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(十七)

   (十七)


 逃げ切る為に、幾らかの工夫が必要だった。

 馬車に積んだ藁を少し捨て、中央を窪ませて穴を作る。そこにバッカス以外の全員が息を詰めて潜り込み、幌を被せて目隠しにした。

 こんな事で、兵の眼が誤魔化せるものだろうかと疑問に思う。だが、どうやら勝算があるらしい。

 リシェイドの軍は二個師団、四万の兵を養わなくてはならなかったが、アイディームの食糧庫は空同然。そこでほぼ毎日、物資を満載にした馬車が王都とリシェイドの国境を中心に駆け巡る事になった。

 何しろ手が足りず、物資の運搬には馬車を操れる農夫を雇う事も多いらしい。その農夫が王都に物資を届けた後で、空の荷馬車に家畜の飼料を積み込んで帰途に就く。それを装えば、疑いを受ける事もないと言う訳だ。

「里に着けば、腕の良い本草師がおりますから」

 ぼそりと、ノアが口を開く。励ますつもりか、それとも自分に言い聞かせているのか。

 本草師と言うのは、薬草などで病を癒す医師の事だ。けれどもその里まで、後どれ程あるのだろう。

「……何をしているのかしらね、あたしは」

 コーディーの額に浮かんだ汗を拭って遣りながら、幌の下でひっそりと呟く。この子は、今にも息絶えてしまうかも知れない。なのにあたしは何もできず、息を潜めているだけだ。

 こんな子供に犠牲を強いて、あたしは。

 陽が暮れるとルイスがひとりで馬を駆り、先触れに行った。重傷の患者がいる。里でも準備が要ったのだろう。それはほぼ丸一日も馬車に揺られ、やっと辿り着いた場所で知った。

 小さな国だ。足の鈍い馬車とは言え、これだけ走れば国土の端まで来ているはずだ。もしかすると、リシェイドとの国境に近いかも知れない。

 その厳しさを示すように、切り立った山肌は秋と言うのに白い衣を纏っている。その麓で、彼等は待ち構えていた。

 一様に青みを帯びた銀髪で、緋色の瞳を持った人々。

 驚かされたのは、誰もが瞳の中にあたしへの好意を滲ませている事だった。それは、親愛と言っても不足ない。

「姫様、よくぞご無事で」

 氷壁の民を統べる長はデイトンと名乗り、伏せて重ねた両手の甲を額に着けて頭を下げた。それは恐らく、最高の敬意を表した歓待だったろう。彼に従った人々は全て同じように礼を取り、それから急いでコーディーに駆け寄る。

 本草師だと言う年嵩の女が指示を出し、男達がコーディーを板に載せて運び始めた。氷壁の里は山深く、馬車は当然、馬でも辿り着けない場所だと教えられた。

 馬車を捨てて来ると言うバッカスを見送り、これから踏み込む山を見上げる。木々の間に、そそり立つ岩肌が覗いていた。そうか、と思う。氷壁の民とは、岩壁も凍て付く程の厳しさの中で生きる民の事を言うのだ。

 馬も寄せ付けないと言う通り、里への道は険しかった。木々の間の下草を掻き分け、大岩の陰の細い隙間に身を潜らせる。あたしはすぐに息が切れて痛い程に心臓が鳴ったが、皆が代わる代わるに手を引いて、時に抱え上げて導いてくれた。

 しかしコーディーはもっと過酷だ。板に載せられた状態のまま、城の塔より高い岩の上に縄で引き上げられているのを見た。怪我がなくても、生きた心地はしなかっただろう。

 辿り着いた氷壁の里は、美しい所だった。

 天に届きそうに凍て付いた巨大な岩壁を水が伝い落ち、氷柱を作ったその下で冷たい泉を成している。泉の傍には平らに開けた土地が広がって、並ぶ家々を背の高い木々が守るように取り囲む。

 雪と氷に白く霞んだその風景は、幻想的ですらあると思った。

 その中のひとつ。本草師であるオーブリーの家にコーディーは運ばれた。それに続こうとすると、デイトンが呼び止めて若い女を引き合せる。

「娘です。姫様のお世話を」

「サラと申します。何なりとお申し付けください」

 十四、五と言うところか。サラは真っ直ぐな長い髪を揺らし、両手を額に着けて頭を下げた。

「悪いけど、必要ないわ。それより、コーディーの傍にいたいの。行ってはいけない?」

 急いたようにあたしが言うと、デイトンとサラは困ったように眼を交した。

「今はご遠慮下さい。心得のない者がいては、本草師の邪魔になるやも」

「ルイスをご存知でしたね。あれはオーブリーの息子ですから、心得があります。お連れの助けになるでしょう」

 安心させるように微笑むサラに、あたしは驚きの眼を向けた。あの男が?

 しかし一方で、納得もする。だから、先触れにはルイスが走ったのだ。本草の心得があると言うなら、コーディーの状態を正確に知らせる事ができただろう。

「とにかく、そのままでは風邪を引いてしまいます。どうかお召し替えになってください」

 そう言って、サラはあたしを長の家に押し込んだ。これは、最初の頃のコーディーを思い出させる。彼もあたしを着替えさせようと四苦八苦して、いつも困り果てた顔を見せた。

 今は、サラが困り果てた顔をしている。

「ここは王都よりも北で、おまけに高地ですからとても寒いのです。姫様に風邪など引かせては、みなに叱られてしまいます」

「じゃあ、上着だけちょうだい。それでいいわ」

「姫様!」

 つくづく、最近はよく叱られる。

「お手伝いが邪魔なのでしたら、席を外します。でもそのかわり着替える前にお湯を使って、ちゃんと体を温めてくださいね」

「……そうね、いいわ」

 その妥協案に、あたしは渋々頷いた。てきぱきと風呂の準備を整えて、サラはちょっと残念そうな微笑みを残して退室する。入り口に吊るした厚い布が彼女の背中を完全に隠してしまうのを待って、あたしは衝立の陰で服を脱いだ。

 板を組み合せたバスタブに全身を浸すと、自分の体が想像以上に冷え切っていた事を知った。熱い湯に触れ、手や足の先から痺れるようにほぐれて行く。

 ほっと、息が零れた。

 正直、参った。こんな事になるとは、全く思っていなかったのに。

 エンジェリック・ブルーは、氷壁の民のもの。その情報の為に、彼等があたしを狙う事はあり得ない。その確信だけを根拠にして、共に来たに過ぎない。

 ただし、その逆ならあり得るとは考えていた。あたしの持つ情報は、彼等を滅ぼし兼ねない危うさを持っている。それをあたし諸共消すと言うのは、中々道理に適った話だ。

 だが、それでよかった。コーディーの命だけを乞えるなら、それでいい。

 何より、彼等にはこの命を取る権利がある。

 なのにどうして、こうまでして助けるのか。その理由が見えなかった。

 気が付くと、湯が生ぬるく冷えていた。自分で感じるより長い時間、ぼんやり考え込んでいたらしい。

 これでは却って体を冷やしてしまう。バスタブの中で立ち上がると、水気を拭う為の布に手を伸ばす。そのはずみに、衝立の陰から腕だけが肩近くまで飛び出してしまった。

 小さな悲鳴。あたしではない。

「サラ?」

 問い掛けると、動揺した声で返答がある。

「……申し訳ありません。声はお掛けしたのですけど……」

「ああ、ちょっとぼんやりしていたのよ。もう少し待ってくれる?」

 油断した。サラは、あたしの体に付いた傷痕に驚いたのに違いなかった。

「お手伝いを」

 止める間もなく、彼女は衝立のこちら側に滑り込んだ。もしかするとわざとそうしたのだろうかと、後で思った。

「……裸を見られるのは、楽しくないわね」

「あっ、ごめんなさい」

 慌てて伏せた眼に、少し涙が滲んでいる。

 あたしに順序よく衣服を手渡し、濡れてしまった髪を拭う。サラは手を動かしながら、ずっと泣きそうな顔をしていた。

 本当に泣いたのは身支度を終え、部屋の隅にある暖炉の前で髪を乾かし始めた時だった。

 それも床に敷き詰めた絨毯と毛皮の敷物に手を突いて、まるで罪を詫びるかのように泣いた。

 不安になる。あたしは一体、何をしでかしたと言うのだろう。

 伏せた背に手を置くと、恐縮するようにサラはもっと深く頭を下げる。

「許してください」

「何を? あなた達は、あたしを助けてくれたのに」

「そんな! 助けてくださったのは、姫様のほうです」

 この言葉が、あたしの眉を顰めさせた。

「姫様! 髪が濡れたままでは、風邪をひいてしまいます」

「デイトンの部屋はどこ?」

 後ろからサラが追って来るのは解っていたが、構わず天井から吊るした布を掻き分けて探す。

 長の家と言うから、氷壁の民の中でも最も立派な住まいなのだろう。まるで迷路だ。

 壁に切った出入り口には扉がなく、代りに厚い布で仕切っている。だがそれだけでなく、壁や廊下の真ん中も布で仕切って空気を分ける工夫をしていた。広い屋敷の防寒は、どうやらこれらの厚布が主役のようだ。

 何枚目かも解らない布を捲ると、そこにデイトンの姿をやっと見付けた。腰掛けたその前に、ノアとアルが立っている。

「姫様、髪が」

 驚いたようにデイトンが立ち上がり、あたしを暖炉の前に促す。

 デイトンはあたしよりも背が高い。それを見上げ、きっぱりと言った。

「あたしが十三人も殺したのは、あなた達の為ではないわ」

 ついさっき、サラは泣いた。

 自分達の為にあたしを辛い目に遭わせてしまったと、それを詫びて泣いたのだ。

 デイトンは全て理解していると言うふうに、緋い眼でこちらを見詰め返した。

「だが、結果的には同じ事。我々が危険を犯して為さねばならなかった事を、姫様がして下さった」

「秘密を守る事。そして、殺戮者を断罪する事」

 長の言葉を継ぐのはノアだ。

「あたしは、殺戮者と親しく言葉を交したわ。石を手に取り、美しいものだと嘆息さえしたの」

 吐き捨てるように言った。なのに、寄せられたのは気遣わしげなまなざしだけだ。

「姫様」

「恐ろしかったのよ」

 視線を受け止める事ができなかった。顔を背け、暖炉に眼を遣る。

「それを美しいと褒めそやした自分が、父が、兄達が。引き裂いた腹から奪い取ったそれを、素知らぬ顔で王に差し出すティラスが、恐ろしくて仕方なかっただけだわ」

 食い縛る歯の間から、涙の味を感じる。ああ、あたしは泣いているのかと、ぼんやり思う。そんな事で、償えるはずがないのに。

 エンジェリック・ブルーには、鉱脈が存在しない。

 故に、ティラスは氷壁の民を虐殺した。

 何故なら奇跡の鉱石は、長い年月を掛けて人体の中で作られるからだ。

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