8話 元王子の「その後」と忍び寄る影
王城の最北端。そこには日光を拒絶し、湿った冷気だけが支配する「悔恨の塔」がそびえ立っている。かつては王族が自らの過ちを悔い改めるための聖域であったが、今やここは、権力闘争に敗れた「生ける屍」たちの墓場と化していた。
その最上階、重厚な鉄格子の向こう側で、エリオット・アステリアは狂ったように壁を叩き続けていた。
「クソッ! 離せ! 私は第一王子だぞ! こんな不潔な場所、一秒だって耐えられるものか!」
一週間前まで、彼は王国の象徴として、最高級のシルクに身を包み、金粉をまぶした菓子を頬張っていた。だが今の彼はどうだ。泥に汚れた麻のシャツ一枚、手入れのされていない髪は脂ぎり、かつての端正な面影は見る影もない。
「……アイリス! あの女め! 今に見ていろ、俺がいないことで王宮がパニックに陥れば、父上も泣きついてくるはずだ。あの女一人に、俺の代わりが務まるはずがないんだ!」
彼に残された唯一の希望。それは「自分がいなければ国が回らない」という傲慢な幻想だった。
そこへ、静寂を切り裂くように、硬い靴音が響いてきた。
カツン、カツン、カツン。
迷いのない、計算し尽くされた一定のリズム。エリオットはその音に聞き覚えがあった。かつて、自分の執務室へ書類を持ってくる際に、彼が「うるさい」と一蹴した、アイリスの歩法だ。
「……アイリス! アイリスか!」
鉄格子の前に、一人の令嬢が佇んでいた。
アイリス・フォン・ベルシュタイン。彼女は以前のような、王子の機嫌を伺うような控えめなメイクはしていない。その瞳は冷たく、知的な輝きを放ち、背筋は鋼のように伸びている。その手には、数枚の報告書が握られていた。
「あら、殿下。……格子越しにお会いするのは、新鮮な気分ですわね。まだお元気そうで何よりですわ」
鈴を転がすような、だが氷のように冷たい声。
「アイリス! 貴様、俺を笑いに来たのか! 早く父上に言って、この扉を開けさせろ! 貴様も、俺がいなくて困っているだろう!? 決済が滞り、外交ルートが遮断され、国務が混乱しているはずだ! 俺を戻せば、今の無礼は不問にしてやる!」
エリオットは必死に格子に縋り付き、叫んだ。その姿は、憐れな物乞いのようだった。
アイリスは、ふっと薄く笑った。それは、慈悲ではなく、心底からの滑稽さを孕んだ笑みだった。
「困っている? ……ええ、確かに困っていますわ。……あまりにも殿下の残した『負の遺産』が多くて、お掃除をするのに、いくら時間があっても足りませんの」
「何だと……?」
「殿下が幽閉されてから一週間。……国務の効率は、驚くべきことに三〇〇パーセント向上しましたわ。殿下が遊び歩いていた予算をカットしただけで、地方の不作対策に十分な金が回り、昨日は新しい初等学校の設立案が二つ可決されました。……殿下、皮肉なものですわね。あなたという『重り』がいなくなったおかげで、この国はようやく、まともに呼吸を始めたのです」
アイリスは、持っていた報告書の一枚を、格子の隙間からエリオットの足元へ落とした。
「それは、殿下が不在の間の『国力向上グラフ』ですわ。右肩上がりでしょう? あなたがいない方が、国は豊かになる。これが、動かしようのない『数字』という真実です」
「嘘だ……嘘だッ! 俺は王子だ! 俺がいなければ、民は導き手を失うはずだ!」
「導き手? ……あなたはただ、民の血税を聖女(自称)様とのランデブーに使い込んでいただけではありませんか。……ああ、その彼女のことでしたら、ご安心を。……リリア様は、修道院へ送られる護送車の途中で、すでに別の裕福な商人を見つけて、仲良く逃亡を図ったそうですわよ?」
「……っ、リリアが!? そんな馬鹿な! 彼女は、俺を愛していると言ったんだぞ!」
「彼女が愛していたのは、あなたの『財布』ですわ。……もっとも、逃亡はすぐに失敗し、今は北部の鉱山で過酷な労働に従事していらっしゃいます。彼女、手が荒れると泣いていたそうですわよ? 殿下の時と同じ、嘘の涙で」
エリオットは膝から崩れ落ちた。
権力、価値、そして愛。彼が人生のすべてだと思っていたものが、アイリスという一人の女によって、粉々に粉砕されていく。
「殿下。……もう、あなたの物語は終わったのです。……これからは、私が創り上げる『効率的で美しい王国』の姿を、その窓のない部屋から想像してお過ごしなさいませ。……それが、私からの最後の情けですわ」
アイリスは背を向け、一歩も振り返らずに歩き出した。
背後で、エリオットの獣のような絶叫が響き渡るが、彼女の心にさざ波一つ立たなかった。
しかし。
塔を出たアイリスの表情は、一転して険しいものになった。
彼女は、胸元からもう一枚の隠し持っていた報告書を取り出した。そこには、エリオットを支持していた「保守派」の貴族――利権を奪われた官僚たちの残党――が、不穏な動きを見せていることが記されていた。
(……無能な者ほど、失うものに固執する。非効率な抵抗はやめていただきたいのだけれど)
アイリスは、王宮の裏庭を通って宰相府へ戻る道を選んだ。人目を避けるためのルートだったが、それが仇となった。
夕暮れ時の庭園は、長く伸びた影が迷路のように入り組んでいる。
不自然な、風の止まり。
アイリスの背筋に、氷のような戦慄が走った。
植え込みの影から、殺意の塊が放たれる。
シュッ、という短い風切り音。
放たれたのは、音もなく飛来する、毒を塗られたクロスボウの矢だった。しかも一本ではない。四方向からの同時射撃。
(――間に合わない!?)
アイリスは瞬時に懐の防御魔導具へ手を伸ばしたが、起動までにはコンマ数秒のラグがある。死の接吻が彼女の喉元に届こうとした、その瞬間――。
「……言ったはずだ。俺の管轄で、俺の主に手を出すなとなぁ!」
爆音。
地面が爆ぜるほどの衝撃と共に、燃えるような赤髪がアイリスの視界を覆った。
一振りの巨大な大剣が、円を描くように空間を薙ぎ払う。
飛来した矢は、鋼鉄の旋風によって塵へと粉砕され、地面に突き刺さった。
「ゼノス……騎士団長!?」
アイリスの前に立ちはだかったのは、憤怒の化身のようなゼノスだった。
彼は大剣を肩に担ぎ、鋭い眼光を周囲の茂みに向けた。
「鼠がチョロチョロと……。アイリス、貴様は下がっていろ。……ここから先は、数字の計算じゃ済まねぇ。血生臭い『掃除』の時間だ」
ゼノスの背中は、アイリスが知る誰よりも大きく、そして圧倒的な信頼感に満ちていた。
アイリスは震えそうになる指先を握りしめ、自分を救った騎士の背中を見つめた。
彼女の計算外の出来事が、また一つ。
だが、その心音の高鳴りは、決して嫌なものではなかった。




