34話 聖域への監査請求(ホーリー・オービット)
大陸の経済を掌握し、無敵を誇ったルヴェン連合の艦隊すらも「再保険の解約」という事務手続き一本で無力化したアイリス・フォン・ベルシュタイン。アステリア王国の実質的な支配者となった彼女が次なる標的に定めたのは、大陸全土に数億の信徒を抱え、数千年の歴史を誇る「大教典教団」の総本山、聖都エリュシオンであった。
教団は、人々の死への恐怖を「免罪符」という名の無価値な紙屑に変えて吸い上げ、寄付金という名の「非課税所得」を膨大な地下金庫に溜め込んでいた。彼らは国家の法を超越した「聖域」を自称し、大陸全土の流通において「神への奉納」という名目で事実上の関税を徴収し続けていたのだ。
「……非効率の極致ですわね。神の御名を借りて、市場の流動性を阻害する。……これほど巨大な『タックス・ヘイヴン(租税回避地)』を放置しておくのは、健全な経済圏の構築において最大の障害ですわ」
王宮の執務室、アイリスは教団から届いた「異端審問」の召喚状を、優雅にコーヒーのソーサー代わりにしながら呟いた。その召喚状には、アイリスが提唱する「数字による統治」が神への冒涜であり、直ちに全財産を教団へ寄進して悔い改めよという、傲慢極まりない文言が並んでいた。
「アイリス、今度は神様と喧嘩か? さすがに教団の信者は大陸中にいる。力でねじ伏せりゃ、大陸全土で暴動が起きるぞ。……俺の剣じゃ、人々の『信仰』までは斬れねぇ」
ゼノスが剣の手入れを止め、珍しく真剣な表情で忠告する。教団には、彼らが「神の奇跡」と称する強力な光魔法の使い手――『聖歌騎士団』が控えており、その武力は帝国の精鋭にも匹敵すると言われている。
「……暴力は使いませんわ、ゼノス。……私はただ、彼らの『帳簿』を白日の下に晒すだけです。……ルキウス様、準備はよろしくて?」
影から音もなく現れたルキウスが、不敵な笑みを浮かべ、一束の分厚い「資産調査報告書」を差し出した。
「ええ。教団が裏で行っていた『高利貸し』の証拠、および『聖水』の成分が単なる湧き水に微量の麻薬成分を混ぜたものであるという分析結果……。さらに、歴代教皇が秘密裏に蓄財し、愛人たちに買い与えた不動産の登記簿まで、すべて揃いました。……さあ、神を『倒産』させに行きましょうか」
数日後、アイリスはわずかな供回りのみを連れ、聖都エリュシオンへと乗り込んだ。
出迎えたのは、白銀の甲冑に身を包んだ聖歌騎士団の物々しい列と、民衆の怒号であった。
「魔女アイリス! 神を恐れぬ不届き者め!」「聖域を汚す数字の悪魔を追い出せ!」
罵声を浴びせられながらも、アイリスは藍色のドレスの裾を揺らし、毅然とした足取りで大聖堂へと進む。彼女の隣を歩くゼノスは、今にも剣を抜きそうな騎士たちを黄金の瞳で威圧し、一歩も近づけさせない。
大聖堂の奥深く、黄金の玉座に座る教皇プロコピウスが、慈悲深い笑みを浮かべて口を開いた。
「よく来たな、アイリス・フォン・ベルシュタイン。……貴公がこの聖域に足を踏み入れたのは、己の罪を認め、神にすべてを捧げるためか?」
「……いいえ。……私は本日、大教典教団に対し、『包括的外部監査』の開始を通告しに参りましたの」
アイリスの声が、静まり返った大聖堂に冷徹に響き渡った。
「監査……だと? 何を言っている。この場所は神の領域。人の法、ましてや卑俗な数字など、通用せぬ場所だ」
「……お言葉ですが、教皇様。……神がこの世を創造されたのであれば、その維持には必ず『コスト』が発生します。……現在、教団が発行している『免罪符』。……これの裏付け資産は一体どこにありますの? ……発行額に対し、教団の保有する貴金属の量は明らかに不足しています。……これは、現代で言うところの『通貨の過剰発行』を引き起こす詐欺行為ですわ」
アイリスは、懐から一通の「支払停止勧告」を取り出した。
「……さらに。教団が大陸各地の銀行に預けている資産。……それらすべてに対し、アステリア中央銀行の権限を以て、本日九時をもって『資金凍結』の措置を執らせていただきました。……教皇様。……明日から、教団の職員への給与、および聖歌騎士団の糧食費、一体どこから捻出されるおつもりかしら?」
「……なっ……!? 何を勝手な真似を!」
教皇の顔が、怒りと驚愕で歪む。
アイリスは、動じることなく続けた。
「……信仰は自由ですわ。……ですが、商行為としての『宗教事業』は、私の市場ルールに従っていただきます。……教皇様。……あなた方が『奇跡』と呼んでいるものの正体……。……その正体を、この場で全信者の前で『鑑定』させていただいてもよろしいかしら?」
アイリスの手元で、魔導投影機が起動した。
映し出されたのは、教団が秘匿していた地下工房の映像。そこでは「聖水」が機械的にボトリングされ、怪しげな薬物が投入される様子が克明に記録されていた。
「……これは、捏造だ! 悪魔の幻術だ!」
「……幻術かどうかは、今ここで信者の皆さんに飲ませている聖水を、私が成分分析すれば済むことですわ。……さあ、教皇様。……神の代理人を自称するのであれば、その『帳簿の誠実さ』を証明なさい。……できなければ、この教団を『不良債権』として、私がまるごと買い叩かせていただきます」
第35話。
アイリス・フォン・ベルシュタイン。彼女は今、物理的な剣ではなく「情報の透明性」という名の光で、大陸を覆っていた数千年の闇を焼き払い始めた。
全300話の物語。
聖域が崩壊し、神が「負債」へと変わる瞬間。
アイリスの冷徹な知略は、信仰という名の巨大な壁すらも、ただの「負の資産」として計上し、解体していく。
「……ゼノス。……騎士団の皆さんに伝えて。……私の軍門に降れば、未払いの給与はすべて、アステリアが『ネオ・アステル』で保証して差し上げますわ、と」
「……はは。……神様より、金持ちの女宰相の方が信じられるってわけか。……残酷だぜ、アイリス」
二人の前に、教団の権威が音を立てて崩れ落ちようとしていた。




