開式
縦読み推奨・伝奇・残虐注意
月が怖いと、彼女は言った。
双子坂は、玄乃市のほぼ中心に所在している。東西に伸びた二つの坂を総称して双子坂といい、坂というよりは丘のような傾斜だ。その双子坂の北側、通称兄坂の、丁度中腹あたりに、烏森マンションは位置している。
そのマンションのとある一室に、僕と彼女は居た。彼女はベランダに出て、首が痛くならないかと思うほどに、夜空を見上げ続けている。僕はといえば、室内のソファに腰掛け、忙しなく視界を巡らしている。時々彼女を見ては、一向に動く気配のない彼女の様子にため息を漏らす。季節は冬だ。彼女の身体は冷え切っているだろう。開いた窓から時折吹き込む冷風が、僕の身体も少しずつ冷やしていった。
僕が幾度目か、彼女に目を遣り、今晩八回目のため息を吐いたとき。
彼女が、告げた。
「―月の満ち欠けを見るたびに、わたしは震えが止まらなくなるの」
僕は彼女の方に目を遣った。実際彼女の手は震えていたと思う。それが寒さの所為でない事は明白だった。表情を窺う事は出来なかったが、その声から感情を探る事は容易だった。
彼女は、怯えている――
彼女が何かに恐怖しているのを目撃したのはそれが初めてだった。彼女は基本的にあまり感情を露にしない方だ。それでも、蟻が他の虫の死骸を運んでいたり、不運にも車に撥ねられて車道の隅に追いやられた猫の死体を見たり、頻繁に起こる殺人事件のニュースを見たりと、そんな時には和らげな表情を見せる。怒る、とまではいかずとも少し拗ねたり、嫌悪や侮蔑の情を浮かべるときだって、少しはある。
しかし、僕は今まで、彼女が何かに恐怖しているところを見たことが無かった。強いて言えば、彼女の家の向いの宅で飼っている犬に対しては、見掛る度に嫌そうな顔をするが、それは怯え、というよりは敵対心に近いものだった思う。
月が怖い。まるで狼男のような事を言う。怖いならば今、食い入るようにして、夜空に恍惚と浮き出た満月を眺めているのは、どういう心境からだろうか。
「どうして月が怖いんだ?」
僕は問いかけてみた。色よい返答などは期待していないが、彼女の珍しい様子を目撃できた興奮からの好奇心がそうさせた。
案の定、返答は無く、彼女は月を眺め続ける。僕は彼女から視線を外し、ガラステーブルの上に開いて置かれたゴシック誌の一ページを見た。最近連続している、通り魔猟奇事件の事が、大きく取り上げられている。この事件については、連日ニュースで報道されて、学校から注意も呼びかけられ、更には独自に調査も行っている。今更こんなうそ臭い雑誌の情報を取り入れる必要も無いと思い、雑誌を手に取ってパラパラとページを捲った。
ちなみに、この雑誌は僕の物でも無ければ、彼女の物でもない。この部屋の持ち主の物だ。つまり、この部屋は僕、もしくは彼女の部屋では無く、第三者、名も顔も知らぬ赤の他人の所有物である。僕らは時折、家を遅くまで留守にしている人間の家に勝手に上がりこみ、夜が更けるまでそこに居続けることがある。家主が帰ってこない場合は、夜が明けて、朝になるまで居ることもある。その行為は、空き巣などではなく、ある種の調査のようなものだ。この調査は、なるべく頻繁に行った方がいいのだが、彼女自身はあまり調査を好んでいないらしく、二週間に一度、行う程度だった。
今回の調査は、ある程度プラスにはなったのだろうか。彼女が行うとき、いつも無言なので、成功しているのか失敗しているのかを横から見て判断するのは難しい。それでも、ある程度の表情の変化から、僕が少し手伝った方がいいか、それが不要かはなんとなくわかった。
今日の彼女は、いつもと違った。調査は既に終わったはずなのに。一向に戻る気配が無い。確かに、家主が戻ってくるまでは、無理に帰る必要はないのだが、いつもの彼女は、行為が終わったら。無駄に時間を浪費せずに、すぐに帰っていた。
それが今日は、調査が終わったあとは、ベランダに出て、じっと月を眺めている。その行為に何の意味があるのか僕にはわからない。この行為自体が調査の一環として新しく組み込まれたのなら話は別だが、そういう話は聞いていない。しかし、今そうして佇んでいる彼女に声を掛けるのも躊躇われたので、僕はこの通りソファに座って暇を持て余しているのだ。
黙々と雑誌を読み進めたが、案の定僕の知らない新しい情報は無かった。それでも、まだニュースでは発表されていない記事があったので、一般の人への情報としては十分だろう。
連続猟奇事件の記事に続いて、タレントのゴシック関連の記事を読んだ。はっきり言って興味など皆無だったが、他にすることも思い浮かばなかった。
「……女優Kと俳優T、熱愛発覚…だってさ」
彼女もその手の記事に毛頭興味が無いことは百も承知だが、彼女の反応が見たくて聞いてみた。聞いてみて顔を上げると、既に彼女は僕の目前に居た。
「……帰ろう。戻ってきたよ」
気付かないうちに目前に立たれて、正直面食らった。いい加減気配を消して動くのはやめて欲しかった。
「……ああ。寒くないか?」
予想通り、僕の投げかけた話題は完璧にスルーされたが、ようやくこの状況に動きが見られて、よかったと思う。
「大丈夫。もうとっくに体は冷え切ってるから」
季節は冬だし、今はもう夜も遅い。部屋に入り込む風からも、外が相当寒いことは十分予想できる。彼女の服装は基本薄着で、それは今日も例外ではなかった。このままだと体調を崩す可能性があると察して質問したのだが、返答は参考にはならなかった。まぁ、先ほどまでずっとベランダに出ていたことを考えると、今更、というか無意味な質問だったのかもしれない。
「そうか……まぁそうだろうね」
「そんなことより早く帰ろう。もうマンションの入り口に居るよ」
彼女はそう言うと、玄関のドアを開けて、薄着のまま出て行ってしまった。
彼女の反応からして、恐らくここの住人が、最初の選択者なのだろう。もしそれが本当であるのなら、彼女にとっても僕にとっても、住人と物理的に接触する、という事は確かに避けたい事態だ。だがそれを優先するからと言って、彼女自身が不具合を起こしては本末転倒である。一応の心配をした僕は、リビングの椅子の背凭れに掛けてあったダウンジャケットを拝借して、彼女の後を追った。住人に申し訳ない、という罪悪感は、この調査を行うようになって直ぐに消え失せた。そんな悠長な事を言っている余裕は、恐らく微塵も無いのだ。
敢えて言うならば、余裕が無いことを考えるような時間すらも惜しい程、状況は加速し始めている。ほぼ間違いなく、ここの住人は、その類の人間だ。彼女が執拗に速く帰ろうとしている事が、それを表している。僕と彼女は、やっと一人目を探り当てたのだ。ここの人間に、そうであるという自覚があるにせよ無いにせよ、彼女とその人間との接触は現段階では絶対に避けるべきだし、これから先の行動一つ一つにも細心の注意を払うべきだ。
きっと、その覚悟は、全てが始まる前に、完了していたのだ。
―より高くまで昇りたければ、始まりはより美麗に――
―より美しい有終を飾りたいのなら、惜しみない努力を――
―より強い礼賛には、より尊き死を以て対峙せよ――
この戦いが始まった時、僕が彼女に出会った時より、契約と邂逅は始まっているのだ。全ての葛藤を覚悟とし、あらゆる贖罪を償い収める為に、この夢の様な物語を、僕たちは読み進めていく。
他に、方法は無いのだ。
初めて地に立った仔馬の様に、全てを知らない赤子の様に、手探りをしながら。止まる事は許されず、止める事は選択出来ない。
進んでいく具現。
誰かが敷いておいた枕木の上に、自らレールを引いていき、その上を堕ちる様に滑走していく。その初めの段階は、たった今、僕らが「一人目」を探り当てた事で、引かれた。
初めの一歩だ。
より美麗なる始まりを望むのならば、この一歩は、ひたすら高く、大きく跳ばなければならない。
三日後。
恐らく三日後には、彼女と「対象」が既に対峙しているだろう。それまでの七十二時間は、僕らと対象に与えられた準備期間だ。恐らくは、彼女も僕も、やるべき事は何もない。ただただ、感情を昂ぶらせて獲物への執着を高めればいい。
相手がまだ自覚を持っていないのなら、悪いが、彼女は容赦出来ない。
自覚を既に持っているのなら、彼女は抑える事が出来ない。
どちらにせよ、これが始まりなのだ。開会の高笛の音に相応しく、飾られるであろう有終に適合するような、華々しい見世物にしなければならない。その事は、既に彼女も重々理解しているはずだ。
そして、その美麗なる開会の為には、僕もただ傍観者として居るわけには行かなくなったのだ。
数歩離れた部屋の玄関から、振り向きながら僕を催促する彼女の無表情が、僕にそう、諭していた。
入る時には気にならなかったが、帰り際に、部屋番号の書かれたプレートを見ておいた。状況は変わったのだ。今は、ここの住人の情報は少しでもあった方がいい。
1026と書かれたプレートの下に、カタカナで、サトウ、と書かれていた。