35話 奇跡の原価計算(コスト・オブ・ミラクル)
聖都エリュシオンの大聖堂。数千年の歴史が刻まれた石造りの空間は、かつてない不穏な熱気に包まれていた。
アイリス・フォン・ベルシュタインが提示した「資産凍結」と「成分分析」の宣告。それは、神の代理人を自称する教皇プロコピウスにとって、心臓を直接握り潰されるに等しい衝撃だった。
「アイリス・フォン・ベルシュタイン……! 貴様は、神の慈悲によって生かされている分を弁えず、あろうことか数字という名の毒で聖域を汚そうというのか!」
教皇が黄金の杖を激しく石畳に打ち鳴らす。その振動に呼応するように、大聖堂の天井に描かれた女神の瞳から、眩いばかりの「神の光」が溢れ出し、アイリスの頭上へと降り注いだ。
「おお……! 神の怒りだ! 不信心な魔女に裁きが下るぞ!」
ひれ伏す信者たちの間で、期待と恐怖が入り混じった叫びが上がる。
だが、その光のカーテンの中に立つアイリスは、眉一つ動かさず、むしろ退屈そうに眼鏡を直した。
「……光魔法『ホーリー・レイ』。……波長解析完了。……魔力の減衰率から逆算するに、この光の出力を維持するために使用されているのは、帝国産の一級魔導クリスタル『ソラリス』……。それも、一〇分ごとに一キログラムを消費する過負荷運用ですわね」
アイリスは、光り輝く空間の中で平然と懐中時計を確認し、手帳に数字を書き込んだ。
「……教皇様。……その『奇跡』、一分継続させるごとに金貨五〇〇枚のコストがかかっておりますけれど。……アステリア中央銀行が教団の全口座を凍結した今、そのクリスタルの『代金未払い』が発生していることに、お気づきかしら?」
「……なっ、何を……デタラメを!」
「……デタラメではありませんわ。……教団がクリスタルを独占購入していた『バルク商会』。……あそこは三時間前に、私のダミー会社が買収いたしました。……現在、私はその鉱主として、教団への『商品の引き渡し拒否』を正式に決定しております。……つまり、その光……あと三〇秒で燃料切れですわ」
アイリスの冷酷なカウントダウンが始まった。
三〇、二九、二八……。
教皇が必死に杖を振り、魔力を込めようとするが、大聖堂の仕掛けに供給されるエネルギーは、アイリスが仕掛けた「物流の遮断」によって無慈悲に細まっていく。
――プツン。
やがて、神々しい光は電球が切れるように呆気なく消滅し、大聖堂には埃っぽい静寂と、夕闇のような薄暗さだけが残された。
「……奇跡の『原価』も払えない神など、私から見ればただの『債務超過者』に過ぎませんわ」
アイリスは、呆然とする教皇と信者たちの前で、魔導投影機を高く掲げた。
映し出されたのは、教団の秘密金庫の奥深くに眠る、大量の「裏帳簿」と「不透明な契約書」の数々だ。
「……信者の皆さんに配られている『聖水』。……一口飲めば活力が湧き、神の存在を感じると言われていますが。……その成分は、単なる湧き水に、依存性の高い向精神薬を微量に混ぜたものですわ。……つまり、皆さんは『信仰』ではなく、単なる『薬物中毒』によって多幸感を得ていただけです」
「……バカな! そんなことが……!」
信者たちの間に、激しい動揺が広がる。アイリスは追い打ちをかけるように、画面を切り替えた。
「……そして、皆さんが死後の救済のために買った『免罪符』。……これの発行益は、すべて教皇様個人の隠し口座を通じて、ルヴェン連合のギャンブル産業や、高級娼館の経営資金へと流用されていました。……こちらが、その資金洗浄の全ルートですわ」
画面には、複雑に入り組んだ金の流れが、血の滴るような赤い線で示されていた。
かつて神聖な祈りが捧げられていた大聖堂は、今や「巨大な詐欺現場」としての正体を暴かれ、信者たちの顔からは敬虔さが消え、燃え上がるような怒りが宿り始めた。
「……嘘だ! 嘘だと言ってくれ、教皇様!」
叫ぶ信者を、教皇はもはや見ることすらできなかった。彼の黄金の杖は、ただの重い鉄の棒へと成り下がっていた。
「……さて。……教皇様。……教団の信用格付けは、今この瞬間をもって『D(債務不履行)』へと転落しました」
アイリスは、大聖堂の中央を歩き、教皇の玉座のすぐ下にまで歩み寄った。
背後では、ゼノスが大剣を肩に担ぎ、聖歌騎士団の連中が手出しできないよう、黄金の魔力で物理的な障壁を築いている。
「……アイリス。……さすがに、やりすぎじゃねぇか? ……これ、神様が本当にいたら、貴様の名前を帳簿の『地獄行き』リストに書き込んでるぜ」
「……地獄があるのなら、私はそこの『燃焼効率』を改善して、地熱発電事業でも展開いたしますわ。……ゼノス、無駄口を叩く暇があるなら、この教皇様が逃げ出さないよう、出口を確保しておきなさい」
アイリスは、震える教皇の前に、一通の「最終提案書」を突きつけた。
「……『大教典教団・包括的破産更生手続』の同意書です。……教団の全資産、および大陸各地に展開する支部の管理権、さらに信者の個人情報データベースを、我がアステリア王国の『資産管理公社』へと委託しなさい。……代わりに、あなたたちの身の安全と、最低限の生活保護は提供して差し上げますわ」
「……バカな……。神の代理人であるこの私が、アステリアの『被雇用者』になれというのか……!」
「……神の代理人としてよりは、私の『事務員』として働く方が、よほど人道的で生産的な人生を送れますわ。……教皇様。……サインをなさい。……さもなくば、この大聖堂に火を放とうとしている、あそこの怒れる信者たちの前に、あなたを放り出しますけれど?」
アイリスが指し示した先では、詐欺に気づいた信者たちが、大聖堂の調度品を壊し、教皇への糾弾を始めていた。
教皇プロコピウスは、震える手で羽根ペンを握り、自らの権威を「売却」する契約書にサインを記した。
第36話。
数千年の信仰は、アイリスの計算機によって「悪質なポンジ・スキーム」として再定義され、解体された。
全300話の物語。
聖域を飲み込んだアイリスは、今や「神の財布」を握る唯一の存在となり、次なる標的――気象すらも支配する『天の不確定要素』を資産化するための、壮大な計画を始動させる。
「……さあ、次は『運命』という名の不確かな確率を、私の管理下に置かせていただきますわ」
「……はは。……神様が失業した後の世界、随分と世知辛くなりそうだぜ、アイリス」
黄金の守護騎士と、氷の女宰相。
二人の影は、崩れゆく教団の権威を背に、より長く、より深く世界へと伸びていった。




