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(十六)

   (十六)


 腹を裂かれ、今にも息絶えんとしていた少女が教えてくれた事だ。

 この世で唯一、神からエンジェリック・ブルーを有する事を許された人々。そして同時に、悪魔に魅入られてしまった者達。

 彼等を指して、氷壁の民と呼ぶ。

 ヴィンセントを見知った時にも充分に白いと思ったが、それよりも白い。月明かりを宿したような、青白い手が伸べられた。この場から逃れる為には、それを取る他にない。

 あたしは出会ったばかりの男の腕に抱えられ、殆ど落ちるように窓から飛んだ。

 二階だ。どうするのかと思ったら、真下に馬車が走り込んで来るのが見えた。速度を落としてはいるが、止まろうとする気配はない。

 計ったようなタイミングで、藁を積み上げた荷台に着地する。と、何かで脛を強か打った。藁の中に、固い物がうずめてあるのだ。頭から落ちたコーディーが、すぐ隣で額を押えてのた打ち回る。

「アン!」

 加速する馬車の後方で、声が上がった。走り続ける馬車を止める事もできず、成す術なく立ち尽くした兵士の向こう。通りに面した壁に縋り、何とか体を起してフィルが叫ぶ。

「すまない……!」

 母親の事を言っているのだろう。でもそれは、彼が謝る事ではない。むしろ、詫びるべきはこちらだった。

 フィルの家にワイルダーの荷物を置いて来たのを思い出し、あたしは彼に向けて大声で返す。

「荷物の中にお金あるから! 屋根修理の足しにしてー!」

 言っている間にも、どんどんと距離が開く。まるで豆粒みたいになったフィルが「屋根ぇ?」と素っ頓狂に上げた声が、最後にようやっと耳に届いた。

 ほっと肩の力を抜くと、共に馬車に飛び降りた男が御者と言葉を交しているのに気付いた。

「ノア。アルとルイスは?」

「あの二人なら大丈夫さ。予定通り落ち合えるだろう」

 頭に布を巻いた男はノアと呼ばれ、当然のように請け合った。彼自身、そうあって欲しい願っているのかも知れない。御者はそれに、枯れ草色の頭で頷く。

 見覚えのある色だ。

「バッカス……?」

 思わず呟く。御者はちらりとこちらを一瞥し、少し笑って眼を戻す。それはこの十年、毎日見続けた顔に違いなかった。

 ずっと、ただの下男だと思っていた。けれども今では、石の為に近付いた間者かも知れないと、疑いさえ持っていたのだ。

 それが、どうしてここに。しかも、氷壁の民と一緒にいるのだろう。

 あたしはすっかり混乱する。

 再び口を開き、その疑問を投げ掛けようとした。正にその時、影が差す。

 あたしに注ぐ陽光を遮り、人家の屋根から影が荷台に飛び移ったのだ。

 馬車は道なりに進むしかない。角を曲がればロスが出る。その間に屋根の上を真っ直ぐ駆けて、開いた距離を詰めたのだろう。

 黒い色に身を包み、男があたしの目の前に降り立った。速度に乗った馬車の上で、向かい風がマントを攫ってはためかす。押えたフードのその下で、男の口がニヤと歪んだ。

 頭で考える時間はなかった。だから、咄嗟の行動だったと思う。

 自分の体を投げ出すように、コーディーがあたしと男の間に割り込んだ。その背中を、呆然と見る。

 これ程まで、自分に失望した事はない。

 ――あたしは、庇われてはいけなかった。自分よりもずっと若く、まだ幼いようなその背中に。隠れてはいけなかった。

 理解したのは、コーディーが刺された瞬間だ。

 黒衣の男は邪魔な虫でも叩き潰すかのように、何の躊躇も見せなかった。その剣は難なくコーディーの胴を突き通し、背中から飛び出た剣先があたしの服を少し引っ掻く。全身の血が凍るようにぞっと冷え、その癖に頭だけは浮かされるように熱を持って錯乱した。

 血が。

 コーディーの血が、あたしの手の平を熱く濡らす。

 それで沢山と言わんばかりに、男が剣を持つ手に力を込めた。抜こうとしているのだ。今は剣刃が栓の役目を果たしているが、抜けば血が溢れ、命は絶望的になるだろう。

 思い至ると同時に、熱く凍えた塊のようなものが胃の底から湧き上がった。激しい怒りのようなそれが、あたしを突き動かす。

 コーディーに素早く腕を回して抱えると、男と奪い合うつもりで突き刺ささる剣を押さえた。間髪入れず、ノアが黒衣の肩を痛烈に蹴る。不安定な藁の上に片膝と手を突いて送り出された打撃は、黒い人影をよろめかす。

 だが、落ちはしない。

 剣を手放した男を休ませる事はせず、跳び付くようにノアの拳が激しく打つ。一見こちらが押して見えるが、しかしどこか往なされているふうに思われた。立ち向かうノアの表情が厳しい。

 深々と刺さる剣刃を動かさないよう注意しながら、コーディーを横たえる。頭の下に片手を敷き込む形になった。手の甲に、固い物が触れる。風で藁が飛ばされて、中にうずめた剣の柄が頭を覗かせているのだ。

「それを!」

 手が伸びる。慌てて剣を引っ張り出して差し出すと、受け取ったのはノアではなかった。

 では誰が?

 黒衣の男ではない。フィルの家に残して来たはずの二人が、馬車の上に飛び降りたところだった。

 はっとして、視線を移す。彼等は、もうひとりの男を止めていたはずではなかっただろうか。見れば、黒に身を包んだ人影が二つに増えている。

 こちらはノアを含めて三人だが、苦戦しているのは明らかに緋い眼の民だ。黒衣の男達が両方ここにいると言う事は、二人掛かりでも止められなかったに違いなかった。

 馬車で疾駆する城下の町は、長く高い塀で守られている。その四方には門があり、それを閉ざされてしまったらもう外へ出る事はできない。だから兵士達の報告よりも早く、あたし達は門を潜らなくてはならなかった。

 その為に、速度を緩めない馬車はよく揺れた。足元が悪い。二本の足で立ち上がるのも難しいだろう。これでは、重い剣を持つ事が却って不利になるかも知れない。

 他の武器はないかと必死に藁を掻き分けていると、何かが靴の先をコツコツと叩いた。

「ルイス!」

 ノアが叫ぶ。剣を手にした男が、頭の布を翻しながらこちらへと倒れ込んだ。こめかみを打たれたらしい。

 とどめを刺そうと短剣を掲げ、黒衣の男はそこで初めてはっとした。しかし、間に合わない。その時にはもうすでに、矢はあたしの手から離れていた。

 でき得る限りの素早さで、二の矢三の矢を次々放つ。四本目につがえた矢は、黒いマントを捉えて馬車の上から押し出した。

 藁の中から掘り出した弓は、弦の張りが強かった。肩が軋み、指先が痺れる。それを堪え、もうひとりの男に向けて弓を引く。

 舌打ち。

 男は状況の不利を察知すると、自ら跳んで退いた。それ目掛けて矢を放つが、胸の中心を捉えた矢を男は素手で止めてしまう。

 切り払うなら、まだ解る。しかし素手で、空気をヒュルリと裂きながら飛来する矢を掴み取るとは。呆気に取られ、一瞬あたしは感心に似たものを抱いてしまった。

「追う」

 さっき剣を渡した、ルイスと言う男だ。倒れた体を素早く起して短く言う。馬車から飛び降りようとするそのシャツを、慌てて掴んだ。

「ここにいなさい!」

 その間に、道に落ちた黒い影は姿を消す。

 戸惑ったふうのルイスが屈み、ノアがあたしの頭を押えて低くさせた。その上すれすれに門の桁が通り過ぎる。

「バッカス」

「姫様のお考えだ」

 馬を操りながら、背中で答える。

 他の三人は、二十代半ばと言うところだ。その中でひとり年長のバッカスに、アルが意見を求めたのだ。

 納得してない彼等に向けて、あたしは思うところを口にした。

「無駄よ。殺しても、意味がないわ。あれはただの手先だもの」

 誰かに雇われた者なのだ。どうにか始末できたとしても、また新しく雇われた人間が現れる。状況は同じだ。危険を冒す価値はない。

「それより、コーディーを医者に」

「できません」

 ノアが憐れむような顔で、それでも譲れないときっぱり言った。

「……死ぬわ。放って置けば」

「すぐに追っ手が掛かります。できるだけ町を離れなくては」

「ノア!」

 呼ぶと、彼は打たれたようにビクリと背筋を正した。

「……聞きなさい、ノア。嫌だと言っているの。あたしの為に死なせるのも、あたしの咎で死なせるのも。嫌よ。望みが聞けないと言うのなら、今すぐあたしを放り出しなさい」

「姫様!」

 アルとルイスが悲鳴染みた声を揃え、縋るようにあたしを見た。

「……姫様」

 それとは違うニュアンスで、ノアが呼ぶ。眼を遣ると、頭も上げられずにいるコーディーがノアの袖を引いていた。

 急いで傍に寄る。

 道の石ころに馬車がゴトゴト揺れるのが不憫で、黒髪の頭をそっと撫でて遣った。

「コーディー?」

「どうか、このまま共に……」

「馬鹿ね。死ぬわよ」

 弱々しい声にあたしが気色ばむと、ノアがそっと肩に手を置いて押しとどめる。

「姫様の御前を離れないと、心を決めているのです。どうか」

 コーディーに代るように頭を下げ、他の二人もそれに倣った。

 思えば、彼等自身もまた命を危険に晒しているのだ。それに気が付いてしまうと、何も言葉が出て来なかった。

 ……解らない。

 どうしてそんな事をするのだろう。

 あたしには、そんな価値はないと言うのに。

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