9話 守護者の誓い
庭園の静寂は、鉄と鉄がぶつかり合う鈍い音によって無残に引き裂かれた。
植え込みの影から飛び出してきたのは、夜の闇に紛れるような漆黒の装束に身を包んだ五人の男たち。手には、アステリア王国では禁じられている「返し」のついた暗殺用の短剣が握られている。
「……逃がすな! あの女さえ消せば、我らの利権は元通りだ!」
暗殺者の一人が低く鋭い声を上げる。彼らは、アイリスによって職を追われ、私財を没収された汚職官僚たちが雇った手練れだった。
だが、彼らの前に立ちはだかった壁は、あまりにも高すぎた。
「利権だぁ? そんなくだらねぇもののために、この国の宝に手を出しやがったのか」
ゼノス・ヴァン・グレイシャーが、一歩前に踏み出す。
彼が放つ圧倒的な殺気は、物理的な圧力となって大気を震わせた。大剣を片手で軽々と振り回し、石畳を削りながら切っ先を突きつける。
「アイリス、動くなよ。……瞬きする間に終わらせてやる」
次の瞬間、ゼノスの姿が消えた。
否、あまりの踏み込みの速さに、アイリスの目ですら追いきれなかったのだ。
爆ぜるような音と共に、暗殺者の一人が防具ごと胴体を断ち切られ、数メートル後方へ吹き飛んだ。悲鳴を上げる暇さえない。
残りの四人が動揺した隙を見逃さず、ゼノスは流れるような動作で大剣を翻す。重厚な刃が風を切り、二人目の頭部を粉砕し、三人目の腕を根元から刈り取った。
「ヒッ……化け物か、貴様は!」
生き残った二人が恐怖に顔を歪め、逃げ出そうと背を向ける。
ゼノスは冷笑を浮かべ、腰の投擲ナイフを二本、同時に放った。
ドシュッ、ドシュッ。
正確にアキレス腱を射抜かれた暗殺者たちは、無様に地面を転がった。わずか数十秒。暗殺のプロたちが、赤髪の巨漢一人によって、文字通り「掃除」されたのだ。
「……ふぅ。やれやれ、これじゃあ準備運動にもならねぇな」
ゼノスは大剣に付着した血を無造作に振り払い、鞘に収めた。そして、呆然と立ち尽くしていたアイリスの方へ、ゆっくりと歩み寄る。
「おい、アイリス。怪我はねぇか。腰抜かして立てねぇなら、抱えてってやるが?」
いつもの意地悪な笑みを浮かべるゼノス。だが、その瞳には隠しきれない焦燥と心配の色が混じっていた。
アイリスは、深く、長く呼吸を整えた。
ドレスの裾を握っていた指先の震えを止め、眼鏡の位置を指先で直す。彼女の顔には、すでに「鋼の官僚」としての仮面が戻っていた。
「……ご心配なく、ゼノス騎士団長。私は効率を重んじる女です。自分が倒れて、後任に引き継ぎ書を作成させるような二度手間はいたしませんわ」
「はっ、相変わらず可愛くねぇ女だ。……だが、その減らず口が聞けるなら大丈夫そうだな」
ゼノスがアイリスの傍らに立ち、地面に転がっている暗殺者を見下ろした。
「こいつら、どうする。拷問にかけて雇い主を吐かせるか?」
「いいえ。その必要はありませんわ」
アイリスは冷徹な眼差しで、苦悶の声を漏らす暗殺者の元へ歩み寄った。彼女はその懐から、一通の封書を抜き取る。それは、彼らの報酬の支払い場所が記された密書だった。
「この暗殺者たちの身元は、先ほどの短剣の紋章で特定済みです。元財務次官のバルトロの隠し口座から、多額の送金記録も既に把握していますわ。……拷問などという非効率なことはいたしません。彼らには、私が用意した『特別室』へ行っていただきます」
「特別室?」
「ええ。エリオット殿下のいる塔の、隣の独房ですわ。主君と部下、仲良く残りの人生を後悔に費やしていただくのが、最も教育的ですわね」
アイリスの冷ややかな微笑に、ゼノスは背筋を震わせた。
やはり、この女を敵に回してはいけない。物理的な暴力よりも、彼女が振るう「論理と数字の暴力」の方が、遥かに救いがないからだ。
連行の手配を終え、月明かりの下、二人は宰相府へと歩き出した。
庭園の小道を並んで歩く。ゼノスの鎧がカチャリと鳴る音が、妙にアイリスの耳に心地よく響く。
「……ゼノス騎士団長」
「あ?」
「……助かりましたわ。私の計算機では、あなたのあの圧倒的な戦闘力までは予測できていませんでした。……感謝いたします」
アイリスが足を止め、真っ直ぐに彼を見上げた。
普段の冷徹な仮面が少しだけ剥がれ、そこには一人の少女としての素直な謝辞があった。
ゼノスは顔を背け、耳まで赤くしながら、ガシガシと頭を掻いた。
「……別に。俺の仕事は、この国の重要な資産を守ることだ。貴様が死んだら、騎士団の予算がまた実家のデブ親父たちに食いつぶされるからな。……それだけだ」
「資産、ですか。……随分と事務的な評価ですわね」
「うるせぇ。……それに」
ゼノスは再び立ち止まり、今度は逃げずにアイリスの瞳を見つめ返した。
彼はその場に、重厚な鎧の音を響かせて膝をついた。
「アイリス・フォン・ベルシュタイン。……俺は、貴様を認めた。貴様がこの国を掃除し、立て直そうとしているその『意志』をだ」
彼は右手をアイリスの前に差し出し、誓いの言葉を紡ぐ。それは、王に捧げる忠誠とはまた別の、個人的な、熱い契約だった。
「俺の剣も、俺の命も、これからは貴様のために使う。貴様が書類を山積みにしている間、一匹の鼠も近寄らせねぇ。……俺を、貴様専属の守護者として使え」
アイリスは、自分の頬が微かに熱くなるのを感じた。
合理性、効率、利得。
彼女が信じてきたそれらの言葉では説明できない「感情」が、胸の中に広がっていく。
「……贅沢な護衛ですわね。近衛騎士団長の時給を計算したら、私の給与が吹き飛んでしまいますわ」
「……だから、タダでいいって言ってるだろ、この堅物女!」
ゼノスが勢いよく立ち上がり、照れ隠しに声を荒らげる。
アイリスはクスクスと、今度は演じることのない、本当の笑い声を上げた。
「よろしい。契約成立ですわね。……ただし、ゼノス。私が徹夜をする時は、あなたも付き合っていただきますわよ? 眠気覚ましのコーヒーを淹れるくらいは、していただきますから」
「……ああっ、分かったよ! コーヒーくらい、いくらでも淹れてやる!」
月光の下で、氷の女宰相と、赤髪の守護騎士。
正反対の二人の間に、切り離すことのできない強い絆が結ばれた瞬間だった。
しかし、アイリスはまだ知らなかった。
この様子を、遠く離れた隣国の鏡合わせの魔導具を通じて、苦々しい表情で見つめる人物がいることを。
「……ゼノス・ヴァン・グレイシャーか。野蛮な男が先に動いたな」
隣国の皇太子カイルが、美しい銀髪を指で弄りながら呟く。
彼の計画は、単なる暗殺や護衛では収まらない。
「氷の女宰相」を巡る、国境を越えた「逆ハーレム」の嵐が、今まさに静かに吹き始めようとしていた。




