26話 精神のハッキング、帝国の暗号崩壊
朝日が差し込む王宮の自室。アイリスは、まだ微かに熱を帯びた額を冷たい指先で押さえながら、傍らで眠るゼノスの前髪をそっと払った。
カイル皇太子が放った「執着の毒」は、今も彼女の脳内の論理回路を侵食しようと蠢いている。目を閉じれば、カイルの傲岸不遜な笑い声と、甘く湿った囁きが耳を打つ。
「……アイリス。君は私の一部になるんだ。君の計算は、すべて私の愛という分母に支配される……」
幻聴。だが、アイリスはその「バグ」を排除しなかった。
彼女は再び眼鏡をかけ、枕元に置かれた最新の演算魔導具を起動する。
「……排除するのは非効率ですわね。……カイル殿下。あなたが私の精神に『バックドア(裏口)』を作ったというのなら。……そこからあなたの思考の癖を逆走し、帝国の心臓部を覗かせていただきますわ」
アイリスは、自分の脳内で明滅するカイルの「感情の波」を、一つひとつデジタルな数値へと置換していった。
彼が何を愛し、何を憎み、どのようなタイミングで決断を下すのか。
カイル皇太子の精神構造そのものを「暗号の鍵(シード値)」として利用し、帝国の軍事通信網の暗号化方式を逆算し始めたのだ。
「……見つけましたわ。帝国の第一から第三師団が共有する『皇太子専用周波数』。……暗号の周期は、彼の心拍数と同期していますのね。……実に自己愛の強い、分かりやすい構造ですこと」
アイリスの指先が、鍵盤を叩くような速さで空中に文字を綴っていく。
その時、ゼノスがガバッと跳ね起きた。
「……アイリス! 起きるな、まだ熱があるだろ!」
「……おはようございます、ゼノス。……騒がしくしてすみませんわね。……ちょうど、帝国の軍事機密を『無料ダウンロード(・・・・・・・・・)』している最中ですの」
「……はぁ!? 貴様、何言ってんだ……。カイルの野郎に呪いをかけられたんじゃなかったのかよ!」
ゼノスは、アイリスの顔を覗き込み、その瞳がカイルの色に染まっていないかを確認するように両肩を掴んだ。
「……呪い、ですか。ええ、確かに不快なノイズですわね。……ですが、ゼノス。……敵から送られてきた有害なデータも、適切に処理すれば、最高の『諜報ツール』になりますの。……今、帝国の全軍に『偽の撤退命令』を、カイル殿下の声と波形で送信したところですわ」
「……貴様、あいつの魔力を利用して、あいつのフリをして命令を出したのか!?」
ゼノスは戦慄した。
カイルが「愛の侵食」として仕掛けた呪いを、アイリスは一晩で「通信回線の踏み台」として転用したのだ。
「……一〇分後、国境付近の帝国軍は混乱に陥りますわ。……同士討ちすら始まるかもしれません。……カイル殿下が私の脳内に作った『裏口』は、今や帝国滅亡への『最短ルート』ですのよ」
同時刻、帝国の前線本営。
カイル皇太子は、突如として全軍の指揮系統が崩壊し始めた報告を受け、手にしたチェス駒を握り潰した。
「……何だと!? 私の署名入りの『無条件降伏勧告』が全軍に送信された!? バカな、そんな命令を出した覚えはないぞ!」
「殿下、通信回路がハッキングされています! 発信元は……殿下ご自身の『精神波』と同一の署名です!」
カイルは、目を見開いた。
「……っ、ハハッ! ハハハハハ!! 愉快だ! 愉快すぎるぞ、アイリス!!」
カイルは狂ったように笑い出した。
自分が彼女を縛り付けるために打ち込んだ「楔」を、彼女はあえて自分の内部に留め、そこからカイルの「権限」を盗み取ったのだ。
「……私の『愛』を、そのまま『攻撃プログラム』に書き換えたというのか! 完璧だ、アイリス! 君は私を、魂のレベルで攻略しに来ているんだね!」
カイルの瞳に、歓喜を通り越した「渇望」が燃え盛る。
「……全軍に告ぐ! 通信はすべて切断しろ! これからは、私の『肉声』と『物理的な伝令』のみを信じろ! ……それと、魔導騎士団、第一陣を解き放て。……アステリアの王都まで、一気に駆け抜けるぞ。……彼女がこれ以上、私の心を汚す前に……私が直接、その身体を奪いに行く!」
アステリア王宮。
アイリスは、通信機越しに帝国の混乱が「物理的な力」によって無理やり収束され始めたことを察知した。
「……通信遮断、ですか。……原始的ですが、正しい判断ですわね。……ゼノス。カイル殿下は、なりふり構わずこちらへ向かってきますわ」
「……ああ、望むところだ。……アイリス。……貴様の頭の中に、まだあいつがいるんだろ? ……だったら、俺があいつを物理的にブチのめして、貴様の頭から追い出してやる」
ゼノスは、黄金の魔力を全身に纏い、アイリスの前に跪いた。
「……俺を信じろ。……貴様が数字で世界を操るなら、俺は貴様の『存在』そのものを、誰にも触れさせねぇ。……たとえ、この命と引き換えにしてもだ」
「……非効率な自己犠牲は認めません、と言いましたわ。……ですが、ゼノス。……このハッキング、もう少し維持するには、あなたの『魔力』が必要ですの。……手を、貸してくださる?」
アイリスがそっと差し出した手を、ゼノスが大きな手で包み込む。
「……好きなだけ持っていけ。……俺の全部、貴様にやるよ」
二人の力が、再び一つに重なる。




