(二)
(二)
アイディームの場合、一個小隊は十三人で構成される。
兵士三人で一組とするが、それを四つ合せたものに小隊長を加えて十三人。
これが十年前のあの夜に、あたしが奪った命の数だ。
「マチルダ?」
気遣うふうな、男の声。
不思議だ。
北の民は雪のように白い。厳しい寒風に鍛えられた肌は、一片の赤みさえ持たずに冷たげだ。なのに、頬に触れた手の平からは温かな体温が伝わって来る。
それが何だか、妙な気がした。
どこか作り物めいた皮膚の下にも、真っ赤な血が脈打っているのかと。
「総督」
呼ぶと、ヴィンセントは何かと問うように髪を揺らし、わずかに頭を傾ける。
「このお手は、問題です」
「……失礼」
わざと堅苦しく指摘すると、やっとその事に気付いた様子であたしの頬から手を引いた。
彼は先に立ち上がり、腕を差し出す。回廊の途中でうずくまってしまったあたしを、引き起す為だ。
「気分が優れないのなら、話を伺うのはまたにしましょう」
「……ええ、ごめんなさい。ずっと地下にいたのに、急に太陽を浴びたものだから少し眩暈が」
ヴィンセントは頷くと、兵士を残して立ち去った。
あたしの言い訳を、信じた訳ではないだろう。なのにこうもあっさり引き下がる事が、その余裕を示していた。
虜囚の、しかも女など、いつどうなるか解らない。向こうにすれば、どうとでもできると言う事だ。
それにしてもあんなふうに水を向けておいて、何もなかった顔で立ち去るなんてどうかしている。
あたしが石畳の床にへたへたと崩れてしまったのは、ヴィンセントのせいだ。彼が、あの夜の話題に触れた為に。
十年前の夜、十三人の男を殺した。
あたしが、自分の意思で。
後悔はない。
だが今も、その罪には胸を潰されそうになる。
優れた兵士達だった。
小隊を率いていたのはティラスと言う騎士で、よく知った男だった。年が近く、父のお気に入りで、あたしの護衛に付く機会も多かった。
けれども、殺さなくてはならなかった。
その理由を知る者は、あたしの他には誰もない。知っていたのは、あの夜に死んだ者達だけだ。
それどころか、あたしが十三人の兵士を殺した事実さえ、父は葬ったはずだ。
娘を守った訳ではない。あたしの凶行を葬る事で、王家の威光を守ろうとした。
そして同時に、あの石を守ろうと。
あの事件の一端は、エンジェリック・ブルーに繋がっていた。それだけは誰の眼にも明らかだ。
だからこそ、あの夜の事が噂になどなるはずはない。そんな事、父が許さない。
そうして血に塗れてしまったと言うのに、父や兄はどこまでもあの宝石を惜しんだ。殺人を葬り去ったのは、あたしではなく石の為だ。
なのにそれを、ヴィンセントは知っていた。
どうやって知ったのか。その噂は、どこまで広がっているのか。そしてどこまで正しいのか。
あたしは、確かめなくてはならなかった。
けれども、何の皮肉だろう。国が滅んで父や兄から解放されたと思ったら、代りに現れたのがあんな男とは。
ヴィンセントは苦手だ。他ならぬあの眼が。
あの人の薄青い瞳は、何よりも美しく、何よりも呪われたあの石に似ていた。
まるで責められているようで、見詰められると気がふれてしまいそう。
無意識の内に、あたしは自分の頬を撫でた。ヴィンセントが触れた場所だ。
彼から移った温もりが、そこにまだ残っているみたいに感じられた。
*
リシェイドは、大陸の端にある。
アイディームから見て北の国境を接する隣国。万年雪と、溶ける事のない凍土の国だ。
その向こうには凍て付いた外海があるばかりで、故にリシェイドを以って北限と言われる。
国境を接する隣国ではあったが、こちらとあちらでは所有する国土面積からして全く違う。リシェイドは気の遠くなるような大国で、対するアイディームは驚く程に小さかった。その為に、象と蟻に例えられる事さえある。
元々、リシェイドは好戦的な国だ。確かに広いが、その殆どが氷に閉ざされた厳しい環境にあるからだ。故に彼等は近隣国から領地を奪い、そこで利益を得て本国の民を養う。
戦を生きる糧としているのだ。
かの国から送り込まれた北限の獅子。ヴィンセントはアイディームに入るにあたり、二個師団と、その司令官でもあるふたつの牙を伴っていた。
牙とは、北限の獅子が持つ腹心の部下だ。ひとりの名はコーネリアス。もうひとりをワイルダーと言う。
今は室内にその片割れ、コーネリアスが同席していた。
しかしこの男については師団長と言うより、参謀とでも呼ぶべきだろう。長く垂らした灰色の髪は戦闘には向かないだろうし、何よりこちらを観察する翡翠の瞳は理知的だ。さっき兵士に伴われて入室する際、中から返された返事はこの男の声だった。
あたしを室内に残し、兵士が去る。
高い天井。それを支える、美しく配された柱。滑らかに磨かれた様々な石で、緻密な幾何学模様を描く床。一方の壁には大きな書架が作り付けられており、書名の箔押しされた本の背中がびっしりと並んでいる。
王の部屋だ。
ここはかつて、王の為の執務室だった。
テラスに通じる硝子戸から、ヴィンセントが姿を見せる。傍に赤髪の護衛、クライヴが控えているのが見えた。
「気分はどうです?」
「ありがとう、大丈夫よ。昨夜は久しぶりにまともなベッドで眠れたから」
それは何より、と。ヴィンセントは唇だけでわずかに笑む。
昨日、牢を出されてから、あたしはまるで賓客の扱いを受けた。無論、見張りの兵士は付いていたが。
城内で最も上等なゲストルームに案内され、バスタブ一杯の熱いお湯まで与えられた。入浴の後に袖を通したのは、絹の寝間着だ。
おまけに、クローゼットには美しく繊細な錦と、うっとりするようなビロードをたっぷりと使ったドレスがあった。胸元はすっきりと大きく開き、袖はあたしの手よりも長い。しかし肩まで入ったスリットの為に、それはきっと歩くたび優雅に揺れるだろう。
今朝、ヴィンセントからの呼び出しに、けれどもあたしはそのドレスを着なかった。
「お気に召さなかった様ですね。ドレスの方は」
「お湯は有難く使わせて貰ったわ。もう、夢心地」
「コーディーが困り果てていましたよ。女性は美しいドレスを好むのに、一向に袖を通して下さらないと」
言いながらヴィンセントはあたしに椅子を勧め、自分もテーブルを挟んだ向かい側に腰掛ける。
コーディーと言うのは、今朝あたしの身支度を手伝うつもりで遣って来た若い侍従だ。顎までの黒髪と、明るい茶の眼を覚えている。まだ十代の子供だ。それに強情を張るのは気が引けたが、仕方ない。
「それはきっと、十年も地下牢に閉じ込められた事のない女性の話ね」
言いながら、あたしは服から飛び出る手を隠して擦り切れた袖を引っ張った。
「口の減らない人だなぁ」
「若いから、知らないのも無理はないわね。有名だったのよ、あたし。誰も手を付けられなくて、結婚できなかったの」
横で、コーネリアスがくすくすと笑う。彼はあたしと年が近いようだから、風の噂くらいは聞いた事があるかも知れない。
十年前、あたしは二十歳だった。町娘でも貴族でも、とっくに婚姻を結んでいて当然の年だ。王の娘なら、尚更。早々にどこかの国へ嫁がすか、有力な重臣に降嫁させるか。とにかく、十五を過ぎて遊ばせて置くのはあり得ない。
でも、あたしはそうだった。
少し困ったようにあたしとコーネリアスを見比べて、ヴィンセントは息を吐く。
「それがどうして、ドレスを着ない理由になるんでしょうね」
「さあね。まあ、いいわ。本題に入りましょ? あたしが考える通りなら、その事にも追々触れる事になるだろうから」
そう告げると、少し細めたアイスブルーの瞳があたしを見詰めた。
視線をそのままに、片手を上げる。合図を受け、灰色の髪をさらりと揺らしてコーネリアスが席を立った。壁際のチェストから小箱を取り出し、テーブルに置く。
ヴィンセントはそれを手の中で転がして、しばし遊んだ。でもその顔は、何かを迷うかのように見えなくもない。
「私にもまた、考えている事があります。この考えが正しければ、恐らく貴方は命を賭してその秘密を守るでしょう。違いますか、マチルダ?」
「その考えとやらによるわね」
あたしはテーブルに頬杖を突き、真正面の男を見ながらクスリと笑う。
この男が間違う事はあり得ないと、そう思ったからだ。
かの国で、北限の獅子と讃えられるヴィンセント・L・ハーディー。破格の若さで将軍職を与えられた彼が、尋常な男の訳がない。
だとしたら、答えの得られない質問を投げ掛けようとしている。その不毛さを承知の上で。
ヴィンセントの白い指先が、小箱を開ける。磨き込まれたテーブルの上を滑らせて、あたしの前にその中身を示した。
「この石の鉱脈を、教えて頂く」
箱の中では真綿に包まれ、エンジェリック・ブルーが幻のような儚さで美しく輝いていた。