(十三)
(十三)
眠らずにいた。
監視の為に、壁際の椅子にはコーディーが腰掛けている。彼が眠るのを待って、城を抜け出さなくてはならなかったからだ。
月が細くなっていて、いつかの夜のようには眼が利かない。全くの闇に近かったけれど、実際はそうではなかった。細い月と星の光が夜の空気にうっすら溶けて、窓から室内に紛れ込む。
そう知ったのは、闇の中に一層深く黒い闇を見た時だ。
テラスに繋がる硝子の扉が静かに開き、闇の塊がその体躯を滑り込ませる。それは人の形をしていた。だが果たして本当に、二本の足で歩いたのだろうか。それは足音もなく亡霊のようにベッドに近付き、分厚いマントをはためかす。影の中から男の手が現れて、横たわるあたしの体に伸ばされた。
ベッドから転がり落ちるように逃れるのと、黒い人影がよろめいたのはほぼ同時だ。
「コーディー!」
思わず叫ぶ。
一瞬にして全身が冷えた。眠っていたはずのコーディーが、侵入者に向かって体当たりしたのだ。
あたしは落ちた床から慌てて跳ね起き、ベッドを挟んだあちら側に駆け寄った。そこでは小さな人影が、たやすく引き倒されるところだった。
「お逃げください!」
駆け寄るあたしを責めるように侍従は言って、再び侵入者に立ち向かおうと身構える。
コーディーには悪いが、どう見ても無謀だ。相手はこっちよりずっと大きな体を持って、そして酷く場慣れしていた。
幾らあたし達が非力とは言っても、騒がれたら少しは焦りそうなものだ。なのに、そんな素振りは欠片も見せない。それは余裕のようであり、気味の悪い不安を掻き立てるものでもあった。
騒ぎを聞き付け、兵が駆け付ける事を警戒していないのだろうか。ドアの外には今だって、二人組の当番兵が立っているのに。
あたしは後ろからコーディーの腕を引き、素早くドアに取り付いた。両開きの扉を開いた瞬間、納得する。そうか、だから、男は慌てる必要がなかったのだ。
廊下には灯火があった。それを背に受ける格好で、もうひとつ。マントを着けた黒い人影。それはフードを目深に被り、表情を闇の中に沈めていた。
足元には、倒れ伏した二人の兵士。ピクリとも動かないそれは、すでに息絶えているだろう。
束の間、胸の中を圧倒的な絶望が占めた。
「わたくしを捨て置いて、どうぞお逃げください……!」
あたしの肩を掴み、コーディーは強い口調で囁いた。その声で、我に返る。自分ひとりではないのだ。この子を、巻き込んで死なせるのは耐えられない。
立ち尽くしたわずかの間に、背後にはもうひとりの男が迫る。あたしはベルトの辺りに手を当てて、コーディーを突き飛ばす。と同時に体を反転させて、真後ろに向き直った。
男はさっと身構える。突き出したあたしの手に、コーディーのベルトから抜き取った短剣が握られていたからだ。
当然たやすく止められる。ナイフを握った腕を掴まれ、あたしは即座に武器を手放す。その手で逆に男の腕を捉えると、上体を引き付けて真正面から膝を蹴った。体重を乗せて踏み付けるように蹴った為に、男の膝は異音を立ててグニャリと曲がった。
その体が床に崩れるより前に、あたしはコーディーの手を取ってクローゼットの陰に飛び込んだ。その先に、秘密の通路が開いている。
ここまでは追って来られないはずだ。通路に入ってしまうと、思わずその場にへたり込んだ。
ドキドキと、早鐘のように胸が鳴る。それと同時に熱いのか冷たいのか解らない感覚が、今更に体中をぐちゃぐちゃに混ぜた。
高ぶって熱を持った頭で思う。これでよかった? 本当に? 他に遣りようがなかっただろうか。何よりあたしは、コーディーをこの中に引き込んでしまった。
握り締めた手の先を確かめたいと思ったが、輪郭も朧なこの闇の中では無理な話だ。
「あの者たちは……」
手の先の声に、あたしはシッと鋭く息を吐いて戒める。
通路に生きる魔術の力は姿を隠してくれてはいたが、音までは打ち消してくれない。今の声が届いたか、戸口に立っていた男が部屋に踏み込みこちらに近付く。
そこは通路の入り口だったが、まるで見えない壁に阻まれてでもいるようだ。伸ばした手が、あたし達の目の前でヒタリと止まった。
あたしはコーディーを両手で捕まえ、足音を立てないよに注意を払ってその場を離れる。
「あの者たちは、何者でしょう」
しばらく歩き続けたところで、コーディーがそう口を開いた。周囲は少し、明るくなった。どこかの部屋か廊下に灯された明かりが、石壁の隙間から入り込んでいるのだろう。
「さあね」
何者か? それはあたしも教えて欲しい。
手を引いた格好のまま振り返ると、不安げな顔がうっすらと見えた。
「ですが、城内に忍び込んでマチルダ王女を狙うなんて……」
「狙う、ねえ。殺すつもりはなかったみたいよ」
コーディーの頚からタイを取って、繋いだ手にぐるぐると巻き付ける。うっかり離してしまいはしないかと、ずっと冷や冷やしていたのだ。あたしが手を離してしまったら、この子はたちまち出口のない迷宮に囚われてしまう。
「そんな事、分かるものですか。さっきだって王女がとめてくださらなかったら、どうなっていたか」
「あっちが油断してたのよ。護身術程度の抵抗で、どうにかなる程やわな相手に見えなかったもの。殺すのが目的なら、ずっと簡単に終っていたはずよ。二人共ね」
だから目的は最初から、あたしを無傷で連れ去る事ではなかっただろうか。
これは頭の端にずっとあった疑念だが、口には出さず胸にしまった。もしも考え通りなら、あの侵入者達は躊躇なくコーディーを殺しただろう。丁度、廊下に倒れた兵士達のように。
奴等に取って、命の価値は等しくないのだ。
あたしと、あたしの頭の中にある情報。それさえ手に入ればいいのだと直感した。
無意識の内に唇を噛む。
どうして、今夜だったのだろう。もう一日遅ければ、あたしはこの城にいなかったのに。もう一日早ければ、きっと眠ったあたしを簡単に攫う事ができたのに。
考えたくない推測が、苦く広がる。
「……とにかく、ヴィンセントの所へ行きましょう」
「ハーディー将軍の? なぜそんな」
あたしの提案に、意外そうな返答がある。その反応には、却ってこちらが驚かされた。
「おかしい? 危険な目に遭ったのだから、誰かの力を借りるべきだわ」
「よろしいのですか。そんな事をしたら、もうお逃げにはなれませんが」
あっさりと言われたので、一瞬、会話の途中でするように何げない相槌を打ちそうになった。けれども、ちゃんと考えて。
コーディーは今、とんでもない事を言ったはずだ。
あたしはがっくりと壁にもたれて、改めて納得する。そうだ。コーディーはそもそも、ワイルダーに薬を与えられて眠っていなければならないのだ。
「ああ……、そうよ……。そうよね。コーディー、何で知ってるの?」
「申し訳ございません。なにぶん、小細工の苦手な方ですから……。飲み物を渡された瞬間に絶対おかしいと思ってしまって」
「目に浮かぶわ……」
薬入りのカップを手にし、挙動不審なワイルダーが。
「何を考えておられるのかまでは推察しかねましたが、この荷物を見てやっとマチルダ王女をお逃がしする計画だったのだと納得いたしました」
「あら」
言って、コーディーは空いた片手で重そうな袋を持ち上げて示した。ワイルダーが用意して、昼間の内に通路に隠した逃亡用のあの荷物だ。
どうやら通路に飛び込んですぐに見付け、ずっと片手に抱えていたらしい。道理で、歩くのが遅いと思った。
「でも、それなら尚更ヴィンセントの所へ行かなくちゃね。あたしを逃がす訳には行かないでしょう?」
「危険にさらすと分かっているのに、ですか? それは、ハーディー将軍もお望みにはならないでしょう」
「……中々、賢いわねえ」
「恐れ入ります」
あたしはため息ではなく、気分を入れ替える為に大きな息を吐いた。
それから狭い通路の片側に手を突き、歩き出す。ヴィンセントの部屋ではなく、城の外へ出る為に。
コーディーの言う事は、いちいち的を得ているのだ。
あたしは今夜、城から逃げ出す予定だった。そこで重要になって来るのが、どうして今夜だったのかと言う事だ。
確かにこの逃亡計画の為にあたしは眠らずにいたのだが、それは果たして本当に侵入者達のマイナスに作用しただろうか。彼等は、恐らくプロだ。あたし達が逃れられたのは単なる幸運で、本来なら女一人が抵抗したところで大した問題にはなり得ないだろう。だとしたら、敢えて今夜だったとも考えられる。
計画をコーディーに看破されてしまうのは予定外だったに違いないが、ワイルダーはあたしを逃がす為に警備に穴を開けた。
その事を承知の上であの男達が訪れたのだとしたら、その意味する所は余りに危険だ。
この憶測の通りなら、あたし達の計画を知る人間が侵入者達を招き入れたと言う事になる。




