(八)
(八)
翌朝になって、ヴィンセントから直々のお説教を受ける。
こう言っては何だが、正直飽いた。前夜は前夜で両目に涙を滲ませた若い侍従に、半分怒ったみたいな説得を受けていたのだ。
誤解を解こうにもこっちの話は聞いておらず、困り果てた末、あたしにできたのは「はい、はい」と真剣な顔で頷く事だけだった。
因みにあたしが今身を包むのは、あのボロボロの服ではなく、ドレスでもなく、裾と袖の長いワンピースにベストを合せた一般的な町娘の格好だ。コーディーが用意した。はいはいと適当に頷いていたら、これを着る事になっていた。謀られた、かも知れない。
昨夜の内にコーディーが報告していたらしい。朝一番に呼び出されるなり、あたしは落ち着く間もなく直立で叱られる事になった。
不本意だ。あたしのせいじゃないし、飛び降りたのもあたしじゃない。
余程ワイルダーの訪問を告げ口してやろうかと思ったが、思い留まる。ヴィンスに殺される、と言った顔を思い出したからだ。あれはちょっと、冗談と思えないものがあった。
この状況の元凶はしかし、ヴィンセントの少し後ろに素知らぬ顔で控えている。ワイルダーは怪我もなさそうで、それもまた気に入らない。不利益をこうむっているのは、あたしだけじゃないか。
あなたが無事でいられるのは、こうしてあたしが黙ってて上げてるからなのよ。解ってるでしょうね?
せめてそんな視線を送ってみたが、届いているかどうかは怪しかった。飄々とし過ぎて、表情が読めないのだ。
実際はただの親切心で黙っている訳ではなかったから、恩義を感じて貰えないと少し困る。一方的に売った恩を盾に、何とか聞き出せないかと考えていたからだ。
ワイルダーが、何故あたしを邪魔だと思うのか。
この人は多分、自分なりに理屈があって、それで納得しなければきっと指一本動かさない。そう言う男だ。
それが、あたしを排除する為に動いた。邪魔だからと、殺すのではなく逃がしてしまえと。
その理由を訊いてみたい。
「とにかく、もう二度と危険な真似はしないと約束を」
最後に、ヴィンセントは強く言った。
それはもっともな言葉だったが、果たして侵略軍の将が、亡国の王族に向けて言うべき言葉だろうか。
まるで、親が我が子に言い含めてでもいるようだ。お互いの立場として絶対におかしいと、少し悩む。釈然としないまま上げた視線が、ワイルダーの藍色の眼にぶつかった。
その瞬間、昨夜からのあたしの疑問はすっかり溶けてなくなった。
……ああ。
ああ、そうか。
あの気ままな男が、翳った瞳であたしを見ていた。すぐにその暗い表情は消えてしまったが、理解するには充分過ぎる。
ヴィンセントだ。
ワイルダーの理屈の基準。行動する動機は、全てヴィンセントに帰結する。
そう言う事なのだろう。だから彼があたしの身を心配した時、ワイルダーは疎ましげな眼を向けた。あたしの存在が、ヴィンセントを躓かせるとでも言うように。
あたしをヴィンセントの傍に置いてはいけないと、ワイルダーは考えているのだ。
「マチルダ?」
「……ごめんなさい、何だったかしら」
訝しげに呼ばれて、やっと自分がぼんやりと立ち尽くしていた事に気が付いた。
ヴィンセントは探るふうな眼をこちらに向けたが、問い質そうとはしなかった。代りのように、執務室のドアを開く。
「途中までお送りします、と言ったんです」
部屋の隅では憂える牙が、主の言葉に密かにため息をついた気がする。
「庭に寄りたいわ」
ふと思い付いてそう言った。
回廊を支える柱の間に、庭が見えたからだ。
ヴィンセントは、用事のついでに送ろうと言ったようだった。そしてあたし達の後ろには、赤毛の護衛と鎧の兵士が二人いる。だからあたしはここに残り、ヴィンセントはクライヴと行ってくれればよかったのだ。虜囚を一人にするのは拙いだろうが、監視役に兵士を残せば問題ない。
なのに、彼も一緒に庭に降りた。
高い位置にあるその顔を、あたしは眉を歪めてポカンと見上げる。理由がさっぱり解らなかった。
朝のやわらかな陽光の中、秋風がふわりと頬を撫でる。
それはグレーの生地で仕立てたヴィンセントの上着に入り込み、膝程までの裾を緩やかに揺らす。
背中で腕を組み、わずかに首を傾けて男はこちらを見下ろした。解らないと言うよりむしろ、どうかしたかと問うかのようだ。
彼は腰に剣を帯びてはいたが、鎧は着けていない。上着と揃いのズボンを黒の長靴にきっちり収め、黒いベストの上に緩くタイを垂らしている。
戦場に出るべき装いではない。その為だろう。まるで自国の貴族と庭の散策にでも出るようだと、あたしは錯覚してしまいそうに思った。
何か言いたかったが、何も思い付かない。短い息を吐いて喉まで出掛かった罵倒を捨てると、石垣にあの木戸を探した。
「ここは、特別な場所ですか?」
木戸を潜った先は、小さな庭だ。外と同様に荒れており、特別と言う趣ではない。
なのにヴィンセントがそう訊いたのは、あたしがこの庭を訪れるのが二度目だからだろう。
「母の庭よ」
ゆっくりと答える。
と、庭に向けた眼の端で金色が揺れた。あたしの隣で同じように庭を眺め、男は陽の光を眩しく受けてそっと呟く。
「そうでしたか」
眼を閉じれは、父が母の為に整えさせた美しい庭の風景が見えそうなのに。どちらに眼を遣っても、生きた植物は雑草しかない。
「あたしには思い出があるけれど、あなたには詰らないでしょう」
「確かここは、先日貴方が救出され損ねた庭ですね」
「救出って言うのかしらね」
牢から出て、一度目に庭を訪れた時の事だ。突如現れた腕に引き摺り込まれたが、元々あたしはこの庭に入る為のドアを探しているところだったのだ。
「バッカスと言いましたか。あの男の事を、少し調べさせました」
「ただの下男よ」
警戒する必要はないと、そんなつもりで言った。すると、ヴィンセントは驚いたふうに薄青い瞳をあたしに向ける。
「ご存知ないのですか」
「バッカスの事? 何を?」
「あの男は、足が悪いでしょう」
「ええ」
それはよく知っている。
バッカスは左足を庇うから、左右で足音の歩調が違った。
ヴィンセントはあたしから眼を離し、言葉を続ける。
「足を悪くしたのは、この城に上がってからだそうです。地下牢に閉じ込められた姫に同情的で、その度が過ぎると軍から厳しい調べを受けたとか」
代りに、あたしが隣の男を見詰めた。
淡々と語るその横顔を。
「……初めて聞く話だわ」
「本当に? 足を潰されてからは隠していた様ですが、彼は最初から貴方に好意的だったらしい」
そんな話は知らない。
バッカスからも、一言だって。
「知らないわ」
横顔から逸らした視線を、足元に落とす。
あたしの表情が険しくなった事に、ヴィンセントは気付いただろうか。
「バッカスが城に上がったのは、あたしが地下牢に遣られてからのはずよ」
あたしを知っていた訳はない。そんな下男が、軍が疑うような事をするはずがないのに。
「足を潰すなんて……」
そうした人間はこの場にいないが、あたしの声には非難の響きが色濃く滲んだ。
「ですが、疑わしいのは事実でしょう」
意外な言葉に、あたしは再び眼を上げた。
疑わしい?
「事件以降、誰もが貴方を恐れていたはず。あらゆる意味でね。女性の身で、戦い慣れた一個小隊を一夜で殺し尽したのだから無理もありません。しかしだからこそ、何の関わりも持たない者が貴方に同情するとは考え難い。そうは思われませんか?」
「いいえ。それは違うわ」
それは、事情を知った者の考え方だ。
城内の人間は、確かにあたしを恐れただろう。この城の中で、あたしは余りに多くを殺したから。
けれども父は、全てを隠した。それが石に関わる事だった為に、あたしが臣下を殺した事実は隠蔽されたのだ。
だから事件の後で城に上がったバッカスに、それを知る術はない。
地下牢にいるのは殺人者ではなく、さしたる理由もなしに幽閉される憐れな姫と、彼の眼には映ったのかも知れなかった。
この考えを述べると、ヴィンセントは呆然としたように、驚きを隠さず再びあたしに視線を合せた。
「そう信じておられるのですか? 事件の噂は一切、城郭の外に出ていないと」
「そんな事、父が許さないもの」
当たり前だと答えると、ヴィンセントは黙り込んだ。
しばらくして、彼は口元に遣った手の中にため息をつく。
零すように小さな声で言ったので、聞き間違いだと思った。
「余り、愛しい事を仰らないで下さい」
そして、自覚はしていないだろう。
ヴィンセントはこの言葉を言い終えるまでのわずかな時間、心臓が止まりそうな程に優しい顔を垣間見せた。
あたしは、眼を逸らす。
「……違うと思うのね」
「事実、秘密が守られていたなら私は今ここにはいなかったでしょう。噂と言うのは、御する事のできないものです。それが金や醜聞に繋がれば、尚の事」
では、バッカスはあたしの事を知っていたのだろうか。だとしたらヴィンセントの言う通り、その好意には理由があると考えるべきだ。
「私でも、彼を疑います」
「そうね」
「リシェイドの兵が完全に制圧した城内に忍び込んでまで、貴方を連れ去ろうとした。これは尋常な事ではありません。余程の理由があるのでしょう」
その余程の理由と言うものに、あたしは心当たりがひとつしかない。
バッカスもまた、石の為にあたしに近付いたのだろうか。




