5話 初仕事は「大掃除」から
アステリア王国の政治の中枢、宰相府。
そこは、埃っぽい紙の匂いと、男たちの傲慢なプライド、そして長年蓄積された「事なかれ主義」が充満する場所だった。
卒業式の翌日。アイリス・フォン・ベルシュタインは、約束通りその門をくぐった。
昨日のドレス姿とは打って変わり、動きやすさを重視した藍色のライディング・ドレス。腰には、計算用魔導具と、父から贈られた護身用の短剣を帯びている。
「失礼いたしますわ。今日から宰相補佐官として勤務いたします、アイリス・フォン・ベルシュタインです」
アイリスが執務室の扉を開けた瞬間、室内の空気が凍りついた。
そこにいたのは、三十代から五十代の男性官僚たち。彼らは、アイリスを見るなり、露骨な不快感と侮蔑の視線を送ってきた。
「おいおい、本当に来たのか。陛下もお戯れが過ぎる」
「公爵令嬢が、何の真似だ? ここは茶会をする場所じゃないぞ」
「女に政治の何がわかる。引っ込んでいろ」
ひそひそという揶揄いや、直接的な暴言。だが、アイリスはそれらを、まるで羽虫の羽音のように聞き流した。
彼女は、案内された自分の執務机に向かう。……そこには、嫌がらせのように積み上げられた、過去数ヶ月分の「未決済書類」の山があった。
「……これ、すべて滞っているものですの?」
アイリスが書類の山を指差すと、一人の上級官僚、財務次官のバルトロが、嫌味な笑いを浮かべて近づいてきた。
「ああ、そうだ。優秀なアイリス様なら、これくらい朝飯前だろう? 今日中に終わらせてくれたまえ。……もっとも、女の細腕では、ペンを持つだけで精一杯かもしれないがな」
バルトロの言葉に、周囲の官僚たちがドッと沸く。
アイリスは、ゆっくりと眼鏡をかけ、書類の一番上に手を置いた。
「ええ。三時間で終わらせますわ」
「は? 三時間? 馬鹿なことを――」
「その代わり。三時間後には、皆様の『無能さ』を証明する報告書を陛下に提出いたしますので、覚悟しておいてくださいませ」
アイリスは、バルトロの目を真っ直ぐに見つめ、冷徹に告げた。
その瞳には、昨日、王子を奈落に突き落とした時と同じ、絶対的な自信が宿っている。
「……ッ! 言わせておけば!」
バルトロが怒鳴ろうとした瞬間、アイリスはすでにペンを手に取り、計算用魔導具を起動させていた。
カリカリカリ、パチパチパチ。
ペンが紙を走る音と、魔導具の起動音が、執務室に銃声のように響き始めた。
アイリスの集中力は、常人の域を超えていた。
彼女は、書類を一目見ただけで、その内容の矛盾や、数字の誤りを瞬時に見抜く。
エリオット王子の公務を影で支えていた三年間、彼女が捌いてきた書類の量は、この比ではなかった。
「……何だ、あの速さは?」
「書類を読んでいるのか? ただめくっているだけではないのか?」
一時間後、揶揄っていた官僚たちの顔から余裕が消えた。
アイリスの机の上の書類の山が、見る見るうちに低くなっていく。
「……バルトロ次官。この、王都南区の道路整備予算。……なぜ、昨年の三倍の予算が組まれているのですか?」
二時間後。アイリスの手が止まった。
彼女が差し出した書類を見て、バルトロは顔を青くした。
「そ、それは……資材の高騰と、人件費が……」
「でたらめですわね。魔導具でシミュレーションしましたが、昨年の資材価格と人件費の推移を見ても、せいぜい一・二倍が妥当です。……残りの一・八倍、およそ一千万ゴルは、一体どこへ消えたのですか?」
「ひ、ひぃっ……!」
「さらに。この、王宮への食料納入業者。……なぜ、市場価格の二倍の価格で契約されているのですか? この業者の代表者、バルトロ次官、あなたの従兄弟ではありませんか?」
アイリスの言葉に、財務府全体が凍りついた。
彼女は、ただ書類を捌いているだけではなかった。
その裏にある、官僚たちの不正、怠慢、利権構造を、次々と暴いていたのだ。
三時間後。
アイリスの机の上には、完璧に決済された書類の山と、数枚の「不正報告書」が置かれていた。
「終わりましたわ。……バルトロ次官。あなたは、国家予算の横領、および職務怠慢の疑いで、即刻拘束させていただきます」
「な……ッ! 貴様、女の分際で!」
「女の分際、ですか。……その女の分際に、わずか三時間で不正を見抜かれた男の分際は、一体どのようなものかしら?」
アイリスは扇をゆっくりと閉じ、優雅に、あまりにも優雅に微笑んだ。
その微笑みに、バルトロは腰を抜かして床にへたり込んだ。
「衛兵! バルトロ次官を連行しなさい! 罪状は国家予算横領罪ですわ!」
アイリスが一喝すると、昨日、エリオット王子を連行したのと同じ衛兵たちが、音を立てて執務室になだれ込んできた。
バルトロは悲鳴を上げながら、無様に連れ去られていく。
残された官僚たちは、震え上がり、アイリスから目を逸らした。
彼女は令嬢ではない。
この国の病巣を切り裂く、最も鋭い「メス」なのだと、誰もが理解した。
「……さて。皆様、次はどなたの『無能さ』を証明しましょうか?」
氷の女宰相の初仕事は、宰相府の大掃除から始まった。
彼女の改革は、まだ始まったばかりだ。




