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「今日はいつもより遅いんだな」

「川田先生の話が長引いちゃったから」

「ああ、あの先生、気合入ると止まらないからなぁ」

 土手の上で立ち話をしている、ふたりの声をぼうっと聞く。

 ここに自分のいる意味なんてないんだから、さっさと家に帰ればいいのに、それさえできずに、僕はその場に突っ立っていた。

 龍介の声に美空が微笑む。女の子らしい、はにかんだような笑顔。僕の前ではあんな顔、絶対しないくせに。

 意味もなく石ころを蹴飛ばした僕の耳に、龍介の声が聞こえてきた。

「明日の試合、おれも見に行くよ」

「えっ、やだ、来なくていいよ」

 美空が慌てて両手を振っている。

「だって……リュウちゃんに見られたら、あたし緊張しそうで……」

 美空の声に龍介がおかしそうに笑う。

「大丈夫だよ。ミクはいつも通りやればいい」

「ムリ! 絶対ムリ! 来なくていいよ、リュウちゃん!」

「そんなこと言うなよ。おれだって後輩の試合は見に行きたいし、それに……」

 龍介がそう言ってから、すっと美空から視線をそらす。

「もう約束しちゃったんだ。ウチのマネージャーの子と、一緒に行こうって」

 ゆっくりと顔を上げて美空を見る。美空は一瞬ぼうっとしたあと、すぐにいつものように笑って言った。

「マネージャーって女の子、だよね? リュウちゃんの彼女だったりして」

「まさか。そんなんじゃないよ」

「デートだったら、もっとイイところに行きなよ。あたしたちの試合なんかじゃなくて」

 龍介が軽く笑って、美空の肩をぽんっと叩く。

「じゃ、おれはもう少し走ってくるから。明日頑張れよ」

 美空がこくんとうなずいている。

「おれがバッチリ応援してやるからな」

 走り去って行く龍介の背中をにらむように見送った。

 バカ。鈍感。なんで気づかないんだよ? 美空の気持ちを……なんでお前は気づかないんだよ?

「……ミク」

 美空は僕に背中を向けていた。

「ミク」

 黙ったまま動こうとしない美空。

「あ、あのさ。べつに彼女って決まったわけでもないし……」

「慰めてくれなくてもいいよ」

 美空の声がじっとりとした空気に浮かぶ。

「そんなふうに慰められたら……なんかあたし、余計ミジメじゃん?」

 美空が背中を向けたまま歩き出す。僕に振り返ろうともしないで。

 あたりはいつの間にか、すっかり闇に包まれていた。


「明日絶対、見に来んな」

 リビングの入り口で、ランニングから帰ってきた龍介をつかまえた。

「え?」

「明日の試合、絶対見に来るなよ!」

 僕の声に、エプロン姿の母さんが口を出す。

「コタ、なに言ってるの? せっかくお兄ちゃんが、あんたたちの試合を見に行ってくれるっていうのに」

「そんなこと、誰も頼んでないし」

 母さんが僕に向かってため息をつく。

「イヤねぇ、この子は。自分が試合に出られないから、拗ねちゃって。リュウ、こんな子ほっといて、美空ちゃんの応援でもしてきてあげなさいよ」

「だから……ミクだって、来るなって言っただろ! 絶対来るなよ!」

 不思議そうな顔つきで僕を見ている龍介。そんな龍介に背中を向けて階段をのぼる。

 自分の部屋に駆け込んで部屋のドアを閉めようとしたら、それを強い力で止められた。


「コタ。お前なんでそんなに、おれが行くのを嫌がるんだ?」

 いつの間にかついてきた龍介が、じっと僕の顔を見る。

 それは……それはお前が、女の子を連れてくるなんて言うからだろう?

「……彼女じゃねぇの?」

 龍介から視線をそらして小さくつぶやく。

「さっき言ってたマネージャーの子って……本当は彼女なんじゃねぇの?」

「違うよ。彼女じゃない」

 握ったままのドアノブに力をこめる。

「おれが勝手に好きなだけだ」

 僕の頭に美空の顔が浮かんだ。美空がこれを知ったら……どんな表情をするだろう。

 哀しそうにうつむくだろうか。いや、違う。美空はきっといつもみたいに、無理して笑顔を作るに決まってる。

 ドアを押さえていた手を龍介がゆるめた。それと同時に、僕もドアノブを握る手をゆるめる。なんだか体中の力が、一気に抜けてしまったみたいだ。

「明日後輩の試合を見に行くって言ったら、わたしも見てみたい、なんて言うから誘ったんだ。それがそんなに悪いことか?」

 僕はなにも言わずに黙っていた。黙っていたけど、胸の中がもやもやして、何もかもがもどかしい。

「それともお前……そんなにおれのことが、キライか?」

 はっと、何かを感じて顔を上げる。僕の目の前に立つ龍介は、なんとも言えない複雑な顔つきをしている。

「はっきり言えよ。おれのことがムカつくんだろ? おれのやることすべてに腹が立つんだろ?」

「そんなこと……」

 言ってない。言ってない。言ってないけど……。

「思ってるんだろ?」

 龍介が僕の前で、息を吐くようにふっと笑う。

 どうしてだろう。あんなにキライな兄貴だったはずなのに……。今、目の前に立つ龍介の顔を見ていたら、どうしようもなく胸が痛い。

「わかったよ。明日は行かない。ミクによろしく言っといてくれよな」

 僕に笑いかけた龍介が、音も立てずに階段をおりていく。

 これでいいのか? こんなんでいいのか? 違う、違う。僕が言いたいのは、こんなことじゃない。

「リュウ!」

 階段の途中で龍介が振り返る。

「す、好きな子がいるんだったら……思わせぶりな態度、やめろよな!」

 意味のわからない顔をして、龍介が僕を見上げている。

 わかれよ。わかってくれよ。どうしてわからないんだよ。美空の気持ちが……。

「頭なでたり、優しい言葉かけたり……そういうの全部、もうやめろ!」

「コタ?」

 叫びながら自分がミジメになって、部屋のドアを力任せに閉めた。

 薄暗い部屋の机の上に、窓の外の街灯の灯りが、うっすらと差し込んでいる。そしてそこに見えるのは、美空の部屋にあったものと同じ写真立て。

 その中でも僕たちはやっぱり笑っていて……ゆっくりと近づいた僕は、それを机の上に静かに伏せた。

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