(二十)
(二十)
小さな手から離れた矢は、的を掛けた木にも掠らず雪の上に落ちた。
忍び笑いがくすくすと起る。
「はい、笑わないの。次はもう少し強く引けばいいわ」
頭を撫でて慰めると、弓を手にした男の子は真っ白な息を吐いてぱっと笑った。その子が列の最後に並び直すと、代りに先頭の子供が駆け寄って来る。
「いい? 腕の力だけで引いては駄目よ。体全部が道具のつもりで、肩を意識して引くの」
今度の子供は少し大きかったから、最初に言葉で説明した。それに、列で待つ幼い子まで熱心に頷いている。それが可愛くて、あたしは少し笑ってしまう。
列には二十人近い子供達が並んでいたが、その全員が男の子だ。氷壁の里では男は皆狩りに出るので、弓の腕はいいに越した事がない。そこで暇を持て余したあたしが、子供達に指導する事になった。
目の前の子供に手を添えて、弓を引かせる。放った矢は、中心を少し外れて的に刺さった。その証のように、的にした木からトサトサと雪が落ちる。
小柄な射手は、しかし何だか納得できないと言う顔で首を傾げた。
それを下がらせて、あたしは分厚い外套を脱ぐ。着ていても弓は引けるが、それでは体の動きが見えにくい。
「いい? 背中と腕がどう動くか、よく見ていてね」
大人用の大きな弓を取ると、的に向かう。矢を挟んだ指を弦に軽く掛け、頭より高く持ち上げる。腕は固定し、肩を軸にして引き下ろす。それで自然と、弓と弦が開く形に引く事ができた。
狙いを定めで矢を放すと、ひゅるりと小さな螺旋を描いて矢尻が的の真ん中に収まった。
「お見事です」
「ありがとう。昔から狩りは得意なのよ」
いつの間にか、子供達にノアが加わっていた。正確に言うと、列は崩れて子供達がノアの周りに集まっているのだ。
ノアは中でも特に小さな、枯れ草色の頭に手を置いてから輪を離れた。その子供は彼の息子だそうだ。バッカスの妹がノアの妻だと、サラがいつか教えてくれた。
彼はあたしの脱いだ外套を拾い、着ろと言うふうに差し出して言う。
「長の家へ。報告があるそうです」
情報収集に出掛けていたバッカスが、大きな情報を持ち帰った。
「ワイルダーが死んだ?」
デイトンの部屋に入るなりそれを聞かされ、あたしは崩れてしまいそうになる。さっと寄ったノアとアルが両側を支え、椅子に運ぶ。
「理由は? どうして死んだの」
「殺された様です。犯人は解らず、軍部でも探している最中だとか」
「冗談でしょ」
本気でそうは思わないが、口にせずにいられなかった。椅子の上でうな垂れて、膝に載せた自分の手が眼に入る。指先の色が変る程、知らない内にきつく握り締めていた。
ワイルダーは獅子の牙で、そしてヴィンセントの師でもある。それを倒したと言うなら余程の剣客か、それとも卑怯な策を取ったか。
「どんな殺され方を?」
「姫様」
案じるようにノアが止めた。
あたしはそれに、邪魔をするなと首を振る。
「知らなくては。ワイルダーは強かったはずよ。計略によるものか、それとも純粋に剣の腕で負けたのか。重要な事よ」
「切り合って死んだようです。死体は城内で見付かりました」
「なら、相手にひと太刀くらいは浴びせたかも知れないわね」
剣の腕が確かで、そして城に上がれる人間。あたしは自然と、黒尽くめの二人組を思い出した。
あれを差し向けたのはワイルダーではないかと疑ったが、こうなると解らない。本当に無実か、仲間割れの可能性も捨て切れないが。
どちらにしろ気掛かりなのは、ワイルダーを殺せる人間が城の中にいると言う事だ。
そしてワイルダーが無実だとしたら、それはヴィンセントの命も脅かすだろう。
考え込んだあたしの横で、デイトンは苦々しげに自分の判断を口にした。
「時期が悪い。石の奪回は少し待つ事としよう」
「……だけど、不安だわ」
何が、とは言えなかった。自分でも明確には解らない。胸を圧迫するようなそれがいつまでも消えず、ただ、不安だった。
長の家を出て、本草師の所に向かう。
外套を脱いで戸口に下がった布を潜ると、寝台の上で黒い頭が寝返りを打った。
「アン」
どうやらやっとあたしが王女らしくないと悟ったらしく、彼はいつからかミドルネームを呼ぶようになった。
気付いて起き上がろうとするコーディーを制し、ルイスと目礼を交す。
「気分はどう?」
「ルイスがおおげさで、許してくれないだけです」
「今朝も熱を出したのに?」
笑いを含んでルイスがばらす。眉を上げて見詰めると、患者は毛布の中に潜り込んだ。
コーディーは本草師の家に置かれていたが、付き添うのは母親のオーブリーではなくルイスだった。
胴に剣を突き刺したまま、丸一日馬車に揺られていたのだ。正直、助かるとは思ってなかったらしい。だからこそ隠れ里とでも呼ぶべきこの土地にも運ばれたのだが、予想に反して彼は回復した。
喜ぶべき事だったが、扱いに困っていると言うのが実際のところだろう。
どう伝えるか迷ったが、結局、率直な言葉しか浮ばなかった。
「コーディー、ワイルダーが死んだわ」
「そんな」
眉を寄せて起き上がろうとする肩を、ルイスが押える。
「解らなくなってしまったわ。あたしはワイルダーを疑っていたけど、その根拠は何だったのかしら。考えても、かも知れない、と言う程の理由しか、思い当たらないの」
「……そうですね。策略には、向かない人でした」
「だとしたら、他にいるわ。ヴィンセントを裏切る誰かが、それも彼のすぐ傍に」
仲間だと信じた人間を疑うのは、辛いのだろう。傷付いたように顔を曇らせたコーディーが、はっと顔を上げる。
「あ、ごめんなさい。お邪魔を……」
視線を追うと、布避けて戸口に立ったサラが、慌てて立ち去ろうとするところだ。
「構わないわ。あたしはもう行くから、替りましょう」
「でも」
「いいの。少し話したかっただけだから」
実際、これ以上会話も続かないだろう。
腰掛けから立ち上がり、寝台の傍を離れる。恐縮しているサラの肩に軽く手を置いてから、コーディーの部屋を出た。
すると、その後ろからルイスが付いて来てしまう。戸口の布に紐を巻き付け、開いた状態にしてその場を離れる。
不思議そうなあたしに気付いて、ニヤと笑った。
「見てらんないんですよ」
「ああ……、そう。サラは、よく来るの?」
「いや、まあ。毎日ですかね」
軽い調子でそう言ったが、垣間見せた表情は困惑しているふうでもある。
ふと気が付いた。サラは、氷壁の長であるデイトンの娘だ。なるほど、これは困る。
「泣かせたら大変な事になると、今度脅して置くわ」
「……ですね」
ルイスは銀色の頭を掻いて、ふと表情を改めた。
「城に行くって話ですが」
「ああ……石を探しに? それはなくなったわ。デイトンが、時期が悪いと言って」
「行くなら、オレを連れてって下さい」
ギクリとした。見透かされた気がして。
真っ直ぐな、そして思い詰めるような眼に驚かされる。人好きのする軽やかさの裏に、こんな火のように熱い顔を隠していたのか。
「姫様がバッカスやノアを頼りにするのは分かります。だけど、オレも」
「待って」
遮る。そんな事ではなかった。
「ルイス、待って。話を聞いていた? あたしは、行かないと言ったのよ」
「そうですか?」
「そうよ」
素知らぬ顔で嘘をついた。
あたしは、ひとりで王都へ向かうつもりだ。実際にワイルダーが死に、今もヴィンセントが危険なのだとしたら。じっとしている事はできない。
つくづく奇妙な縁だとは思うが、リシェイドに属するあの人達が好きだった。思慮深く、そして情に篤い。結局あたしを甘やかしていたのは、年若い将軍だけではなかったと思う。
この国を治めるのは、ヴィンセントがいい。これはずっと考えていた事だった。あの人なら、アイディームの民を守ってくれるだろう。
死なせる訳にも、狂わせる訳にも行かない。
あの人は、あたしが未来を託す人だから。