがチリンと鳴った。

「おい! 後ろ乗れよ!」

 キッとブレーキの音がして、僕の隣に自転車が止まる。

「そんな荷物持って、ちんたら走ってたら、間に合わないぞ」

 どうせもう間に合わないし……目の前の龍介を見ながら、心の中でつぶやく。

「ほら、早く乗れ! 川田に怒鳴られてもいいのか?」

 頭の中に、僕のことを怒鳴り散らす川田先生の姿が浮かんで、身震いする。

 ああ、最悪だ。頑張ります、なんて言った翌朝にもう遅刻だなんて……。

「コタ! 早く!」

 龍介の声にうながされて、自転車の後ろに座る。

「まったく……時間を守るってのは、基本中の基本だぞ?」

「……わかってる」

 ふっと龍介が笑って前を向く。右足でぐっとペダルを踏み込み、自転車が走り始める。

 飛ぶように流れる見慣れた景色。頬に当たるじっとりとした風。帽子のつばを上げて空を見上げたら、今日も僕の上に、青い空が広がっている。


「ミクはさ……」

 突然龍介がつぶやいた。昨日の自分の捨て台詞を思い出し、どうしようもなく恥ずかしくなる。

「おれにとっては妹みたいなもので……すごく、可愛いと思ってる」

 僕は黙って龍介の背中を見つめる。

「だからつい、頭なでたり、声かけたりしちゃって……だけどもうあいつも、中三なんだよな。いつまでもちっちゃい女の子だと思ってたおれが、悪かったのかもしれない」

 龍介の声が胸に響いた。深く、深く……そしてジタバタしていた自分が、ものすごく子供に思えてきた。

「……べつに、リュウは悪くないよ」

 龍介の後ろでぽつりとつぶやく。ちらりと振り返った龍介が、僕に向かって笑いかける。

「でもやっぱり、今日は見に行くのやめとくよ。確かに少し不純だった。お前らの試合を口実に、マネージャーの彼女を誘いたいって思ってた」

 そんなふうにあっさり認めてしまう龍介は、やっぱり潔いスポーツマンで、そして僕より少しだけ大人だった。

 ブレーキの音を立てて自転車が止まる。僕たちはもう校門の前についていた。

「じゃあ。陰ながら、後輩たちを応援してるから」

「リュウ……」

 自転車から降りた僕の耳に、高い声が聞こえてきた。

「コター! あんた、なにやってんの!」

 美空だ。ユニフォーム姿の美空が、僕に向かって駆け寄ってくる。

「え、あれ、リュウちゃん?」

「遅刻の弟を送ってきた。あとはよろしくな、ミク」

 龍介が小さく美空に笑いかけ、自転車をUターンさせる。

「おれは練習が入って見に行けなくなったけど、お前ら、絶対勝てよな?」

 僕は黙って隣に立つ美空を見た。美空は唇をきゅっとかみしめ、龍介のことを見つめた後、いつものように笑顔で言った。

「うん! 頑張るよ!」

「よし!」

 龍介が笑って、颯爽と自転車を走らせる。僕はその背中を見送りながら心の中で思う。

 かなわないな。やっぱりあの兄貴には……だって、爽やかすぎるだろ?

 そして美空がこんな兄貴に惹かれたわけも、わかる気がする。


「いてっ」

 突然頭を殴られた。隣で美空が僕をにらんでいる。

「サイテー。最後の大会の日に遅刻とか、ありえないし。もうみんな集まってるよ?」

「川田は?」

 美空がふうっとため息をつく。

「お腹壊したから遅れてくるって」

「……助かった」

「もうっ! そんなんだから、コタはダメなんだよ!」

 もう一度僕の頭を小突いて、美空がグラウンドに向かって走り出す。

 朝陽を浴びる美空の背中。その背中はとても小さい女の子の背中で……。

 僕はそんな美空に、なにをしてあげられるんだろう。

「ミク」

 僕の声に立ち止った美空が、ゆっくりと振り返る。

「あきらめるなよ」

「え?」

「最後まであきらめるなよ。リュウのこと」

 美空の顔がみるみる赤く染まっていく。

「おれ、応援するから。リュウがマネージャーの子にフラれて、お前とうまくいくように」

「バカ!」

 恥ずかしそうに目をそらし、美空が背中を向けて僕に言う。

「今そういうこと言わないでよ! 応援してくれるなら、あたしがヒット打てるように祈ってて!」

「うん……」

「声が小さい!」

「うるせぇな! ヒット打て! 絶対打て! お前ならできる! 最後まであきらめんな!」

 美空が吹き出すようにぷっと笑って、僕を残して走り出す。

 そうだよ。お前ならできる。その小さな体で、今まであんなに頑張ってきたんだから。

 グラウンドを見ると、玲二が僕に向かって手を振っていた。その周りでは、あきれたように笑っている仲間たちの顔。

 美空もそこへたどり着くと、こちらを振り返って大きく叫んだ。僕の大好きなあの笑顔で。

「コター! 早く来いー!」

 帽子を深くかぶり直し、バッグを肩にかけ直す。そして僕はその輪に向かって、小さな一歩を踏み出した。

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