月下美人
加筆しました
ベル・サマセットという令嬢は面長で細い目に細くちんまりとした鼻、顎が少し張っている。
唇だけは艶めく薄紅の一輪の薔薇のようで⋯まあかなり魅力的ではあるが。
サマセット伯爵家の令嬢で我家の遠縁の娘であるらしい。
母の従姉妹で親友でもあるという彼女の母親とともに紹介された。
「バーバラ小母様と呼んでね。まあ⋯お父様そっくりにお育ちになって!将来が楽しみな素晴らしい美少年だわ!」と叫び、母に窘められた彼女の母親は可愛らしい感じのそこそこ美人で⋯ではベルは父親似なのだろうか。申し訳ないが激しく名前負けした令嬢だな、と思った。
少し話もしたがまぁ彼女の印象と言えばそれだけだった。
それが学園の中等部に入学した頃の我家の夕食会での話で、高等部に上がってそのベル・サマセットが外部入学して来た時も変わってないなと思っただけだった。
バートン伯爵家それが我が家。
父はルーファス・バートン伯爵。文句のつけようがない人格者で美丈夫。社交界での女性人気ダントツのナンバーワンだ。
もっとも父は母を溺愛していて他の女性には目もくれない、勿体ない話である。
母はグレイス・バートン。バートン家の長女で父は入り婿である。
母もかなり美しい女性だとは思うが、あの父の愛を独占出来ている所は尊敬に値する。
だって男女の愛は移ろいやすいものだろ。
そして世の中には可愛い女の子がいっぱいで目移りするよね⋯男だったら特にさ。
僕の名前はクロード・バートン。
バートン伯爵家の長男で嫡男だ。
嫡男は人気が高いらしく幼い頃から縁談が引きも切らなかった。
だが母が「〝まあいいか〟くらいの気持ちでお相手を決めてはダメ、後々苦労するわ。この方だ!と心が動く方が現れるのを待ちなさい」と言ったので女の子を紹介される度に目移りする僕の良い言い訳にもなってなかなか婚約が決まらないままこの年を迎えてしまった。
今度の誕生日でもう十八歳だ。
社交界や学園での男友達にはもう大抵、婚約者がいる。
お陰で周りの僕の評判が酷い。容姿が父にそっくりなのも災いし“遊び好きな色男の女誑し”女の子を口説いた事も無いし付き合った事も無い、まだ童貞なのに⋯。
「疲れない⋯?」ベルに聞かれた。「え、何が?」
「クロードは見てるこっちが疲れるくらい女子に甘いからさ。誰でもお姫様なんだな⋯」
「女性は常に優しく扱うもんだろ」
ベルは呆れたような顔で言う。
「だから誤解されるんだ。さっきの令嬢も婚約者がいるのにあなたを見て赤くなってた」
「何で?か弱い女の子なのに重そうな教材運んでたから半分手伝っただけじゃないか」言い返すとベルが僕と自分が抱えた数冊の本を交互に見てから言った。
「じゃこれは?半分手伝う気にならないのか?」
僕は思わず吹き出した。「何でだよ、お前がか弱い女子に見えた事なんかねーわ!」
「⋯殺してもいいか?」鋭い目で僕を睨みながら言うのが可笑しくて更に笑った。
ベルは本当に良い奴だ。目付きも口も悪くて、おまけに愛想も悪いが案外優しくて面倒見がいい。
さっぱりしてて付き合いやすい最高の奴だ。
なんせ母親同士も仲が良い。高等部に入って来て同じクラスになってからずっと親友扱いしている。
彼女の家は領地が遠方で両親もあまり王都に出て来ないようでタウンハウスを所有していない。学園の女子寮暮らしだ。
だからたまに我家に夕食を食べに来たりしてうちの弟達とも仲が良く両親にも可愛がられている。
「クロードもういい加減に婚約者決めろよ。もうベルでいいじゃん」
可愛いワンコ系の生意気盛りの下の弟トビアスが言った。
「馬鹿いうな。僕は面食いなんだ」と言うと
「⋯ふーん。でも彼女いいと思うけど⋯綺麗だよ。クールビューティ系で」
上の弟のオーランドが珍しく口を開いた。
「クールビューティはお前だ⋯!」
オーランドは母に良く似た上品な美貌の秀才だ。無口で愛想が悪い。
だが冷たい美貌の眼鏡越しに睨まれるのが堪らないと令嬢が騒いでいるのは知っていた。
「とにかくベルは無い無い」
「ふーん」言いながらトビアスはキャンディを口に放り込む。
オーランドは無言で、読んでいた本にまた目を戻した。
何だよ、結局興味無いくせにさ⋯
でも婚約かあ⋯まあそろそろ決めないと本当にヤバいかも知れない。
もう彼女でいいかなあ⋯今は彼女しか思い付かない。でも絶対彼女じゃないと⋯とまでは思わないんだよなあ。
「ペネロープ・ブレア?」
「うん⋯彼女どう思う?同じ女子目線でさ」
翌日学園でベルに相談してみたら胡散臭そうな目で睨まれた。
ここは学園の温室、ベルは園芸クラブに入っている植物好きだ。
クラブ員は少なく忙しいらしい、放課後は大抵温室にいる。
「あなたは女性を身分と顔で選ぶのか?」
何だよそれ⋯「彼女美人なだけじゃなく、優しくて良い子だよ。えと、たぶん」少し視線を上げめにして言った。
温室内のテーブルセットの椅子に向かい合って二人で掛けていたのにベルが急に立ち上がって一瞬僕を見据えたからだ。
「あなたがそう思うなら良いんじゃないの、美しいし公爵令嬢なんだし」直ぐに後を向き屈み込んで並んでいた鉢植えのひとつに目をやりながら言う。
「⋯やな言い方やめろよ。だからそんな理由じゃないって」ベルは少し黙った、そしてこちらを振り向いて言った。「すまない悪気は無いよ。でも彼女大丈夫なの?父上は宰相で王家とも親戚だし、学園一の美女なんだし、あなたが相手にされるの?」
「う⋯ん。実は昔⋯キスした事ある⋯」テレながら言った。
ちょうどベルと初めて会ったのと同じ頃、母に連れられて行った王宮の婦人ばかりのお茶会で会ったのだ。
彼女も母親に連れて来られたのだろう。
退屈そうにしていたので散歩に誘ったのだ。
王宮の庭には丁度庭師が居てねだると何輪かを摘んでくれた。
彼女にプレゼントすると「ありがとう⋯王子様みたいね」
と言って頬にキスしてくれた。
「僕は調子に乗って冗談のつもりでここにも⋯ってねだったら」と唇を指さした。
「⋯してくれたのか」僕は黙って頷く。
「そう⋯」気の所為だろうか、また後を向いて鉢植えに屈み込むベルの背がなんだか儚く小さく見えた。「⋯じゃ私にグダグダ言ってないで直接求婚してみれば⋯?」
葉っぱを指で摘みながら言う。
「そう⋯だな。ペネロープ嬢に打診してみようかな」
僕が思わずそう答えるとまた振り向いて薄く笑った。
「何だ、最初からその気なんじゃないか⋯」
「うるさいよ。」と笑ったがベルの笑顔に翳りを感じて戸惑う。その気分を誤魔化すように「ところで何だその草?」と聞いてみた。
さっきからベルがずっと気にしている植木鉢の植物は厚めで濃い緑の葉のような物が何枚も垂れ下がって居るだけの華やかさなどまるで無いただの草に見えた。
「これは月下美人って言うんだ。ここ見て⋯」指差した所を見ると薄紅でイガイガしたちょっと虫みたいな物がぶら下がっている。
「たぶんもうすぐ咲くはず」
その薄紅の虫を見ながら背中で言った。
「ふーん⋯」
そうだ、たぶん気の所為だ。好きな植物いじってる時のベルが沈むなんてないはずだ。
ペネロープ・ブレア公爵令嬢は同じ学園に通っている。
僕が通う王立学園は4年制だ。僕が今3年で1つ年下の彼女は2年の教室にいる。
同じクラスに弟のオーランドも居るので少し気恥ずかしいが昼休みに呼び出してみた。
学園のレストランで向かい合ってから小声で聞いてみた。
「昔、王宮の庭を二人で散歩したの覚えてる?」
ペネロープ嬢は笑った「⋯ええ。クロード」
「じゃ⋯さ。今、何かある?あの、例えば縁談が進んでるとか⋯好きな人が居るとか⋯さ」
ペネロープ嬢は飲んでいたジュースのストローを離して上目遣いで言った。
「それって⋯私がいいえと言えばあなたはどうなさるの?」
美しい瞳と濡れた唇に目が吸い付けられる。
「こ⋯交際を考えてくれないか、その⋯婚約前提で」
俯いて少し間を置いてから「⋯では、帰りに私の邸まで送って頂けるかしら?」
少し考えてから大きく頷いた。オーランドに事情を話して帰りの馬車を譲って貰おう⋯適当に辻馬車でも拾って1人で帰って貰うのだ。放課後はいつもオーランドの図書館通いを待ってやっている、お互い様だ。
もっとも僕もその間は温室に通ってベルと馬鹿話をして時間を潰しているんだが⋯そうだ、ベルにも今日は行かないって伝えなきゃ。いや約束してる訳じゃないし⋯別にいいのか?
ペネロープ嬢も迎えを返したらしい、帰りの馬車に二人きりで向かい合った。
「オーランド様は?」彼女が聞く。え?なぜ?あいつ関係無いだろ⋯
「なぜ?今、僕は君を送って行ってるんだけど⋯」
まずい⋯少し嫌味っぽかったか。
「⋯いえ。いつも御一緒に帰られるから⋯だけですわ」
「そう⋯だね。すまない変な言い方して」
出来るだけ優しげな笑顔と声を心掛けよう。
「ところで⋯昼に言った事、考えて貰えた?急がせる気は無いけど断られるなら早い方が助かるんだけど⋯」
おい!下手くそか!?女子口説いた事無いとコレだよ⋯内心で自分に突っ込みを入れた。
沈黙が訪れる。長い沈黙。⋯我慢出来なくなってまた話し掛けようとした時。
「⋯お受けしてもよろしいわ」小声で彼女が言った。
「でも私ももう自由にしていて良い年齢を過ぎましたわ。正式に申し込んで頂けるのなら⋯」
ゴクッ⋯自分が唾を飲み込む音が頭蓋に響いた。
ヤバい⋯そこまでの覚悟がまだ無かった事に気付く。しかしこちらから言い出しておいて今更逃げ出せないだろ⋯!
「⋯承知しました。帰って父に婚姻の申し込みを願います。でもその前に、ひとつお願いがあります」
俯いていた顔を上げた彼女にもう一度聞いた。
「王宮の庭を覚えてらっしゃると⋯?」
「⋯ええ」「あの時の接吻も」彼女は黙ってまた俯いた。
「今、またもう一度接吻ても?」そう言うと驚いた顔でまた僕を見た。
そこに強引に顔を近付ける。昼休みに見たあの濡れた唇、あれに触れれば決心が付く筈だ。僕は彼女に惹かれたのだ、大丈夫⋯!もっと好きにさせて欲しい。
彼女は逃げなかった。
唇が重なった。彼女が目を瞑った。
更に深く重ねて舌先を押し入れてみた。
何とも形容出来ないフニャっとしたようなムニュとしたような感触で。
ああ本当の接吻ってこれで合っているのか?
聞いていた程甘くも気持ち良くも無いが⋯?
ああ、経験が無いってこうゆう事?
その後は公爵邸まで二人で黙った。
僕はぎこち無い空気にいたたまれない気分だった。
たぶんペネロープ嬢も。
書斎で父が僕をじっと見た後机に両肘をつけて組んだ指で額を押さえながら俯いた。
「本気なのか?」
「⋯はい」だって仕方がないし。
組んだ指を額からずらし再び僕を見詰めて言った。
「私が君の母上に求婚する為に君の御祖父様にお会いした時は心臓が壊れるかと思う程緊張して気分も高揚したものだが、君はその、いつもより沈んで…憂鬱そうにすら見えるんだが」
「⋯⋯父上の気の所為かと」
父は鋭いが今更後には引けない。
キスまでしてしまい、もっと後に引けなくなった。
「彼女にはもう直接求婚して了承も得ています」
父は溜息を吐いて言った。「分かった。求婚状は用意しておこう、母上にも相談しなさい。母上の許しが出たら先方に送ろう」
母上か、父上だけで済めば楽だったのに、やはりそう上手くは行かないもんだな「⋯はい」渋々言ったのがバレたんだな、父上が眉を顰めた。
母上も父上と同じ事を言う
「随分憂鬱そうだ事」
返事をせずにいたら聞かれた。「その方が可愛い?」
「……美しい方です」
「姿形を伺っているのではないわ。その方が愛しくて抱き締めたいって、可愛く感じる?」
「……」
母上も溜息をついた、気がした。ずっと俯いているので母の顔が判らない。
「そうでは無いけど約束はしたのね…?」
「…はい。求婚したら了承頂き正式な物にして欲しいと」
「……お馬鹿さんね」
「はい?」
顔を上げると結構怖い顔で睨んでいた。急いでまた俯く。
「仕方ないわ。どうぞお好きに。あなたの人生ですもの、あなたが責任を取ればよろしいわ」
それきり黙ってしまった。
これは、許しが出た…のだろうか?
気持ちも状況も中途半端なまま時が過ぎ何となく鬱々としていた一週間あたりあと学園の廊下でペネロープ嬢に声をかけられた。
俯きがちに言う「昨夜…父から聞きました。求婚状をありがとうございます。お受け下さいと伝えましたが…よろしかったかしら?」
何だろう…冷や汗が出た。背中から冷たい何かに抱きつかれたような。
「も、勿論です。これから…あの、よろしくお願いいたします」
「…はい」
二人ともお互いを見ないで俯いていた。
「…では」と離れて行く彼女を見送った、彼女の足元を。
駄目だ。許嫁が出来たと云うのに何故こんなに落ち込んでるんだ。
これがマリッジブルーなのか?いや何かニュアンスが違う気がする。
そうだ…ベルだ、ベルに相談してみよう。ここの所何となく温室から足が遠退いていたな。悩み事はいつだって何だって彼女に打ち明ければ気が晴れてたじゃないか。うん、そうしよう。
放課後を待って温室に向かう。
ベルは今日もまたあの虫の生えた草の鉢の前に居た。
「ベル」声をかけても今日は振り向かない。
いつもは温室の扉を開ければすぐに僕を見つけて笑ってくれるのに。
と思っていたら急に振り向いた。
「ご婚約おめでとう」笑って言った。
「…誰に聞いたの?」まだ誰にも言っていない筈だしベルには僕から報告したかったのに。
「ん?弟君、オーランドから」
「何で?」思わずベルを睨んでしまった。「何で、っておめでたい話だからじゃない?オーランドに聞いてよ」困ったように笑う。
話の腰を折られるとはこう云う事だ、この憂鬱を打ち明けたかったのに。
言い出せなくなってベルと一緒に草を覗いた。
「あれ?虫がデカくなってる」
「虫って何よ?!まさか蕾の事?虫に見えるの?」
ベルは細い目を目一杯見開いた。
「い…いや、もう虫に見えない。先が白っぽいもんな。白い花なのか?」そう言うとベルが溜息をついた。
何だか最近やたら溜息をつかれてる気がする。
「今夜咲く…私夜が来たら見に来るの」
「何で?明日見ればいいじゃないか」
「明日じゃ駄目だよ、もう萎れてるから…そういう花なの。一夜だけ咲くのよ」
「一夜だけ?」
「一夜だけ」
「なんだか勿体なくない?」
「⋯そう?かもね」眉を下げて笑う顔がまた儚く見えた。
二人で暫く黙る。いつもの二人の空気をまた取り戻したくて問い掛けた。
「へ、へーそうなのか。あ、でも夜って寮には鍵が掛かるだろ?」
ベルは鍵をぶら下げながら言った。「これは温室の鍵、私がいつも持ってる、そして寮は…抜け道を知ってる…」ムフフと笑った。いいぞ、いつもの調子だ。
そうだベルは笑顔が良い。この草の花が咲くのは凄く嬉しい事なんだ。
「抜け道って何だよ、どっか開いてるのか?」
「教える訳無いじゃない。出れるって事は入れるって事なんだよ」
鍵を持った手を背に隠しながら言う。「僕が女子寮に忍び込むとでも…?」
不機嫌そうに言うとまた笑った。
「ははっ、そりゃそうだ。美しい許嫁がいる人に女子寮なんて用はないよね…」
何だよ、せっかくいつもの二人だったのに⋯。
許嫁の話、今関係無くない?。何となくムカついたので言った…。「僕も来る!」
「は?」
「何でお前だけがそんな楽しそうな事するんだよ。僕も混ぜろ!」
呆れたのかポカンと少し口を開けるベルに有無を言わせず僕は踵を返した。
バートン邸で夕食を終えてから部屋へ戻る振りで堂々と正門から出た。
親にさえバレなければこの年にもなればご令息の夜遊びくらい門番は見ない振りをしてくれる。
まあ記録簿に記載はするだろうけど…。
辻馬車を拾う。
学園にはどうやって入り込んだかというと、僕は監督生を担っているから下校前に一番チョロい指導教官を上手く丸め込んて裏門の鍵を借りて返す振りして別のを置いておいた。一晩くらいバレないだろう。
そして温室に辿り着いた。当たり前だが真っ暗だ。
いや…微かな灯りっぽい物がある。扉を軽くノックしてみる。
暫くするとカチッと音がして小さく開いた。
そこに忍び込む。
ベルがいた。
でもベルじゃないみたいだ…
制服じゃないからか?
白いワンピースだ。
割とタイトな仕立てで身体のラインが良くわかる。
何となくドキッとした。何だろう…これは夜の冒険のせいじゃない気がする。
「こっち…」誰も居ないからそんなヒソヒソ必要ない筈なのに…
お互いヒソヒソしてた。
初夏だから寒く無いのにラグが2枚用意してある。何故?
「こうするんだよ」
1枚は床に敷いて1枚は植木鉢の方だけ浮かせてランタンに被せた。
なるほど…鉢は良く見えるが他はほぼ闇に沈んだ。
ラグに並んで座ってお互いの顔を見合わせ悪戯っぽく笑った。
鉢の蕾はもうかなり膨らんでいた。本当に純白な花弁が覗いていた。
「へー、もうかなり綺麗だな…」言ってベルを向いて、たじろいだ。
至近距離に彼女の顔があったからだ。
「お尻痛くない?このラグ薄めだから」
「⋯平気」
ヤバい、ドキドキする。血迷うな自分!これはベル、ベルなんだぞっ!
惹きつけられそうな目を急いで逸らす。
「夕食ちゃんと食べた?」首を傾げたのか肩にベルの頭が乗る。髪の香りか、優しく少し甘い香りがする
抗えず視線だけがベルを追う。闇にほの白く浮かぶワンピース、その肩から胸のライン。目が離せなくなる。つい自分の肩にあるベルの顔を覗き込んでしまっていた。
「ん?」僕を見返すベルのあどけない唇。
綺麗だった。オーランドのセリフが頭に響く
「彼女綺麗だよ。クールビューティー系で…」ああ本当だ。
彼女綺麗だったんだ…綺麗だったのに……。
何で今まで気付かなかったのか。
……いや、違う。僕は自分の心を見誤っていたのか。
もうずっと前から知っていた事に気付く。
女性として惹かれていたのか⋯?。
彼女と笑いあえれば嬉しかった。じゃれ合いのような悪口の吐きあいの時間もうずうずして幸せだった。姿が見えなければいつも探した。
ただ、それを全部『親友だから』と軽く流した自分。
いつも目の前にいるベルを見ていたのに、初めて僕は、自分が何を見ていたのかを知った。
微かに開いた薔薇の唇…。もう駄目だった。
思わず指でベルの唇をなぞり顔を寄せて軽くくちづけた。
彼女は拒まない。
無言で見つめ合い彼女の唇を求めて今度は深くくちづける、余りの甘さに震えた。
止まらなくなって何度も唇を求め次第に首筋から鎖骨へ、やがて胸へと唇と手が伸びてやがて我慢出来なくなって背のボタンを引き千切るように外した。
白いワンピースに負けないほどの白くなめらかな肌を夢中で求めた……初めて知った彼女の甘さに無我夢中で後先も考えられず溺れる。
僕はこの夜の自分の再三の愚かさにまだ気づけずにいた。
「……ロード…クロード」揺すられてフッと浮上した…。
軽く眠っていたのだろうか。
「見て…クロード」指差す先にあるのは世にも美しい純白の花。
うっすら光沢を帯びた白が闇に浮かぶ様は言葉に出来ないほどの幽玄
……暫し言葉を失い見惚れて居ると頭から次々と衣服が降って来た。
ベルを見ると自分もワンピースを頭から被りながら僕に残った最後のシャツを投げた。
そして「夏とは言えこの時間は少し冷える。いつまでもその姿じゃ風邪を引く」と優しく笑った。
ハッとして急いで衣服を身に着けていると背中からベルが抱きついて来て「空が白むまで傍にいてもいい?」と聞いた。
振り向いて僕はベルを強く抱きしめ、またくちづけた。
この時自分の気持ちを口に出せばまだ全てに与える傷は浅くて済んだのかも知れない。だが僕はただただ溺れた。
ああベルの唇は何故こんなにも甘いのか…
抱きしめても抱きしめても抱きしめ足りない気がする。
白い花がどんどん萎れ空が白み始めた頃本当にベルは抱きしめる僕を引き上げるようにして立ち上がり僕の胸に両手を当て押して体を離した。
暫く僕をじっと見つめてから綺麗に笑い「はい、これで解散」と言ってラグを畳みランタンを持って歩き出した。
立ち竦む僕に「はい、さっさと出る!温室に鍵かけるんだから」と笑って言った。
ベルを追って温室を後にする。
ワンピースの色は白じゃなく淡いブルーグレーだったのがわかった。
もうすぐ陽が昇る。「ベル…」
「ありがと、クロード。幸せに…なってね」と言って佇む僕に背を向けて遠くなりやがて校舎の蔭にその姿を消した。
この時も僕は思い出しもしなかった。
自分が他の女性との婚約をつい昨日結んでしまっていた事を。
邸に帰り身支度をして急いで再び学園へ向かったがその日、とうとう最後までベルは姿を現さなかった。
放課後の温室も誰の姿も無いまま佇んでいた。
その日から一週間以上過ぎた頃、僕の苦悩を他所に当然だが婚約話はどんどん進む。
「君の学園での成績はいつもトップクラスだそうだね」
寒くも無く屋外でも無いのにフォーマルグローブをはめた手で口髭の端を整えながら婚約者ペネロープ嬢の父であるブレア公爵は僕に聞いた。
「はい…まあ、弟ほどではありません。彼は毎回主席ですから……」
「ふ…む」……訪れる沈黙。
バートン邸の晩餐にブレア公爵一家を招いていた。初の両家顔合わせの場だった。
今は食後でサロンに移り公爵と父はブランデー。他は皆紅茶を飲んでいる、僕とペネロープ嬢、お互いの父母、僕の弟二人、ペネロープ嬢の妹が一人。
「実を言うと私はペネロープに婿を取って跡を継がせたかったのだが…まあ本人が嫁ぎたいと言うものは仕方がない。妹の方に婿を取らせるしかあるまいと諦めたのだがね…」
「…はい。申し訳ございません」肩を竦め俯く。
「ふ…む」……再びの沈黙。
会話が続かないのはやはり僕のせいなんだろう……
ペネロープ嬢とその母上はすまし顔、妹は明らかにふくれっ面だ。
父は威厳を崩してはいないが僕の受け答えに呆れていそうだ。
母は目が笑っていない笑顔をずっと貫いている。
オーランドは我関せずオーラを放ちトビアスは退屈して欠伸をかみ殺している。
当たり前だが僕は孤立無援だった。
ベルとの事があってから彼女の事しか考えられなくなってペネロープ嬢に何の魅力も感じられなくなってしまっている。
本当に本当に申し訳無い思いでいっぱいなのだが…この恐ろしい宰相閣下を説き伏せ是が非でも彼女をモノにしたい意欲がまるで湧いて来ない……僕なんか地獄に落ちればいいんだろうか……。
僕はベルにも振られたっぽい。あの日から一度も学園に来ないのだ。温室も毎日通っていたが、つい先日下級生らしき男の子が水遣りをしており、「サマセット先輩はクラブをお辞めになりました。今何処に居られるか?さあ、存じません」と言われ肩を落とした。
彼女を探し追って行きたい。しかしこの婚約をやらかした自分の後始末の付け方さえ分からずただただ手をこまねく僕はひたすらあてのない道をウロウロするのみ。
ろくに会話も弾まずブレア公爵一家は帰って行った。
肩を落とし溜息をつく僕に母がとうとうブチ切れた。
「いったいどういうつもりでいらっしゃるのかすこし…お聞かせ頂けるかしら?」
肩を落とし俯く僕を鋭く睨みつける。
「お父様、私、オーランド、トビアスをいったいどういうつもりでこの茶番に巻き込んだのか、とお聞きしておりますのよ!」
涙が出てきた。
「申し訳ありません!やっと…やっと今になって母上のお言葉が理解出来ました!」
「……何ですって?」蹲る僕を魔王のように上から見下ろす。
「い、愛しくて、抱き締めたくて…抱き締めたくて堪らなくて、可愛くって!可愛くて仕方ない女性がペ、ペネロープ嬢では無い事に気が付きました!い、今更、気付き…ました」
一瞬にして空気が凍り静寂の中に僕の情け無い嗚咽だけが響き渡った。
水を打ったような静けさの中に突然投げられた言葉。
「ベルだろ?」
籐椅子に腰かけ本から目を上げこちらを向くオーランドの言葉だった。
「な、んで」
「ガキでもわかるよ。実際トビアスだってわかってたじゃないか。クロード、あんた生き生きしてたよ。ベルが傍に居る時だけ、さ」
再び静まり返る中、父が言った。
「今更遅い。ベルは諦めて今の婚姻を進めなさい…お前が始めた事の責任は取るべきだ。お前が黙っていればベルもペネロープ嬢も傷つかずに済む。」
父の言葉は正しい。全て自分のせいなのは誰よりも自覚している。責任を取って自分だけが傷付けばいい⋯そう思い、頷きかけて黙る。
傷付けば、傷付くって僕は……!また今更、気が付いた。
あぁ僕は本当に。
床に這いつくばって父に許しを乞うた。
「父上。僕は、僕はもう既にベルを……傷付けました。
取り返しはつきません。彼女はもう、彼女の貴族令嬢としての尊厳を…」
僕の言葉に母が顔色を変えた。
「あ、なた。まさか、まさかベルを、ベルと…?」
父が僕の首根を掴んで引摺りあげた。右顎と右頬に纏めて強烈な拳が炸裂する。
痛みより熱さを感じながら1メートル以上は吹っ飛んだ。と思う。
ギリギリ意識は保てているが脳みそがぐゎんぐゎん言っている。
「ああバーバラ!私の息子が何てこと…」気丈な母が泣き崩れる。
「…避妊したの?」オーランドが聞いた。「あ、あなたまで、何て質問を」
母の言葉に「大事な事だろ?」オーランドは早口で重ねた。
座り込んで頬を押さえ俯いた僕は首を振った。
父が片手で顔を覆い椅子に座り込んだ。母は泣き止み呆然としている。トビアスだけが意味が分からずキョロキョロするがさすがに空気を読んで黙っていた。
「すまない。グレイス私が息子の育て方を間違えた。大事な君を泣かせるなんて」
「ルーファスあなたのせいじゃない。馬鹿息子を生んだのは私だわ。ごめんなさい」
ヒシと抱き合う父と母。自分のせいだしそれどころでは無いのも分かっているが、頼むからここでキスに移行するのだけは許して欲しいと思った。
父母のラブシーンなど情緒をどこに置いていいのかわからなくなる。本当に地獄に落ちてもいいから。
「よし!決めた。不肖の兄の尻拭いは僕が引受けるよ」
オーランドが本を置いて立ち上がった。
父と母が驚いて弟を見る。……良かった。最悪のシーンだけは防げた。
「尻拭い、ってあなた、何をするつもりなの?」母の問いに片目を瞑った、普段の伊達眼鏡は外している。
「とりあえず母上は馬鹿兄貴をベルの所へ連れて行って下さい。バーバラ小母様に聞けば行方はわかるでしょ、ここんとこ学園休んでるからたぶん領地の可能性が高いと思う。そんで」僕をチラッと見てから父に向き直る。
「父上は明日朝一番に早馬でブレア公爵に連絡してアポを取って下さい出来れば明日中に会えるように、そして僕を連れて公爵家を訪ねて下さい」父は頷く「それしか無いが、婚約解消…いや破棄になるか。公爵家だ賠償金が途轍もなかろうな」
それを聞いて身を縮める僕の耳にオーランドの声が響いた。
「その為に僕をお連れ下さいとお願いしています。僕がペネロープを引き受けます。兄より優秀な僕を婿に差し出して下さい。長女に婿取りが出来て宰相閣下も大喜びなさいますよ、きっと」僕は耳が痛い。痛いが…こいつ、こんなに良く喋る奴だったっけ?
今、人生で一番喋ってるんじゃないか?
僕、殴られたせいでネジが一本飛んでったかも。下らない事しか考えられない!!
驚いて弟を見詰める父が言った。「お前はそれでいいのか?それに御令嬢が承知なさるのか?」オーランドは皮肉げに笑った。
「あれ?父上、気が付かれませんでしたか?バートン邸に居る間中ずっとチラチラ、チラチラ僕に秋波を送り続けてたじゃ無いですかあの令嬢、あれ結構クセ者ですよ。僕もアレと対決するのはやぶさかではないですから大丈夫です」
いつも完璧な美丈夫の父の口があんぐり開いて二の句が継げない。母もトビアスの肩を抱いたままオーランドを見つめて固まっていた。
「まあ⋯グレイス!あなたいったい、こんな所までどうしたの!?」母と僕が目の前に現れた時のバーバラ小母様の第一声である。それからハッと気付いたように僕を見て「ベル…?もしかしてベルを迎えに来て下さったの?」と少し涙ぐみ
「ベルは草原にいるわ」と教えて下さった。
文の遣り取りなど待ってはいられない、と見切り発車であの後サマセット伯爵領まで馬車を飛ばした。
情け無い事にこの年になって母の付き添い付きである。
だがああも、とことん家族に恥をさらした自分に文句を言う資格もない。
丸一日と少しの旅程であった。
バーバラ小母様の言葉に場所も確かめず飛び出そうとしてまた恥を曝した僕だったが。
ベルだ……!
恋しかったベルが風が吹き渡る緑の草原の中に髪とスカートを靡かせながら立っていた。
背景は放牧された牛や羊そして点在する赤い風車。
そこに一輪の白い花。あの夜から僕の彼女のイメージは凛と立つ白い花。
一夜にして僕を虜にした。
「ベル!」後ろから叫ぶように声をかけた。
驚愕の表情で振り向いたあと一、二歩後退り声を震わせた。
「クロード?なぜここに…」
「君を迎えに来た」僕は愛しさに涙ぐみそうになっている。
「……もしかして責任を感じてらっしゃるの?だったらありがた迷惑だからさっさと愛する御令嬢の元へお戻りになって」
固い表情で淡々と言う彼女。罪悪感が加速する。
「済まなかった。僕の愛する令嬢は君なんだベル!今まで気づかなかった僕を許して」
「何を…仰っているの?私の事は女ではないと何度も……女では無いと」
「済まない。君は女性だ!僕の最愛の女性なんだ!!」
駆け寄って手を取った。振りほどこうとするのを更に引き寄せて腕の中に囲う。胸を叩いて抵抗するが意地でも離さない。
「う…っうっわーっ…」堪えきれずに漏らす嗚咽を頭ごと抱え込んできつく抱き締めた。
もう、絶対離さない!
その頃バーバラ小母様は母に語っていたそうだ。
「あの子はもう、文字通りの一目惚れで。私はあんな美少年はあなたには荷が重いと何度も言い聞かせたのだけど、想いは叶わなくても傍に居たい、の一点張りで王立学園高等部に入学する為だけに猛勉強を始めてしまって」
「まぁ…あんな馬鹿息子の為に。バーバラ、あなたに謝りたくて私ここまで伺ったんでしてよ。馬鹿息子がお嬢様を散々傷付けて」申し訳なさそうに目を伏せる母上。
ふっと笑って「あの子は主人に似て大層な頑固者で一度言い出したら梃子でも動かないのよ。今回はありがたい事にそれが功を奏したみたいで良かったけれど、たとえクロード様がおいでにならなかったとしてもあの子はもう一生誰にも嫁がず、クロード様の思い出だけを胸に秘めて生きて行ったと思うわ⋯」
「…そんな」
「いいのよ。そういう子なの」恐縮する母上にバーバラ小母様は笑顔を返した。
「ベル、言葉遣いが少し変わった?それに態度もおとなしいと言うか、おしとやか?令嬢みたいだ」
やっと少し落ち着いたベルにここまでの僕の不甲斐なさと伯爵邸での修羅場を語り、何度も謝ってやっとくちづけを許された後におずおずと聞いた。
ベルはまだ父に殴られた後の赤く腫れが残る僕の頬に優しく庇うような手で触れながら「……やはりクロード様は酷い方だわ」と呟く。
「え?え、なぜ」狼狽える僕を一睨みして「だって女性として見て頂けない私があなたの傍に居る方法って男として同性の友達になるしかございませんでしたわ。私、歴とした伯爵令嬢ですわ。今の私が素の私ですわよ」
「あ」そういう……。
「いつもあなただけを見つめている私に他の令嬢との婚約の相談をして来たり私以外の令嬢には過剰に優しくて、何度も心が張り裂けるかと⋯」「済まなかった!!もう、もう二度と傷付けたりしない」
平身低頭する僕を少し睨み「では、良いお手本が近くにありますわよ」と言った。
「手本?」
「ええ。これからはあなたのお父様をお見習いになって…」
「は、父上?僕達息子が甘えるのにさえ嫉妬なさる程母上を溺愛なさっているのは知っているけど…」
どこが?見習うって。
「あれ程女性人気が高くてらっしゃるのに適度にあしらってらして、どの女性にも決して誤解させない様になさるでしょう?あなたと来たら近付く方全て片っ端から誤解させてまわってらして…」溜息をつく。
「女性に優しくなさるのも結構ですけど、その陰で傷付く者がいるのもお考えになって」
「わか……った」その通りな気がする…地に潜りたい。
僕の安易な行動が散々ベルを苦しめ、もしかしたら他の誰かをも傷つけていた可能性だってある事にこの一連の僕が引き起こしてしまった騒動で改めて思い知った。
「私あの時、本当に悲しかったですわ」
温室にオーランドがふらっと入って来て「ベル、あの馬鹿兄貴を真人間に戻してくれ。僕にはもう手に負えない」と言ったそうだ。
父上と母上はもう呆れ果てて兄貴を後悔させる為に地獄に叩き落すつもりみたいだ。馬鹿兄貴はどうでもいいけどそれじゃベルが辛いだろ?と言ったそうだ。
僕に比べて何と聡い弟だろう。
僕はもうこれ以上自己嫌悪になるのは避けたいとつくづく思う。
「でも、私も自分に自信なんか無くてあなたが私の言う事なんて聞く訳が無いと…あの夜月下美人の下で独り泣いてから領地に帰ろう。と決めました。でも、あなたがあの夜温室にいらして…」俯いた。
僕も頷く。ただ幼い思考と衝動で突っ走ってしまった夜、だがそれが気づきのきっかけとなり運命を動かした。
皆の、弟と家族のお陰なんだけれど。
「それで必死でした。一度だけ、一度だけで良いから女として見て頂きたくて。そして思い出を抱いて帰ろう……と」
またベルの涙が溢れた。今度は彼女の方から僕の胸に頬を寄せ「信じてもよろしいの?」と聞く。
僕も涙で言葉が継げない。抱き締めて必死で幾度も大きく頷いた。
自分を律し努力して少しづつであろうと成長しよう。
ずっと家族を愛し感謝して愛しいベルを何事からも守ろう。
彼女を決して一夜限りの花にはせず、ずっと、ずっと咲き誇らせると、生涯をかけて誓う。
僕の人生にたった一輪見事に咲いた大輪の月下美人なのだから。
完




