(一)
(一)
十年目の秋だ。
珍しい事に……。いや、恐らく初めてだろう。取り乱したバッカスが、慌ててあたしの元に駆け込んで来た。
壁に掛けたランプの明かりが、ゆらゆらと文字を照らす。あたしは読み掛けた本に眼を遣ったまま、格子の向こうの男に問うた。
「どうかしたの」
彼は左の足が悪い。特徴のある足音だから、姿を見なくても誰だかすぐに解るのだ。
「お逃げ下さい」
返事と同時に、ガチャリと鍵を開ける音。
視線を上げると、やはりそこにいるのはバッカスだ。三十を少し過ぎた男で、枯れ草色の髪と眼を持つ。
よく知った顔だ。あたしがこの十年を生きて来られたのは、彼が見捨てなかったお蔭だと言っていい。
朝な夕なに食事を運び、粗末でも清潔な衣服を用意した。それだけでなく、父や兄達の耳に入ればきっと厳しい罰を受けるだろうに、城の書庫からあたしの手元まで本を運んだ。
今この手にある本も、数日前にバッカスが差し入れてくれたものだ。
親切な男だ。よく尽してくれる。けれどもこの十年、決して犯さなかった禁忌がある。
牢の鍵を開けない事だ。
あたしは、手の中の本を閉じてバッカスを見詰めた。
「鍵を閉めて」
「姫様! ……どうか」
鉄格子の扉を開け放ち、その場で土下座せんばかりに枯れ草色の頭を下げた。その様子を見ながら、あたしは閉じた本で自分の肩をトンと叩く。
どうも、おかしい。バッカスがあたしを逃がそうとした事は、これまでなかった。
考えられる心当たりは、処刑の日取りでも決まっただろうかと言う程度だ。でもそれは、いつかそうなると知っていた事じゃないか。それなのに?
ふと、天井を見上げる。
揺れている気がした。端に寄り、長い袖の先から覗く指先で石を積んだ壁に触れる。やはり微かに、振動を感じた。
ここは、地下牢だ。それも捕虜や囚人を捕えて置く場所よりも、ずっと奥深い位置にある。外の事は、ほぼ影響しないと思っていい。
あたしの知る限りここよりも堅牢で、ここよりも隔絶した場所は城内にはないだろう。
「バッカス」
呼ぶ。
返事がない。
「バッカス?」
顔を向ける。
と、バッカスは跳ねるように立ち上がり、鉄格子を閉めながら牢の中に素早く体を滑り込ませた。鍵を閉め、さっと離れる。
ボロ布みたいな服に包まれたあたしの肩をぐいぐい押して、部屋の隅に追い遣った。そして庇うように、背を向けて目の前に立つ。
その間にも、足音がしていた。複数の硬い靴が、石畳を蹴る音。これが、石を積み上げた牢全体を揺らしていたのだ。
――あり得ない。
ひと目見て、そう思った。
けれども、何を根拠に?
自国の王とはとっくに道を違えてしまったが、それでもどこかで信じていたと言う事だろうか。
硬い足音と共に姿を見せたのは、敵対するリシェイド国軍の兵士達だった。
十人程の武装した兵が鉄格子の外にばらばらと散り、中央を少しだけ不自然に空けた。
コツ、コツ、と。ゆっくりとした足音を響かせ、そこに現れたのは獅子の紋章を身に付けた金髪の男だ。酷く若い。
その背後にぴったりと寄り添う赤髪は、護衛だろうか。もしそうなら、獅子の男は重職の軍人と見ていいだろう。
だとしたら、思い当たる事がある。
「バッカス」
背中を叩いて、離れさせる。彼の背中と壁に挟まれ、身動きができなかったのだ。
戸惑うふうのバッカスは放って置いて、寝台の下に押し込んだ本を引っ張り出す。最近読んだ一冊を選び、ぱらぱらと捲る。
「“若干十八で騎士となった、ヴィンセント・L・ハーディー”」
金髪の男が、ピクリと眉を動かした。
が、何も言わない。あたしは再び眼を落とし、本の文字を声に出す。
「“以降数々の武功を上げ、リシェイドでも異例の出世を重ねて二十一で最年少の将軍に。その戦いぶりと紋章から、北限の獅子と讃えられる”」
本を閉じ、格子の向こうに問い掛ける。
「あなたの事でしょ。この本は正しい?」
「年齢以外は。騎士になったのは十七です」
「ああ、そうなの? でも、どっちでもいいわね。充分若いから」
「もう二十四になりましたよ」
「ほら、若い。あたしは確か、三十になったと思うわ」
いつの間にか年を取った。何だかがっかりしてため息をついていると、ヴィンセントは背後の赤髪と困ったように顔を見合す。
それが意外で、あたしは少し首を傾げた。
こんな事で困っていて、将軍職が務まるのだろうか。
「素直な人ね」
「それはどうも。では少し信用して、出て来ては頂けませんか」
「残念ながら、決めるのはあたしではないの。鍵を持っているのはこのバッカスだし、牢から出るには王の許しがなくてはね」
「王? それは、この国の支配者と言う意味でしょうか」
ヴィンセントは、わざわざその定義を確かめた。
「……そうね。何が言いたいの」
「では、許します。私が、この地を治める総督として」
余りにさらりと言ったので、それを理解するのに時間を要した。その沈黙に、ヴィンセントは言葉を続ける。
「貴方の王は斃れました。現在このアイディームは、我がリシェイドの属領です」
反射的に、バッカスを見る。
逸らされるかと思ったが、彼は枯れ草色の瞳でちゃんとあたしを見詰め返した。そしてその表情が、今の話は事実だとあたしに教えた。
王が斃れた。
それは、国が斃れたと言う事だ。死んだと言う事だ。
あたしの祖国。あたしの家。アイディームが、滅んでしまった。
静かな声が、ピリリと刺して耳を打つ。
「アイディーム国王ハワード・アルプライの娘、マチルダ・A・アルプライ」
それはあたしの名前だった。
ゆっくりと、声の主へと眼を向ける。
「この地を治める総督として、またアイディームの土地を勝ち取ったリシェイドの将として、正式に命じます。出なさい、マチルダ」
はっと息を飲み、バッカスが慌ててあたしの前に出た。不安げな眼で、こちらを見下ろす。そんな顔をする事はないのに。
城に仕えてはいても、バッカスはただの下男だ。命を懸けて、あたしを庇う義理はない。
なだめるように、その腕を軽く叩く。
「開けて、バッカス」
「姫様!」
「昔話を知らないの? 魔物でさえ、正体を見抜かれたら負けを認めるものよ。人間なら、尚更ね」
それに地下牢で籠城したって、結局は出て行く事になるのだし。
そう諭すと、バッカスはこの世が終りでもしたかのような暗い顔で渋々と鍵を出した。
「もっと抵抗なさるかと」
「どうして? 亡国の民はか弱いものだわ」
両側から武装した兵士に挟まれて、回廊を歩きながらあたしは答えた。
庭に面した柱の間を、心地いい風が通り抜ける。数年ぶりに頬を撫でる風は、ごわごわに痛んだあたしの黒髪も少し揺らした。
いい季節だ。
「私は貴方の父上と兄上を殺し、国を奪ったのですよ。罵られるくらいの事は、覚悟していたのですが」
「敵対国とは戦うものだわ。負ければ死に、奪われる。その程度の事は、父も兄達も知っていたはずよ。それに」
自分の言葉に、あたしは足を止めた。少し前を歩いていたヴィンセントは、それに気付いて振り返った。
立ち止まろうとした訳ではなかった。
負ければ死に、奪われる。
そんな事を言ったせいで、不意にあの夜を思い出した。その為にただ足が動かなくなったのだ。
――落ちて砕けた毒の杯。
――人肉を裂く、剣の手応え。
――揺れる灯火の明かりを受けて、ぬるぬると光る血の塊。
国とは、奪い取ったもので富んで行く。
正義はまるで仮面のように、上っ面だけでしかない。その下はいつしか朽ち果てて、醜く崩れて骨さえも残らない。
正直に言うと、立っているのもやっとだった。けれども、この胸の内に気付かれる訳には行かなかった。急いで口を開く。
「考えて。あたしは確かに王の娘だったけど、どうして地下牢なんかにいたの?」
「自分を牢に繋いだ王を、恨んでいると?」
「残念。違うわ」
そっと息を吐いて、あたしは再び歩き出した。
「この身は血の一滴まで祖国のもの。ただ、その血はもはや枯れ果ててしまったと言うだけの事よ」
「……なるほど」
今度は、ヴィンセントが動こうとしなかった。振り返ると、金色の髪の下からアイスブルーの瞳がこちらを見ている。
薄青いそれは、光の中で不思議に輝く。凍えた夜空のオーロラみたいに。
まるで、何より美しいあの石に似ていた。
「にわかには信じ難い、ただの噂だと思っていたが……」
――あたしは、侮っていたのだろうか?
相手は、北限の獅子と呼ばれた男。
残酷な程、怜悧な人間に違いないのに。
「アイディームの末姫が一夜の内に一個小隊を惨殺したと言う話は、事実ですね」