38話 地下深き「不確定要素」(アンノウン・バリアブル)
聖都エリュシオンの狂乱が、アイリスの冷徹な統治によって「秩序ある労働」へと置き換えられてから一週間。地上の人々がアステリア王国の発行する給与明細に一喜一憂している頃、アイリス・フォン・ベルシュタインは、歴史の闇に葬られた「最深部」へと足を踏み入れていた。
大聖堂の地下、さらにその数百メートル下。
そこは、教団の歴代教皇ですら数名しか立ち入ることを許されなかった、超古代の魔導文明の遺構である。
「……ルキウス様。ここから先は、酸素濃度と魔素の密度が、地上の常識を逸脱しています。……防護障壁の出力を最大に」
アイリスの声が、無機質な金属の通路に反響する。彼女の傍らには、影の協力者であるルキウス。そして、当然のように抜き身の剣を携えた黄金の守護騎士、ゼノスが控えていた。
「おいアイリス。……この先の『気配』、ただ事じゃねぇぞ。……まるで、空そのものが地下に閉じ込められてるような……妙な圧迫感だ」
ゼノスの直感は正しかった。
幾重にも施された物理ロックと、アイリスが三時間かけてハッキングした七重の論理封印を突破した先。そこには、直径一〇〇メートルにも及ぶ巨大な球状の空間が広がっていた。
空間の中央には、虚空に浮かぶ漆黒の立方体。その周囲を、無数の光る幾何学模様が衛星のように回転している。
「……見事な設計ですわ。……これこそが、大教典教団が数千年にわたり秘匿し、世界を恐怖で支配するための『物理的根拠』……。超古代気象制御端末『デウス・エクス・マキナ』です」
アイリスは、立方体の表面に浮かび上がる古代文字の羅列を、瞬きもせずに解析し始めた。彼女の瞳には、膨大なログデータが超高速で流れていく。
「……信じられませんわ。……歴代の教団幹部たちは、この端末を使って、大陸全土の積乱雲の発達を操作し、降雨量を一パーセント単位で調整していたのですか。……逆らう国には『神の怒り』として干ばつを。……貢ぐ国には『奇跡』として恵みの雨を。……彼らは、人々の生命線である『気象』を人質に取った、ただの質の悪いテロリスト(独占企業)でしたのね」
「……つまり、今まで俺たちが『運命』だの『天命』だの言ってた天気は、全部ここのスイッチ一つで決まってたってのか?」
ゼノスが、怒りと共に剣の柄を握りしめる。
農村で飢えに苦しむ子供たちや、長雨で土砂崩れに遭った村々。それらすべてが、教団の「集金効率」を上げるための演出だったという事実に、彼は吐き気を催していた。
「……ええ。……ですが、それも今日で終わりです。……教団の使い方は、あまりにも『非効率』でした。彼らはただ、信仰心を煽るために、局地的に極端な気象変化を起こしていた……。そのせいで、大陸全体の魔素循環には、膨大な『歪み』という名の負債が蓄積していますわ」
アイリスは、立方体から伸びる光のキーボードを叩き始めた。
「……アイリス。……それをどうするつもりだ? 壊すのか?」
ルキウスの問いに、アイリスは眼鏡の奥で不敵な光を放った。
「……壊す? ……いいえ、ルキウス様。……そんな勿体ないことはいたしません。……私はこのシステムを『最適化』し、全人類の共有財産として『民営化』いたしますわ」
「……デウス・エクス・マキナ、システムログイン。……管理者権限を、教皇プロコピウスからアイリス・フォン・ベルシュタインへ移譲。……認証完了」
アイリスが宣言した瞬間、地下空間全体の明かりが、不浄な赤から澄み渡るような青へと切り替わった。
「……本日から、この大陸に『予期せぬ天災』は存在しなくなります。……雨は、農業計画に基づき、最も生産効率の高い日時に、必要な量だけ降らせます。……風は、海上交通の速度を最大化するベクトルへと調整いたします。……落雷は、すべて魔導蓄電所に回収し、全家庭への安価なエネルギー供給源として再定義しますわ」
アイリスが構築しようとしているのは、もはや「経済」の枠すら超えた、自然界そのものの「計画管理」だった。
「……貴様、それはもう……神の仕事じゃねぇか」
ゼノスが呆然と呟く。
アイリスは、操作パネルを叩く手を止め、ゼノスの方を向き直った。
「……神の仕事、ですか。……いいえ。私はただ、世界という名の巨大なシステムの『デバッグ』をしているだけです。……ゼノス。……運命や神の気まぐれに怯えて暮らす一万年より、私の計算によって保証された平穏な一〇〇年の方が、価値があると思いませんか?」
「……そりゃ、そうかもしれねぇが……。……アイリス、貴様の肩には、これから世界中の『雨』と『嵐』の責任がのしかかるんだぞ。……たった一人で、そんな重い帳簿、背負いきれるのかよ」
ゼノスの言葉に、アイリスは一瞬だけ、その指を震わせた。
彼女の計算機のような脳は、このシステムを維持し続けることが、どれほど過酷な精神的負荷を強いるかを、すでに算出していた。
「……私は、止まりませんわ。……世界が完璧な帳簿になるまで、一ミリの誤差も許しません。……たとえ、その代償が……」
「……代償なら、俺が半分払ってやるよ」
ゼノスが、アイリスの肩にどっしりと大きな手を置いた。
「……貴様が空を管理するなら、俺はそのシステムを壊しに来る『不運』を全部斬ってやる。……帳簿の端っこにでも書いておけ。『ゼノスの守護代金:時価』ってな」
アイリスは、ふっと息を吐き、口角をわずかに上げた。
「……高い報酬になりそうですわね。……承知いたしましたわ、ゼノス。……あなたの価値を、私の生涯の『引当金』として計上しておきます」




