7話 胃袋と心を掴む「事務作業」
深夜。宰相府の窓の中で、ただ一つだけ明かりが灯っている部屋があった。
アイリス・フォン・ベルシュタインの執務室だ。
彼女は登庁以来、一睡もしていない。財務、軍事、次は内務――。長年放置され、膿が溜まりきった各部署の帳簿を、アイリスは執念深く洗い直していた。
「……ふぅ。この『地方道路維持費』、帳簿上は完了しているけれど、現地の石材ギルドへの支払いが半年遅れているわね。中抜きをしているのは……ああ、この代官ね」
アイリスはこめかみを指で押さえ、ペンを走らせる。
深夜の静寂に、彼女の吐息だけが白く混じった。
その時、ノックもなしに扉が開いた。
「……おい。いい加減にしろ、小娘」
入ってきたのは、数日前にアイリスに論破されたはずの近衛騎士団長、ゼノスだった。彼は不機嫌そうな顔をしていたが、その手には湯気の立つ紙袋と、高価そうな蒸留酒の瓶が握られている。
「ゼノス騎士団長? こんな時間に、近衛のトップが何のご用ですの? 不審者なら、私がこのペンで仕留めて差し上げますけれど」
「軽口を叩く余裕があるなら、飯を食え。……貴様、三食まともに食っていないだろう。騎士団の厨房で作らせた、栄養価だけは高いスープだ」
ゼノスは乱暴に、だが中身がこぼれないよう丁寧に、アイリスの机の隅に紙袋を置いた。中からは、ハーブと煮込まれた肉の香ばしい匂いが漂ってくる。
「……毒味は必要かしら?」
「俺が毒を盛る価値もないほど、貴様の顔色は死人みたいだぞ。……ほら、食え」
促されるまま、アイリスはスプーンを手に取った。一口運ぶと、濃厚な旨味が身体の芯まで染み渡る。
「……美味しいですわ。効率的にエネルギーを摂取できます」
「感想が可愛くないな、相変わらず。……少しは休め。貴様が倒れたら、俺がせっかくクビを跳ね飛ばした実家の連中が、また這い上がってくるんだ」
ゼノスは、アイリスの向かいの椅子にドカリと座り、彼女の仕事ぶりを眺めた。
細い指先、眼鏡の奥の鋭い瞳、そして時折、難解な数字を前に寄せる眉。
今まで見てきた令嬢たちは、皆、王子の横で着飾ることしか考えていなかった。だが、目の前の少女は、国を支えるために泥を被り、孤独に戦っている。
「……アイリス」
「何かしら」
「貴様は、なぜそこまでやる。エリオットがいなくなって、公爵家に戻れば、いくらでも贅沢な暮らしができるだろう」
アイリスは手を止め、少しだけ遠くを見つめるような目をした。
「……贅沢など、飽きましたわ。それに、私は『無能』が嫌いなだけ。この国は、才能がある者が正当に評価されず、血筋だけで無能がのさばりすぎている。それを正すのが、私の……そう、趣味ですわ」
「趣味、か。……全くだ、とんでもない趣味だな」
ゼノスは呆れたように笑い、ふと、アイリスが書類を掴もうとした指先を見た。
ペンのタコができ、少し震えている。
「……無理をするなと言っている」
彼は無意識に、大きな手を伸ばした。そして、アイリスの小さく、冷え切った手を包み込むように握った。
「っ……!? ゼノス、騎士団長……?」
「手が氷みたいだ。……少しは暖を取れ。……貴様が倒れると、俺が困る」
アイリスは、自分の心臓が、書類の数字を計算している時とは違うリズムで跳ねるのを感じた。
鍛え抜かれた騎士の掌は、驚くほど熱く、分厚い。
「……あ、あの。手を離していただける? 計算が狂いますわ」
「……っ、すまん」
ゼノスは慌てて手を離し、顔を背けた。赤髪に隠れて見えにくいが、彼の耳まで真っ赤になっている。
「……護衛だ。今夜は、俺がここで貴様を監視してやる。……変な連中が、最近、宰相府の周りをうろついているからな」
「護衛、ですか。……近衛騎士団長を夜通し拘束するのは、予算的に非常に高くつきますけれど?」
「……タダでいい。……俺がやりたくてやっていることだ」
ゼノスは腕を組み、壁に背を預けて目を閉じた。
アイリスは、少しだけ顔を赤らめながら、再びペンを握った。
静かな執務室。
書類をめくる音と、騎士の静かな寝息が混ざり合う。
効率を何よりも重視するアイリスにとって、それは人生で最も「非効率」で、しかし、最も「心地よい」時間だった。




