37話 神を「合理化」した夜(ディバイン・リストラ)
聖都エリュシオンの夜は、数千年ぶりに「静寂」ではなく「喧騒」に包まれていた。
かつては祈りと聖歌が響いていた街路には今、アステリア王国から派遣された「資産整理チーム」の魔導車が走り回り、教団の紋章を剥がしては「アステリア公社」の無機質な標識を打ち付けていく。
大聖堂の最上階、かつては教皇が「神との対話」に使用していたとされる豪華絢爛な聖室。そこは今、アイリス・フォン・ベルシュタインの「臨時司令部」へと変貌していた。
「……非効率な装飾ですわね。この金の燭台一本で、地方の村に一軒の分校が建ちますわ」
アイリスは、部屋の隅に山積みにされた黄金の仏像や十字架をゴミのように一瞥し、簡易的な折り畳み式の事務デスクに向かっていた。彼女の目の前には、教団の主要な人的資源――すなわち『聖歌騎士団』の幹部たちの名簿が、ホログラムで映し出されている。
「アイリス、お疲れ。……外の連中、まだ納得してねぇぜ。特にあの白銀の鎧を着た騎士団の連中だ。『俺たちの剣は神に捧げたものだ。汚い金で雇われるつもりはない』とよ。一〇〇人くらいが中庭で座り込みを始めてる」
ゼノスが、ボロボロになった訓練用の木剣を肩に担ぎ、部屋に入ってきた。その顔には、隠しきれない疲労と、それ以上の呆れが浮かんでいる。
「……『汚い金』、ですか。……自分たちの鎧のメンテナンス費や、毎食の高級な肉が、貧しい信者たちの『涙の寄付金』から出ていたことには、想像力が及ばなかったのかしら?」
アイリスは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な笑みを浮かべた。
「……ゼノス。彼らに伝えなさい。……本日をもって、教団からの『加護(無償の衣食住)』は完全に終了いたしました。……明日から彼らが口にするパンの一片、身に纏う布の一枚に至るまで、すべてはアステリア王国に対する『負債』として計上されますわ」
「……負債? 飯を食うだけで借金になるのかよ。相変わらず厳しいな、貴様」
「……当然です。……労働なき消費は、社会に対する背信行為ですわ。……ルキウス様、彼らの『再教育プログラム』の進捗は?」
影から音もなく現れたルキウスが、タブレット型の魔導端末を提示した。
「順調だよ、アイリス。……騎士団の上位二〇パーセント、いわゆる『実力はあるが脳まで筋肉』の連中には、ゼノスによる『物理的なわからせ(再教育)』を。……残りの八〇パーセントの『ただの役立たず』には、聖都の瓦礫撤去と、新設する鉄道の枕木敷設作業を割り当てた。……彼らの誇り(プライド)は、スコップを握った瞬間に粉砕されるだろうね」
翌朝、聖都の中庭。
かつては華麗な演武を披露していた聖歌騎士団の面々が、今は屈辱に顔を歪めながら、泥にまみれた作業服に着替えさせられていた。
「……ふざけるな! 俺たちは神を護る盾だ! なぜこんな、土を掘るような真似をしなければならないんだ!」
一人の若き騎士が、配給されたスコップを地面に投げつけた。
その瞬間、彼の目の前に黄金の光が降り立つ。ゼノスだ。
「おい、若いの。……そのスコップが気に入らねぇなら、俺とやるか? ……俺に勝てたら、神様でも何でも好きなだけ拝んでていいぜ。だが、負けたら……その泥水をすすってでも、今日のノルマを終わらせろ」
ゼノスから放たれる圧倒的な守護騎士の威圧感。
聖歌騎士団の「奇跡」という名の演出用魔法とは格が違う、本物の死線を潜り抜けてきた黄金の魔圧。
若き騎士は、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……神様は、腹が減ってもパンを降らせちゃくれない。……だが、アステリアの女王様は、働いた分だけの『報酬』を約束してくれてる。……どっちが誠実か、その筋肉で考えてみろ」
ゼノスの言葉は、荒っぽいが真理を突いていた。
かつて彼らが守っていた「聖域」は、ただの「寄生先」に過ぎなかった。
アイリスが提示したのは、残酷だが公平な「等価交換」の世界だ。
一方、大聖堂の内部では、アイリスによる「神殿のオフィス化」が猛烈な勢いで進んでいた。
広大な礼拝堂はパーテーションで区切られ、数千人の「元・神官」たちが、慣れない手つきで計算機を叩いている。
「……神官一二四号。……あなたの担当する地区の『免罪符購入者リスト』に、三〇パーセントの計算ミスがありますわ。……これは信仰の問題ではなく、単純な入力ミス。……次からは、あなたの昼食のランクを一等級下げさせていただきます」
アイリスの冷徹な声が、かつて神託が下されていたマイクを通じて響き渡る。
神官たちは、神の罰よりもアイリスの「給与査定」に怯え、必死に帳簿を合わせていた。
「……アイリス、そんなに追い詰めなくてもいいだろ。……神官たち、目が血走ってるぜ」
訓練を終えたゼノスが戻ってきて、アイリスのデスクに甘い菓子パンを置いた。
「……不確定な『天国』を売る商売より、確定した『数字』を合わせる作業の方が、彼らの精神衛生上も良いはずです。……見てなさい、ゼノス。……一ヶ月もすれば、彼らは祈る時間を惜しんで、エクセルのマクロ(自動演算魔法)を組むようになりますわ」
アイリスの予測は、恐ろしい的中率を誇っていた。
数日後には、かつて「聖水」を売っていた神官たちが、「この聖水の原価率は高すぎる」「ボトリング工程の外注化を検討すべきだ」と議論し始め、聖歌騎士団の連中は「現場の安全第一」をスローガンに、効率的な土木作業に従事するようになっていた。
神秘のヴェールを剥ぎ取れば、そこにあるのはただの「組織」だ。
アイリスは、その組織から「宗教」という名の不純物を取り除き、大陸で最も洗練された「行政・金融マシーン」へと再構築してしまったのだ。
「……これで、聖都の『合理化』は第一段階完了ですわ」
深夜。アイリスは誰もいなくなった執務室で、ようやく眼鏡を外した。
窓の外には、街灯として再利用された「魔導クリスタル」が、以前よりも明るく、規則正しく聖都を照らしている。
「……ゼノス。……世界から『無駄』が消えるたびに、人々は不安になるようですわ。……空いた時間に、何を考えればいいのか分からなくなるのでしょうね」
「……だったら、俺がその時間に、貴様と一緒に飯を食うプランを立ててやるよ。……それが、俺の考える一番『効率的』な時間の使い方だ」
ゼノスがアイリスの背後に立ち、彼女の肩を大きな手で包み込む。
アイリスは、計算外の体温の暖かさに、わずかに頬を染めた。
「……非効率な提案ですわね。……でも、私のスケジュールに『三〇分間の空白』を追加することに同意いたします」
神をリストラし、信仰を労働へと変換したアイリス。
彼女のプロジェクトは、ついに人々の「生活」そのものを統治するフェーズへと入り、そしてその視線は、地上の帳簿を完成させるための最後の鍵――「空」へと向けられる。
「……さあ、明日は『天候』の民営化に着手しましょうか」




