22話 カイルの逆鱗と、武力介入の予兆
ディードリッヒ帝国の首都、オーディン。その中心にそびえ立つ黒真珠のような皇宮の一室で、カイル・ヴァン・ディードリッヒ皇太子は、手にしていた報告書を静かに、だが完全に握り潰した。
彼の紫の瞳には、かつてないほどの濃密な「冷気」が宿っていた。
報告の内容は、帝国が最も信頼を置いていた相場師ルキウスの音信不通、および帝国の短期国債がアステリア王国の正体不明のファンドによって九割近く買い占められたという、国家存亡の危機であった。
「……ルキウス。君もか。君までも、あの女の『数字の檻』に飼われる道を選んだのか」
カイルの声は低く、地を這うような不気味な響きを湛えていた。
彼は窓辺に歩み寄り、眼下に広がる帝都の軍事パレードを見下ろした。帝国自慢の重装魔導騎士団、そして最新鋭の熱線砲を積んだ巨大な魔導戦車が、石畳を鳴らして進軍していく。
「アイリス……。君は、経済という名の無血の戦場で、私を殺しに来た。……君のその傲慢なまでの知略、そして私の部下を次々と手懐けるその手腕。……称賛に値するよ、本当に」
カイルは、傍らのサイドテーブルに置かれたクリスタルグラスを手に取った。中には血のように赤いワインが満たされている。
「だが、君は一つだけ計算違いをしている。……経済のルールが通用するのは、それを守るだけの『理性』が盤上に残っている時だけだ。……私は、君という宝石を手に入れるためなら、自国の経済が破綻しようと、大陸の半分が灰になろうと、一向に構わないんだよ」
カイルが指先に力を込めると、クリスタルグラスは粉々に砕け散り、赤い液体が彼の白い軍服を汚した。
「……魔導師団長を呼べ。……『オーロラの矢』の即時使用を許可する。……標的はアステリア国境、第一要塞。……一分以内に、あの古臭い石積みの城を、歴史の塵にしてあげよう」
一方、アステリア王国。
アイリスは、カイルの「盤面破壊」を予見していたかのように、王宮の地下にある「戦略演算室」に籠もっていた。
周囲には、彼女が急造させた魔導通信兵たちが、大陸各地の魔力反応をリアルタイムで監視している。
「補佐官閣下! 帝国国境付近で、大規模な魔力収束を確認! これは……通常の攻撃魔法ではありません、戦略規模の『広域熱線』です!」
「……来ましたわね。カイル殿下、案外と気が短いことですわ」
アイリスは、徹夜続きの目を僅かに細め、目の前に展開された立体魔導地図を操作した。
彼女の指先が、国境付近の特定の地点――一見すると何の変哲もない荒野を指し示す。
「ゼノス。……準備はよろしいですか?」
アイリスの背後、暗がりに立っていたゼノスが、重厚な鎧の音を響かせて一歩前に出た。
彼の手には、アステリア王室に代々伝わるが、あまりの魔力消費量ゆえに数百年も「ガラクタ」扱いされていた聖遺物――『次元盾の核』が握られていた。
「ああ、いつでもいけるぜ。……だがアイリス、これを使うってことは、貴様の『ネオ・アステル』の埋蔵魔力の半分を、一瞬で使い切るってことだぞ? 経済的には大損なんじゃないのか?」
「……ええ、非効率の極みですわ。……ですが、国が消えては計算の前提が崩れます。……それに、ゼノス。……帝国が放つその『熱線』のエネルギー……ただ防ぐだけでは、もったいないとは思いませんか?」
アイリスの瞳に、悪魔的な輝きが宿る。
「……防ぐだけじゃない? どういう意味だ?」
「……『屈折』させて、帝国の兵站拠点へと、そのままお返しして差し上げるのです。……カイル殿下への、私からの『着払い』のプレゼントですわ」
その数秒後。
空が、真っ白に染まった。
ディードリッヒ帝国の誇る戦略魔導兵器『オーロラの矢』が、音を置き去りにしてアステリアの国境要塞へと降り注いだ。
一撃で都市を消滅させるその威力。誰もが、アステリアの滅亡を確信した。
だが。
要塞の直上で、空間が歪んだ。
アイリスの計算に基づき、ゼノスが『次元盾』を起動した瞬間、降り注いだ熱線の奔流は、目に見えない巨大なプリズムに衝突したかのように、その軌道を強引に変えられた。
「な……っ!? 魔法が……曲がった!?」
帝国軍の陣地から、驚愕の叫びが上がる。
屈折した光の柱は、放たれた勢いそのままに、帝国側の最前線基地――そこはアイリスが事前に「最も効率的に物資が集積されている場所」として特定していた地点――を直撃した。
ドォォォォォォォォン!!
自分たちが放った暴力によって、自分たちの食糧と燃料が、一瞬にして蒸発していく。
演算室のアイリスは、その爆発の光景を通信魔導具越しに冷静に見届けながら、手帳に数字を書き込んだ。
「……帝国軍の兵站、三割の消失を確認。……これで、彼らの進軍速度は計算上、二週間は遅延しますわ。……その間に、帝国の国債の『買い占め』を完了させます」
「……はは、相変わらずだ。……熱線で焼かれてる間も、貴様は金の勘定かよ、アイリス」
ゼノスは、限界まで魔力を消費して膝をつきながらも、どこか誇らしげに笑った。
「当然ですわ。……暴力には暴力を。……そして、暴力にかかる『コスト』を最大化させる。……それが、私なりの戦争の作法ですの」
アイリスは、倒れそうになるゼノスの肩を支え、初めて彼に柔らかな笑みを向けた。
「……よくやってくれましたわ、ゼノス。……あなたのその武力、一分あたり金貨一万枚の価値がありますわよ。……私の心拍数が上がった分を差し引いても、お釣りが来ます」
「……っ。……さらっと、とんでもねぇこと言うな、貴様は」
ゼノスの頬が、熱線の余波とは違う熱で赤く染まる。
カイル皇太子。
彼は物理的な一撃でアイリスを屈服させようとした。
だが、アイリスはその一撃すらも「自国の資産」として利用し、帝国の心臓部を焼き払った。
経済冷戦は、ついに「実戦」という名の試験運用フェーズへと突入した。
氷の女宰相と、赤髪の守護騎士。
二人の絆は、帝国の業火の中で、より鋼に近い強靭さへと鍛え上げられていく。




