(二十二)
(二十二)
久々に訪れた城内は、驚く程に静かだった。
庭の木々を揺らす風は冷たいが穏やかで、この胸に吹き荒れる嵐のほうが余程騒がしい。
あたしの存在に気が付いて、男は椅子の上で振り返った。息を詰めるような、ゆっくりとした動作だ。
その人影に、問い掛ける。
「また手紙? 婚約者はお元気かしら」
唇だけで微笑んで、彼はペンを置く。またゆるりと立ち上がると、灰色の長髪が広い肩から滑り落ちた。
「えぇ、とても。もうすぐ望みが叶うとあって、喜んでいる様です」
「そう……。ねえ、コーネリアス。教えてくれる? あなたはいつから、祖国と仲間を裏切っているの?」
こう尋ねるのは緊張したが、予想に反してコーネリアスは楽しげに笑った。
「さて、いつだったでしょう。閣下やワイルダーを疎んだのは、最初からだった様に思いますが」
「だから、エンジェリック・ブルーを他国に売るのね」
「今度は姫君にお聞かせ願いましょう。何故、裏切ったのがわたしだと?」
世間話でもするように、彼は言う。
軍の中に裏切り者がいるのは解っていた。フィルの母親があたしの所在を密告した時、兵士よりも早く来たのは黒衣の男達だったから。
その直後にはノア達もやって来たが、あたしを見失った彼等が注意を払っていたのは軍の動きだ。軍の情報が、いち早く死の商人に流れていたと言う事になる。
だがコーネリアスに辿り着かせてくれたのは、ワイルダーだ。
「頻繁に遣り取りされる手紙と、あの荷物ね」
「荷物?」
「あたしが城を抜け出す時、ワイルダーが持たせてくれたの。必要な物を全部詰めてね」
「そうでしたか」
今初めて知ったと言う顔に、あたしは思わず吹き出した。
「知っていたでしょ? ワイルダーは、あの荷物を誰かに用意させたはずだもの」
「秘密なのに?」
「荷物の中にね、経水の為の下着が入っていたのですって。男の人は、普通そこまで気が付かないわ。ワイルダーなら、尚更ね」
あたしも最初は気付かずに、今日、フィルに教えられて知った。
経水と言うのは月のものの事で、普通女は家で大人しくして過ごす。だが旅の途中などでそれが適わない時は、専用の下着で対応した。
あの細かい事の苦手な男が、そこまで気配りできるはずがない。誰かの手を借りたのだ。
「直接手伝った訳じゃなくても、ワイルダーが女の為に荷物を作らせたと言う話は伝わったはず。ここにいる二個師団は、殆どあなたが管理しているもの。情報は、必ずあなたの所に上がるでしょう?」
そして、あたしの逃亡計画を知ったのだ。
「あたしが逃げ出す夜に合せて死の商人を送り込んだのは、ワイルダーに嫌疑を向ける為ね。お陰で、あたしはあの人を頼れなくなったわ」
「なら良かった。ワイルダーに首を突っ込まれては、面倒で仕方なかった」
「ワイルダーを殺したのはあなたね」
唐突に断じたので、コーネリアスは少し驚いているようだった。これは最初からだったが、隠すつもりはないらしい。促すように微笑んだ。
「怪我をしているのでしょ? 動くのが辛そうだわ。ワイルダーはあなたを強いと言っていたけど、本当だったのね」
「最後の頃にはワイルダーも、わたしの真意に気付いた様でしたが……。意外ですね。あれが、そんな事を?」
「言っていたわ。結婚式には、裸で踊るのですって。婚約者なんて、いないのにね」
笑いながら言うと、コーネリアスも笑んで応えた。
故郷に残した婚約者と言うのは、頻繁に手紙を遣り取りする為の方便だろう。最初から、そんな女は存在しない。密かに手を結んだ他国の者と、恋文に見せ掛けた密書を交していたのだ。
そんな嘘まで作り上げて、彼には、引き返すつもりさえ最初からなかった。
「いつか言った事を覚えている? 裏切る事ができるのは、信頼を受けた者だけよ。コーネリアス。あなたは、見事に皆を裏切ったわ」
物陰から、仮面を付けたルイスとアルが躍り出す。
「さよなら」
言ったあたしの声と同時に、アルが構えた弓から矢を放つ。コーネリアスはそれを剣で切り払うが、その隙を突いたルイスが無防備な脇腹に剣先を向けた。
剣が肉を裂くよりも、一瞬速く。ルイスとコーネリアスの間に黒衣の男が現れた。二人目の男が、影に沈んだ通路の中から滑り出す。
弓をあたしに投げて、アルがルイスに続いた。
背に負った矢筒から矢を抜いて、黒衣の男に狙いを定めて次々に弓を引く。だが時と共に、焦りが募る。あたしの放つ矢はどれも男達の黒衣を捉えたが、肉体を穿つ事はできなかった。手応えのないマントに勢いを殺されて、石畳の上にカラリと落ちる。
「腕の良い射手だとは聞いていましたが、大したものですね」
ギクリと、心臓が跳ねた。
コーネリアスの声が、余りに近い。
「わたしの取引相手は、どうしてもエンジェリック・ブルーを手に入れたいそうですからね。大切な手掛かりを、殺しはしません。ですがそう抵抗されては、こちらにも考えがありますよ」
近過ぎる。コーネリアスの手は、すでにあたしの弓に触れていた。これでは射る事ができない。打つ手がない。
聞き分けのない子供を諭すように、翡翠の瞳があたしを見詰めた。
なるほど。殺さない、と言う表現が彼らしい。死なない程度であれば、苦痛を与えるつもりがあると言う事だろう。
と、コーネリアスがはっとして、急いで後ろに跳び下がった。
その後を、白刃が一閃する。――いや、少し掻いた。裂けた手の平から滴って、血が石の床にパタパタと散る。
「……閣下」
コーネリアスは笑ったが、獰猛な色がその表情に滲んでいた。
その血を吸って輝く剣は、あたしがヴィンセントに渡した鋼の長剣だ。
後ろ姿が、目前に現れる。冷たい金色が灯火の明かりに色付いて見えた。
「警戒は万全と言う訳ですか」
コーネリアスは、失笑するように息を吐く。
彼の居室には兵士が雪崩れ込み、部屋の主と侵入者達に穂先を向けていた。それは、あたしやルイス達にも同じ事だ。
「ヴィンセント」
呼ぶと、アイスブルーの眼がこちらに向いた。言葉はない。眉を顰め、そして堪えるように、ただあたしを見た。
その顔が、少し痩せたかも知れないと思う。
「知っていたの? コーネリアスが、裏切っていると」
「……牙を屠る事ができるのは、牙だけだ」
ではワイルダーの死が、疑惑を確信にしたのだ。
だったらヴィンセントは、コーネリアスをそれとなく監視しただろう。その為に、あたし達の侵入にもいち早く気付いた。
「捕えろ。一人残らずだ」
「相変わらず、閣下は甘くて居られる」
嘲笑う声を合図に、悲鳴と怒声が渦のように湧き上がった。
「姫様!」
警戒を促す、ルイスの声。
その時には兵士達の腹を裂き、胸を突き、血を撒き散らす黒衣の影が間近にあった。ぶつかるようにあたしを抱えんとした腕を、鋼が力任せに切り落とす。
床にガチリと当たった剣をそのまま、下から上へと振り上げる。隻腕となった黒衣の男は、息を飲む間もなく下腹から喉までを鋭く切られて絶命した。
鋼の切れ味は、切られた本人も気付かない程だと比喩される。本当かも知れないと、初めて思った。血は、男が床に倒れてから吹き出した。
もうひとりの黒い影が、兵士を薙ぎ倒して距離を詰める。逃げ腰になった兵を掻き分け、アルが行く手を阻む。切り付けられた剣を避けず、腕で受ける。そのままぐっと踏み込んで、逆手に取った剣で黒衣の腹を横に裂いた。だが、浅い。逆に腹を蹴られ、腕を深く裂かれて退けられた。
そして男が素早くこちらに向かう。ヴィンセントはすっと体を移動して、それに備えた。その背後。
「ヴィンセント、駄目!」
高く掲げるように、コーネリアスの剣が彼の背を狙っていた。
あたしは自分の体をヴィンセントと背中合わせに重ねるように、剣の前に立ちはだかる。剣士は翡翠の瞳を見開いて愕然と見たが、刃を止める事はできなかった。
両腕で振るわれたコーネリアスの剣が、ヴィンセントとあたしの体を深く切り裂いた。