(十四)
(十四)
出口が近付くにつれ、息が詰まる程に悪臭が酷くなった。
「ここは……何ですか?」
「死体置き場よ」
通路の内側で、答えながら荷物の袋をごそごそと探る。途中で調達した手提げランプが、床の上からそれを照らした。
靴と着替えが必要だった。あたしはベッドから飛び起きたままの姿で、絹の寝間着でおまけに裸足だ。通路の内はまだいいが、これから出て行くのは山のように死体が詰まれ、じっとりと湿った地下室だ。できる事なら、素足は避けたい。
「……とんでもない場所に、通じていますね」
「別の出口もあるわよ。でも、そっちは軍の施設だから。今はリシェイドに制圧されてて使えないの」
実はその他にも酒場に開いた出口であったり、娼館に向かう分岐もある。用途は詳しく追求しないが、いずれにしろ閉ざした門扉の内側で、招き入れた覚えのない人間が夜明け前にいきなり増えればさぞ不審だろう。
その点、ここなら心配ない。死体は密告しないから。
「嫌なら、戻ってもいいわよ」
「お供いたします」
死体と聞いて気味悪そうに呻いた侍従は、そこだけは断固として宣言した。
実は、城の中にいる内にコーディーだけを通路から出し、置いて来ようかと考えていた。この子を巻き込む事はないと思っての事だったが、「侵入者を目撃したわたくしが、無事でいられる保障はありません」と、いやにきっぱり論破された。
だったら一緒に逃げるのがまだいいと言い張る理屈に巧い反論が思い付かず、結局連れて来る事になってしまったのだ。
荷物から探し出した衣服を身に着け、通路から出るとコーディーが明らかにほっと息を吐く。着替える間は手を繋いでいられないから、彼だけ先に通路から出していたのだ。
つまり、死体と一緒に待たせていた。
石造りの地下室には、死体の放つ饐えた臭いが充満している。呼吸をするのも苦痛な程だ。
「外で待ってもよかったのに」
「まさか。そんな事はできません」
コーディーはランプを持って先に立つが、殆ど後ろ向きに歩いて注意深くあたしの足元を照らした。
「リシェイドの軍がこの王都に入る時、戦闘はなかったと聞いていたけど」
「はい。その通りです。抵抗らしい抵抗はなかったと……」
急に何の話を始めたのかと、コーディーは答えながら訝るように首を傾げた。
通路の口が開いているのは、地下室の一番奥だ。何しろ余りに多くの死体があるので、そこから階段まで、何も踏まないように進むのはかなり大変な作業だった。
チロチロと揺れる小さな灯火が、周囲のものを橙に染めて浮かび上げる。眼に入るのは、死体ばかりだ。それも日が経って変色し、奇妙に腹の膨れた死体や、爛れた唇の間から虫をぼろぼろと零しているものが多い。それが数え切れない程に積み上げられて、進路を塞いだ。
死体から染み出たもので、濡れた床。それを靴で踏みながら、あたしは内心で酷く驚き、混乱していた。
この死体置き場は、親族が葬儀の準備をする間だけ死体を保存する場所だ。だから通常、ここまで死体で溢れる事はないに等しい。
少なくともあたしが監禁される、十年前まではそうだった。
「……一体どうして、王女がそのような事をご存知なので?」
どうやら考え事が全部声に出ていたらしく、先を行く背中は何とも言えない奇妙な顔をこちらに向けた。
「城を抜け出すのによく使ったのよ。絶対ばれないの」
「そりゃぁ……まさか一国の姫ともあろう方が、このような場所に出入りなさるとは思いもいたしませんから」
やっと階段まで辿り着いて、コーディーは段の上に荷物を置くと心底ほっとしたように息をついた。
「確かにね。こんな場所なら、一度だって使わなかったわ」
呟くと、今通って来た場所を振り返る。
地下と言っても、相当に広い。今はそのどれもが死体に隠れて見えないけれど、重い天井を支える柱の間に石の寝台が幾つも並び、壁際には石を刳り貫いた巨大な水槽が用意されていた。
本来なら、多くても石の寝台に二つか三つの死体が載っている程度なのだ。数日の内に埋葬されると決った死体は、そうして保存する。もっと長く置くものは植物の油で水槽を満たし、その中に浸された。
あくまでも一時保管の為の施設で、こんなふうに死体を打ち捨てる場所ではない。
考えられるとしたら、葬儀を取り仕切る者まで死んでしまったか、それとも死体の数が多過ぎて手が付けられなくなったかだ。しかし、リシェイドはこの地で戦っていない。
ではこの死体の山は、どうやってできたと言うのだろう。
その事を思うと、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「とりあえず、店が開くのを待ってコーディーの服を揃えなくちゃね」
「えっ。いえ、わたくしはこのままで」
「いかにも良家にお仕えしてます、って言う、全身絹の出で立ちで?」
白み掛けた空の下、自分の体を見下ろして少年は困り果てたように眉を下げる。
「目立つでしょうか」
「目立ってないと思ってるあなたにびっくりよ」
幸い、ワイルダーの用意した荷物の中には現金もあった。当面困る事はないだろう。
何をするにもまだ早過ぎる時刻だが、死体置き場のある場所は町外れだった。この辺りは鍛冶屋ばかりで、服を手に入れるにはもっと城下の中心に移動する必要がある。
コーディーを促して歩き出し、数歩も行かない内にあたしはふと足を止めて振り返った。空は白み、陽が昇ろうとしているのだ。なのに、この静けさはどうだろう。
鍛冶屋は夜明け前には起き出して、鎚を振るうものなのに。
不安を伴う違和感が、静寂の中に深くなってあたしの眉を顰めさせた。
街の中を歩くと、それはもっと顕著になった。まだ時間が早いから、人がいないのは仕方ない。だが閑散とした街並みは、どことなくうらぶれて見えた。その印象はレンガの舗装がガタガタに剥がれた道のせいかも知れないし、通りに面した建物で破れ掛けの鎧戸が風に軋むせいかも知れない。
王城の庭で感じた事が、もっと身に迫って実感された。滅んだのはひと月も経たない内の事なのに、この国はとっくに死んでいる。
*
「アンじゃないか?」
服を探そうにもまだ店が開いてない。そこで、とりあえず早朝から遣っている食堂を見付けて入ったのだが、席に着くなりそう声を掛けられた。
オレンジ掛かった金髪に、深いグリーンの両目。どうも、覚えのある顔だ。昔はもっとひょろりと縦に長い印象だったが、すっかり肩幅の広い大人の体になっている。
「……ああ、フィルね。驚いた」
「何を驚くんだよ。当たり前だろ、ここはオレの店だ」
「覚えてると思わなかったのよ」
フィルはわざわざ厨房から出て、あたし達のテーブルまで足を運んだ。懐かしそうに笑いながら、腰に巻いた前掛けで手を拭う。
「忘れるかよ、一緒に悪さした仲だ。しかし、ご無沙汰だったじゃないか」
「ちょっと国を出ていたの」
「へえ……まあ、無理もないな。悪いけど、シチューしかないぜ」
「来るの、早過ぎた?」
「いや、今はそれしかやってねえんだ。マシになったんだぜ、これでも。ちょっと前まで、豆のスープしか出せなかったからな」
それで構わないと頷くと、フィルは厨房に戻る。それを待ち構えたように、正面に座ったコーディーが身を乗り出してあたしに囁く。
「お知り合いですか」
「昔ね、よく来てたのよ。ここではアンと名乗っているから、気を付けて」
「ミドルネームでは、偽名にならないのでは……」
釈然としない様子でコーディーは言ったが、王族のミドルネームを承知している人間が市井にどれだけいるだろう。
「はいよ、お待たせ」
「ありがとう」
「で?」
テーブルにシチューを運び、フィルはすぐに去らず眉を上げてあたしに尋ねた。
「で、って?」
「連れか?」
あたしの前の席を指す。
急に話題に上げられて、コーディーはギクリと強張った。それでも黙っているのは、さすがに賢明だ。二人一緒に口を開くと、どこから嘘がほつれるか解らない。
「内緒にしてね。弟なの。奉公が辛いと泣くものだから、連れて逃げている所なのよ」
「それで大層な服着てんだな。目立つぞ、それ」
あたしの出任せに頷いて、フィルは絹の襟を指先で弾いた。コーディーはいよいよ小さく縮こまる。
「古着屋を探してるんだけど、この辺り、随分と変わったわね」
「こんなご時世だからな。リシェイドが来て、よくなったほうだ。それまでは王様の石狂いのせいで、食料もマトモに手に入らななかったんだぜ」
「石狂い?」
「知らないか? エンジェルなんとかって宝石のせいで、アイディームの王族はみんな狂っちまったんだと。有名だぜ?」
まさか、そんな事になっているとは。あたしは驚き、コーディーを見た。すると彼は弱り切った顔を伏せ、居心地悪げにシチューのスプーンを舐めている。
なるほど、有名な話らしい。