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生まれて初めてのキャッチボールの相手は、お父さんでもお兄ちゃんでもなかった。
「こたー! なげるよー!」
小さな手が大きく動いて、白いボールが宙を飛ぶ。
あわててグローブを差し出したら、ボールがすとんとその中に落ちた。
「ないすきゃっちー! うまいうまい、こたろー!」
僕の目の前でぴょんぴょん飛び跳ねて、自分のことのように嬉しそうに笑う女の子。
その笑顔をもっと見たくて、僕は思いきりボールを投げる。
「ないすぼーる! うまいよ、こたー!」
青く澄んだ夏空に、湧き上がる白い雲。風に揺れる緑の草と、あの子の小さな赤いグローブ。
そしてそれが僕の中で一番遠い、「やきゅう」の記憶だった。
***
まだ朝の七時前だというのに、じりじりとした日差しが肌に照りつける。
気の早い蝉たちは、暑苦しい鳴き声を、もうあたりに響かせている。
「今日も猛暑日になるでしょう。外での激しい運動は控えてくださいね!」
テレビの中でそう言っていたのは、朝からハイテンションなお天気お姉さん。
顧問の川田先生は、あのお姉さんの警告を聞いただろうか。
「暑っ……」
中学校へと続く土手の上を歩きながら、アンダーシャツの襟元を引っ張り上げて汗を拭う。
まったく……こんな暑い日に、こんな暑苦しいユニフォームを着て練習だなんてありえない。熱中症になって倒れたら、先生、責任とってくれるんだろうな?
重たいエナメルバッグを肩にかけ直す。ため息をつきながら顔を上げたら、憎らしいほど青い空が、僕の頭の上に広がっていた。
「コター! おはよっ!」
背中にかかる大きな声。ああ、ここにももう一人、朝から元気なヤツがいたんだっけ。
松村美空――僕と同じユニフォームを着たこいつは、ウチの野球部でただ一人の女子部員だ。
「……おう」
「なーに? そのテンション低い声。これから練習だってのに」
これから練習だから、テンション低くなるんだろう? こんな暑い日はエアコンのきいた部屋で、ゲームでもやっていたいよ。
「もうすぐ最後の大会なんだからさ。もっと気合い入れていこう、よっ!」
隣に並んだ美空が、僕の背中をバシッと叩いてにっこり微笑む。
日焼けした肌。野球帽に隠れた短い髪。女の子の中でも小柄な体に、デカいエナメルバッグを背負って、練習中は誰よりも大きな声を出す。
パワーはないけど、正確で素早い守備を買われて、美空は中学最後の大会メンバーに選ばれた。
「気合いなんか入れても、意味ねーし」
「なんでよ?」
「おれはお前とは違うんだよ」
吐き捨てるようにそう言って、早足で歩き出す。練習なんか行きたくなかったけど、このまま美空といたら、僕はたぶんもっと嫌なヤツになる。
わかってる。わかってるんだ。いつまでたっても試合に出られない僕は、美空に嫉妬してるって。
「あー、その通りだね。コタローは練習キライだもんね」
そんな僕の背中に、美空の澄んだ声が響く。
「暑いのもキライ。寒いのもキライ。疲れるのもキライ。怒られるのもキライ。だからいつまでたっても試合に出られないんだよね?」
こいつ……そこまではっきり言うか? まぁ、間違ってはいないけれど。
立ち止まって、にらむように振り返る。美空はにこにこ笑いながら僕を見ている。
「だけどさ。野球は好きでしょ?」
胸の奥で、とくんと何かが音を立てた。遠い記憶が、かすかに頭の隅を横切り消えていく。
「だから、こんなに長く続けてるんだよね?」
「……うるさいな。野球なんか好きじゃねぇよ」
「もう、素直じゃないんだからー、コタは」
美空がそう言って声を立てて笑う。僕はそんな美空から顔をそむけて歩き出す。
「空……今日も青いねぇ……」
僕の背中で美空が言った。たぶん、ずり落ちそうな重たいバッグを、何度も肩にかけ直しながら。
顔をしかめて空を見上げたら、白い飛行機雲がすうっと、僕たちの上を横切っていった。