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(四)

   (四)


 惜しい事だ、と。呟いた気がする。

 ヴィンセントに、しかしそれを確かめる事はできなかった。

 ぱっと頬から手を離したかと思うと、あっと言う間に自分の上からあたしを退けた。そして大きな声を張り上げて、部下の名を呼ぶ。

「ワイルダー!」

 いきなり何事かと思ったが、すぐに解る。そこにいたのだ。

「スマン、邪魔したか」

「冗談は嫌いだ」

「安心しろ。オレはいつでも本気だぞ、ヴィンス」

 どう見ても茶化しているとしか思えない顔で、トンと軽く地面に降りた。石垣の上からだ。

 驚かされる。現れたのは、三十半ばの大男。なのに、この身の軽さは何だろう。

 肩まである茶色の髪を頭の後ろでひとつに束ね、鎧の上に擦り切れた革の上着を引っ掛けている。上級軍人と言うには、余りに無頼。この男が、もうひとりの獅子の牙か。

 大男は木戸に噛ませたつっかえ棒を取り除き、石垣に背中でもたれる。

 ヴィンセントに助け起こされながら盗み見ると、剣の柄に腕を載せてニヤニヤとこちらに視線をよこした。

 やっと戸が開き、慌てた様子の兵士達が雪崩れ込んで来る。それにあたしを任せ、ヴィンセントはこっそりとワイルダーの傍に寄った。隅だから誰も気付かないが、拳で厚い胸を叩く。そして潜めた声で。

「仮にも相手は一国の姫だ。不躾な真似は止してくれ」

「そりゃ失敬。でもな、ヴィンス。その姫さんを勝手に触るのは、不躾じゃないのか?」

 泣く子も黙る北限の獅子。

 そんなふうに思っていたが、どうだろう。

 吹き出すように笑った男を、ヴィンセントは止められずにいる。追い詰められてやっと出たのが、「うるさいな!」の子供染みた抗議の言葉。

 あたしは首を傾げながら、木戸を潜って庭を離れた。


   *


 母から受け継いだのは、この黒い髪とグレーの瞳。

 あたしは早世した王妃の産んだただひとりの子供で、だから父はあたしを甘やかした。

 王家を継ぐのは王が側室との間に儲けた兄達だと決っていたが、食卓で父の隣に座るのはあたしだった。狩りで弓の腕前を褒められるのもあたしで、外交の席で他国の客人をもてなす事さえ許されていたのだ。

 兄達には、さぞや疎ましかっただろう。

 王族の女は他国の王家に嫁ぎ、子を成す事でやっと安寧を得られる。でなければ、国内の有力な臣下を繋ぎ留める道具とされる。そう言うものだ。

 けれどもそうしなかったあたしの存在は、ただひとつ、父の寵愛によってのみ許されていた。

 それがあの夜、全て終った。

 あたしはベッドの上で膝を抱え、自分の肩に腕を巻き付けた。

 窓を一杯に開いて外気を取り込んではいたが、室内は決して寒くはない。けれどもひとりでいると、そうせずにはいられなかった。ずっと冷たく暗い地下牢にいた為に、骨の中まですっかり凍えてしまったのだろうか。

 と、そこにノックが響く。ゲストルームのドアを開いて、遠慮がちに顔を覗かせているのはコーディーだった。

「ハーディー将軍がお呼びなのですが……」

 あたしは首を傾げる。窓から外に眼を遣ると、太陽が真上にある為に木々も人も影が短い。昼食の時間だ。こんな時分に呼び出すなんて、余程急ぐ話だろうか。

 囚われの身分では、急用と言われても悪い考えしか浮かばない。

 だが、この子にそれを言っても仕方ないか。ベッドから降り、平静を装う。

「そう。じゃあ、行きましょ」

「あ、あの、マチルダ様」

 部屋を出ようとドアに向かうと、コーディーは慌ててあたしを呼び止めた。

「どうかそろそろ、お召し替えを」

 この囚人の服は脱げと、そう言っている。身分としては、今も囚人。合っていると思うのだが。どうやらあたしの世話を命じられているコーディーは、そのあたしがいつまでもみすぼらしい格好でいるのが我慢ならないようだった。

 幼さの残る顔で、世話係は必死そうにこちらを見詰める。

 その様はいじらしくて、あたしは少し、心が揺れた。

 ほんの、少しだけ。

「コーディーはまた負けた様ですね」

 王の執務室を訪ねたあたしを見るなり、面白がるようにヴィンセントは言った。ドレスを着ていなかったからだ。

 いじらしいからと、願いを聞き入れて遣る義理もないだろう。にべもなく断られ、肩を落とした若い侍従は眼に涙を浮かべていたかも知れないが。

 あたしは唇を尖らせ、ささやかな反論を試みる。

「知らないの? 女に負けられるのは、いい男の条件よ」

「そう言うものですか。なら、この国の男とは話が合いそうにないな」

 ただ気に入らなくて、嘯いただけだった。

 なのにヴィンセントが真面目そうに答えたりするから、あたしは堪え切れずに大きな声で笑ってしまった。切れ者の将軍とそれに従う赤髪の護衛は、困り果てたような奇妙な顔であたしの笑いが治まるのを待つ。

 お腹が痛くなる程に散々笑って、何とか息を整える。自分でも白々しいと思いながら、一応の謝意を見せた。

「ごめんなさい。でも、気は合うと思うわ。この国の男も、女に負けるのは善しとしないから」

「そうですか」

 ヴィンセントは、ふとした様子でそれを言った。

 くるりと背を向け、テラスのほうへ移動しながら。実に何げなさそうに。

「なら、貴方は随分と疎まれたでしょう」

 これは本当にその通りだったから、あたしは少しばかりの驚きを以ってヴィンセントの背中を見詰めた。

 理解されたいだなんて、望んではいないのに。

「マチルダ」

 テラスから呼ぶ。

 声に従いガラス戸を潜ると、色付いた庭を背景に小さな食卓が用意されていた。ワインと料理と、向かい合せに椅子が二脚。

「なあに? ランチのお誘いって訳じゃないでしょ?」

「いえ、そうですよ。どうぞこちらに」

 意味が解らない。

 促されるままテーブルに着いたが、疑念めいたそれは薄まらなかった。あたしの顔に、それが見えたか。

 席に着いて、しばらくの沈黙。

 その後でヴィンセントは手にしたワイングラスをテーブルに置き、頭を抱えた。

「やはりどうかしてますね、これは」

 やっとまともな事を言い出したので、ほっとしてそれに同意する。

「そうねえ。普通、虜囚をランチには誘わないわね。何を考えてたの?」

「牙の入れ知恵だろ」

「あら」

 その声に、視線を上げる。脇に控えたクライヴが、呆れたように口を挟んだのだ。けれども元来、口数の少ない男なのだろう。そのひと言を発したきり、黙ってしまう。

 言葉足らずな説明に、首を傾げる。

「牙と言うと……」

「ワイルダーですよ。女性と話をする時は、まず食事に誘うものだと」

「それ、間違ってるとも言い切れないけど、正しくもないと思うわ」

 何だ。部下に担がれただけか。

 妙な意図がないと解り、肩から力が抜けて行った。

 水のグラスを口に運び、しかし考えると面白い、と思う。

 ヴィンセントの迂闊な一面も意外だが、北限の獅子と恐れられる上司を担ごうとする部下も相当だ。笑みが堪え切れず、口元に滲んでいるのが自分で解る。

「ワイルダーが相手だと、随分と無防備になってしまうのね」

「無防備と言うか……つい信じてしまうんですね。あれは私に武芸を仕込んだ師ですから、その頃の癖が抜け切っていないのでしょう」

「そうなの? だからね、きっと。ワイルダーが一緒の時、あなた少し子供のようよ」

 そう言うと、苦虫を噛み潰したような情けない顔を見せた。思わず笑ってしまってから、あたしは席を立つ。

 一瞬きょとんとこちらを見上げ、ヴィンセントは問う。

「どうされました?」

「失礼するわ。ランチは間違いだったようだから」

「いいえ、どうぞこのまま」

 立ち上がり、テーブルを回り込むとあたしの座っていた椅子を引く。この一連の動作は、もう一度座れと促していた。

「どうして? 意味がないわ」

「確かに、最初は間違いかと。しかし、悪くないと思いましたよ。信頼を築くのに、食事を共にするのは悪くない」

「信頼?」

 驚きの余り、あたしはヴィンセントの顔を真正面からまじまじと見てしまった。

「信頼が必要? あたしと、あなたに?」

「そう思います。貴方は、信頼しない者に秘密を明かしますか?」

 ヴィンセントは事もなげに、当然のように言う。それをあたしは、信じられない気持ちで聞いた。

 何が違うのだろう。

 あたしと、この人は。

「さっきの言葉、撤回させて」

「どの言葉でしょう」

「父や兄達は、あなたと致命的に相容れないわ」

 呟くように言いながら、あたしはみすぼらしく擦り切れた袖を捲る。顕わになった腕を見て、ヴィンセントは息を飲んだ。

「この国ではね、情報は信頼ではなく、苦痛と引き換えに得るものだからよ」

 あたしの肌には、古い傷が幾つも残る。

 稀有な宝石、エンジェリック・ブルー。

 その情報を引き出す為に、父や兄があたしに与えた度重なる拷問の痕だ。

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