(二十三)
(二十三)
あたしは両膝を突いて崩れ、その背後にはヴィンセントが倒れ込んだ。
切られた肩が、燃えるように熱い。筋だけでなく、骨まで断たれているかも知れなかった。胸の中央から肩に繋がる骨を切られていたら、今この右腕は肉と皮でぶら下がっているに過ぎない。
「……ヴィンセント」
ズキン、ズキン、と傷口が心臓のように脈打って痛む。腕を引き摺り、倒れたヴィンセントの傍に寄った。
あたしは彼と体を重ねる形で同じように傷を受けたが、背が高いだけヴィンセントの傷は深かった。
咳き込み、あざやかな血を吐く。それを見て、ぞっとした。左肩の傷が、肺腑に達しているのだ。
視界が濁る。涙だ。泣いている場合ではないのに。ちゃんと見なくてはいけないのに。
あたしの涙と溢れた血が、ぼたぼたとヴィンセントの上に落ちて染みた。その胸が、息苦しげに上下している。
「ルイス! お願い、診て!」
母親は本草師だ。ルイスにも、心得がある。それに縋って顔を上げたが、涙に濁る眼が捉えたのはコーネリアスの姿だった。
「無茶をなさる」
不機嫌に言って、傷付いてないほうの腕を取った。
「嫌! ヴィンセント!」
「すぐに息絶えます。お忘れなさい」
引き摺るようにあたしを立たせ、コーネリアスは温度の感じられない声で言った。
そうなのだろうか。
そうだとしたら、悪い夢だ。目の前が暗くなる。
「ヴィンセント」
信じたくはないのに、呼んでも返事はなかった。
どうしてこんな事になったのだろう。
どうしてヴィンセントが倒れているの。
護衛はどこ? 命を賭して彼を守るはずのクライヴが、どうしてこの場にいないのだろう。
ルイスが血塗れで倒れた体ではなく、あたしに向かって駆け寄ろうとする。が、それを黒衣の男が素早く阻んだ。剣を激しく打ち合う音が響く。
コーネリアスはついでのように二、三人の兵を切り捨て、腕を引いたまま秘密の通路に入って行った。傷を庇うアルが血に濡れた手をあたしに伸ばしたが、わずかに遅い。
彼等は通路に入る為であろうと、決して指は受け取らないと主張した。だからあたしの指は無事だったが、悔やんでいるだろう。その為にルイスもアルも、この中にまでは追って来られない。
目的地を知っているように、コーネリアスは薄暗い通路を淀みなく歩いた。それに手を引かれ、足を進めるたび激痛が走る。
もう動かなくなった右腕が、皮と肉を引きちぎるようにぶらぶらと揺れるのだ。息を詰め、悲鳴を噛み殺す。
それに気が付いたように、灰色の頭が振り返った。わずかに思案する様子を見せ、少し広くなった場所で立ち止まる。
この時、コーネリアスは恐れるふうもなくあたしから手を離した。恐らく、グレンの指を持っているのだろう。
あたしを座らせると、自分の頚からタイを外し、脱いだ上着を迷わず裂いた。それを見るとはなく眺める。傷の為に朦朧と、熱を持ち始めた頭で背後の壁にもたれた。
本当に、この男は表の皮一枚だけ穏やかそうで、その下は解らない。
上着を脱いだシャツの下には均整の取れた肉体が隠れていると解ったし、小さな袋を結わい付けたベルトは、思いの他がっしりとした腰を締め付けている。鍛え上げた、兵士の体だ。
彼は裂いた布を手に取ると、肩の傷口に巻き付けた。それから腕と胴を密着させて、布でぐるぐると固定する。それだけで、驚く程楽になった。傷口に集中していた腕の重さが消えた為だ。
応急処置のあざやかさに、思わず感心してしまう。
「あなたも、軍人なのね」
「軟弱に見える様ですが、一応は」
実にやわらかい表情を作って笑うので、あたしは訊いてみたくなった。どうしても、解らない。
「何が不満だったの?」
彼には偽りだったとしても、信じ、そして頼りにされていたのに。
ほんの一瞬、本当にわずかな間だけ、コーネリアスは瞳を揺らした。心を揺らしたのだと、あたしは感じた。
「貴方にも、お解りにならないとは」
静かな声だ。
「我慢ならないと思われた事は? 国家を守って来たのは王であり、誇り高い忠節と、我々貴族の純血の筈。国事に、野良犬は場違いだ」
頭がぼうっとした。話を聞いても、何も感じない。もう、感情が麻痺しているのだろうか。
「……それで、裏切ったの? ヴィンセントと、ワイルダーの身分が許せなくて?」
ヴィンセントは下級貴族の庶子で、ワイルダーは完全に庶民の出だ。由緒正しい貴族の血しか認められないと言うのなら、その部下となる事も、肩を並べる事も、耐え難い屈辱となっただろう。
それでも、あたしには。
「解らないわ」
男は、理解されない事を嘆きはしない。
その代り、剣を取った。
鉄と鉄が激しくぶつかり、火花を散らす。そして離れた。
「ヴィンセント!」
呼んだ自分の声が、悲鳴染みて響く。
まるで亡霊だ。顔に掛かる髪の下で、薄青い瞳に幽鬼の炎がちろちろと燃えている。
切り離された骨と肉を無理矢理にくっつけ、肩と胴をきつく巻いていた。その布が真っ赤に染まって、血が滴り落ちないのが不思議な程だ。寄り掛かって歩いたらしく、後ろの壁にずっと赤黒い筋が残っている。
吐いた血の垂れる口の端を持ち上げて、彼は笑うように言った。
「切られても、異存ないなコーネリアス」
この深手を思えば、驚く程しっかりとした声だった。
残された右手に握る剣を、無造作に振り上げる。気力だけで振るった剣だ。それは無情に、そしてたやすく往なされる。
「何故だ!」
悲痛な叫びだった。無駄と知りながら剣で切り付け、涙なく泣いているように見えた。
それさえ軽く受け流し、コーネリアスはふと動きを止めた。じっとヴィンセントの顔を見て、頭を振る。
「解りはしない。貴方には」
「仲間を殺し、祖国を裏切る理由をか? あぁ、解らない! コーネリアス、ワイルダーは……」
「わたしの父は重臣で、今も王のお傍近くに仕えている」
打ち込んで来る剣を、コーネリアスは滑らかな動作で横に流す。ヴィンセントがバランスを失い、たたらを踏む姿にひやりとした。この瞬間、余りにも無防備だ。
だが、牙は獅子を切らなかった。自分の剣を杖のように床に立て、膝を突いてしまったヴィンセントを見下ろす。
「その長子であるわたしが、家格の低い、それも庶子の下に付いている。父の落胆は、それはそれは深いものでしたよ」
「お前の優秀さは、王もご存知だ。だから経験の浅い私の補佐に、お前が……」
「いいえ。王は、わたしをお認めになってはいない。貴方の補佐と言う立場が、その証拠となるでしょう。……国の礎なれと教育を受けたのに、期待されないわたしは、どうすれば良いのでしょうね」
本当に解らないと言うふうに、コーネリアスは首を傾げた。上着を脱いだ肩から灰色の髪が流れ落ちて、背中に揺れる。
ああ、そうか。
この人は、寂しいのだ。
揺れて足掻いて苦しんで、もう、引き返せない。
「終らせましょう。失礼致します、閣下」
遊ぶ事に飽いた様子で、刃がヴィンセントに向けられた。彼はもう、動く事さえ満足にできない。
鋭く光る剣先が、抵抗しない頭の上に落とされようとしていた。
「コーネリアス」
呼んだが、彼はヴィンセントに向いたままの背中で聞いた。
これは、彼に向けた最後の言葉になるだろう。
「これからあなたがどうなってしまうのか、あたしには解らないけれど、これだけは覚えていてね。あなたを最も信頼し、認めていたのは……ヴィンセントであり、ワイルダーだったのよ」
居場所はここだった。求めていたものは、ここにあった。
遠い王ではなく、父親ではなく。すぐ傍にいる仲間を、信じる事ができればよかったのに。
きっとそれは、コーネリアスの欲しかったものをくれたのに。
あたしは上着の下で短剣を抜き、灰色の後ろ姿に切り掛かった。