39話 新世界の夜明け(モーニング・ベル)
聖都エリュシオンに、かつてないほど「正確な」夜明けが訪れた。
これまでの数千年間、この大陸の朝は常に不確定要素に満ちていた。霧が立ち込めれば商隊の足は止まり、予期せぬ雷雨が農作物を叩き、気まぐれな嵐が漁師の命を奪う。人々はそれらを「神の思し召し」と呼び、祈りを捧げることでしかその不安を解消できなかった。
だが、アイリス・フォン・ベルシュタインが地下深奥の『デウス・エクス・マキナ』を再起動させたこの日、空は「意志」を持った一つの巨大な装置へと変貌を遂げていた。
「……計算通りですわ。午前六時三〇分、大陸全土の雲密度を四パーセント低下。……太陽光の透過率を最適化し、全人類の体内時計を一律にリセットいたします」
大聖堂のバルコニーに設置されたコンソール。アイリスは、徹夜の疲労を微塵も感じさせない冷徹な手つきで、光の鍵盤を叩き続けていた。彼女の背後には、夜通し彼女の魔力を補給し続け、睡魔と戦いながらも剣を離さなかったゼノスが、驚愕の面持ちで空を見上げていた。
「……おい、アイリス。……ありゃあ、一体どうなってるんだ?」
ゼノスが指差す先、空が不自然なほど「幾何学的」に変容していた。
どんよりと垂れ込めていた灰色の雲が、まるで見えない定規で引かれたかのように整列し、格子状の隙間から一斉に黄金の陽光が降り注いだのだ。それは、神々しいというよりは、あまりに機能的で美しい、人工的な夜明けだった。
聖都の市場。昨日まで「神の怒り」を恐れて店を閉めていた商人たちが、戸惑いながらも表へ出始めた。彼らの手元には、今朝早くにアステリア公社から配布された「気象予報確定書」が握られている。
「……信じられるか? 『本日の降雨は午後二時から三時まで、農耕区第二地区に限定して行われる。市街地は終日、湿度四五パーセントを維持する』……なんて書いてやがる」
「……ああ。いつもならこの時期は長雨で腐っちまうはずの野菜が、ピンピンしてやがる。……おい、見ろよ! 予報通りの時間に、農場の上だけに雨が降り始めたぞ!」
民衆が目撃したのは、魔術でも奇跡でもない。「物理現象の管理」という名の圧倒的な効率性だった。
アイリスは、これまで教団が恐怖を煽るためにランダムに発生させていた天災を、すべて「資源」として再配分した。雷は蓄電設備へと誘導され、安価なエネルギーとして街を照らし、台風は海上交通の追い風となるよう、その進路を海上へと固定された。
「……ゼノス。……これで、大陸の農業生産高は昨年度比で二六〇パーセントの向上が確定しました。……物流コストも三割削減。……人々は、もはや雨乞いのために不毛な寄付金を払う必要はありませんわ。……空いた時間は、自己研鑽と生産活動に充てなさい、と全市民に広報してください」
「……貴様、本当に容赦ねぇな。……神様から空を取り上げて、今度は全人類に『暇つぶしは許さない』ってか」
ゼノスは呆れながらも、アイリスが差し出したカップに、淹れたての熱いコーヒーを注いだ。
バルコニーから見下ろす聖都は、かつての退廃的な宗教都市から、活気あふれる巨大な工廠へと生まれ変わりつつあった。
だが、その完璧な光景を作り出すために、アイリスの脳細胞は限界に近い演算を強いられている。
「……アイリス。……顔色が悪いぜ。……いくら貴様の頭が計算機でも、世界中の雲を動かし続けるのは、命を削ってるのと同じじゃねぇのか?」
ゼノスが背後から、アイリスの細い肩に大きな手を置く。その熱が、冷え切った彼女の思考回路をわずかに解かした。
「……私の命一律のコストで、数億人の生活が安定するのであれば、それは極めて『効率的』な投資ですわ。……それに、ゼノス。……このシステムは一度安定すれば、後は半自動で動きます。……私はただ、最初の一ミリのズレを許したくないだけです」
「……嘘をつけ。……貴様、さっきから『想定外の魔力干渉』を必死に抑え込んでるだろ。……俺の黄金の魔力を全部使え。……貴様の帳簿に『不足』が出るのは、俺が許さねぇ」
ゼノスは、彼女の背中に自分の魔力を注ぎ込んだ。
力強く、野性的で、それでいてアイリスを優しく包み込むような黄金の奔流。
アイリスは一瞬、眩暈を覚えるような安堵感に襲われ、思わず後ろに倒れ込みそうになった。
「……っ……。……非効率な、干渉ですわ。……魔力の同期率が高すぎて、私の論理回路が……」
「いいんだよ、今は。……世界はもう、貴様の引いたレールの上を走り出した。……少しは、俺を頼れ。……貴様が『空の支配者』なら、俺は……その支配者の心を守る盾だ」
アイリスは、初めて自分を支える筋肉の厚みと、ゼノスの心臓の鼓動を身近に感じた。
彼女の計算機のような脳が、「ゼノス・アステリア」という変数を、もはや「引当金」ではなく「不可欠な基本資本」として再定義した瞬間だった。




