36話 信仰のM&A(テイクオーバー・フェイス)
聖都エリュシオンの大聖堂に、羽根ペンの走る音だけが空虚に響いた。
教皇プロコピウスが、自らの権威をすべてアステリア王国へ譲渡する契約書にサインを終えた瞬間、大陸の歴史は決定的な転換点を迎えた。数千年にわたり人々の魂を支配してきた教団は、今この瞬間、アイリス・フォン・ベルシュタインという一人の女性の手によって「一民間企業」へと格下げされたのだ。
「……手続きは完了いたしましたわ、元・教皇様。……正確には、本日からあなたは『アステリア・スピリチュアル・サービス部門』の顧問です。……個室の用意はありませんので、そちらの共有デスクをお使いください」
アイリスは、もはや抜け殻のようになった老人を一瞥もせず、懐から取り出した魔導拡声器のスイッチを入れた。
「アイリス、外が騒がしいぜ。……神様を信じてた連中が、自分たちの寄付金が教皇の宝石に変わってたって知って、聖堂を焼き討ちにする気満々だ」
ゼノスが、黄金の魔力を纏わせた大剣を肩に担ぎ、大聖堂のバルコニーへと続く扉を蹴破った。外からは、数万の信徒たちの怒号が、地鳴りのように響いてくる。
「……暴動は非効率ですわ。……壊された建物の修繕費は、最終的に彼らの『分配金』から差し引くことになりますから。……ゼノス、私の背中を護りなさい。……今から、この国を『清算』いたしますわ」
アイリスは、大聖堂のバルコニーへと歩み出た。
眼下には、聖都を埋め尽くす怒れる群衆。彼らは、教団の欺瞞を暴いたアイリスを称える者と、信じていた世界を壊された怒りをぶつける者、その両極端の熱狂に包まれていた。
「……静粛に(サイレンス)。……大教典教団の全債権者――いいえ、信徒の皆様にお知らせいたしますわ」
アイリスの声が、魔導増幅によって聖都の隅々にまで、透き通った鐘の音のように響き渡った。
「……本日、大教典教団は事実上の破産を選択し、その全資産と事業はアステリア王国直轄の『聖都再生機構』へと譲渡されました。……皆さんが奪われたと感じている寄付金、および免罪符の代金、それらすべては本日を以て『アステリア公共投資優先株』へと強制的に変換されます!」
怒号が、一瞬にして困惑のざわめきへと変わる。
「……説明いたしますわ。……皆さんが神に捧げた金貨は、もはや教皇の愛人の邸宅へ流れることはありません。……それは本日より、大陸全土を繋ぐ鉄道網の整備、および無料の魔導医療クリニックの建設費用として『再投資』されます。……皆さんは単なる信者ではなく、この世界の『株主』になったのですわ!」
アイリスは、空中投影機で巨大なホログラムを聖都の空に展開した。
そこには、教団から押収した資産がどのように各インフラ事業へ分配されるかを示す、精緻なフローチャートが映し出された。
「……祈るだけで救われるのを待つのはおやめなさい。……あなたの資産が、物理的な道路となり、病院となり、子供たちの教科書となる。……その進捗状況を、株主として厳しく監視するのです! ……信仰の成果を『死後』に期待するのは非効率ですわ。……私は、皆さんに『今期』の配当を約束いたします!」
沈黙。
そして、一人の貧しい身なりの男が、震える声で叫んだ。
「……俺たちの金で、本当に……病気が治る病院が建つのか!?」
「ええ。……計算上、来年の春までには、この聖都に大陸最大の総合医療センターが設立されますわ。……教皇の祝福(ただの興奮剤入りの水)を待つより、高度な魔導外科手術を受ける方が、生存確率は一五〇〇パーセント向上します」
その瞬間、聖都を揺るがしたのは怒りではなく、圧倒的な「歓喜」と、冷徹な「期待」の合唱であった。
盲目的な信仰が、アイリスの言葉によって「投資」という名の合理的な希望へと上書きされた瞬間だった。




