20話 不渡り(デフォルト)の足音
深夜二時。宰相府の最上階、アイリス・フォン・ベルシュタインの執務室は、魔導ランプの青白い光と、無数の書類が放つインクの匂いに包まれていた。
アイリスは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、手元の演算魔導具が弾き出した「最新の市場データ」を凝視している。その唇の両端が、獲物を罠に追い込んだ捕食者のように、僅かに吊り上がった。
「……ふふ。カイル殿下、やりすぎましたわね。完璧な支配者ほど、自分の足元の砂が流れていることに気づかないものですわ」
彼女の視線の先にあるグラフ。それはディードリッヒ帝国の「短期国債」の価格推移だった。
カイル皇太子は、アステリア王国を経済的に干上がらせるため、莫大な資金を投じて穀物の買い占めと物流の封鎖を行った。だが、その資金源は無限ではない。帝国の軍拡予算や公共事業費を転用し、さらに「短期国債」を乱発することで、強引にキャッシュを捻出していたのだ。
「ゼノス。……起きていらっしゃいますか?」
アイリスが声をかけると、部屋の隅の長椅子で仮眠を取っていたはずの巨躯が、音もなく跳ね起きた。
近衛騎士団長、ゼノス・ヴァン・グレイシャー。彼は寝起きの鋭い眼光をアイリスに向けながら、愛剣の柄を無意識に握りしめる。
「……寝てねぇよ。貴様がその『悪魔の微笑み』を浮かべる時は、大抵ろくでもないことが起きるからな。……で、今度は誰を破滅させるつもりだ?」
「失礼な言い方ですわね。私はただ、市場の『最適化』を行おうとしているだけですわ」
アイリスは手元の書類をゼノスの方へ滑らせた。そこには、複雑な数字の羅列とともに、帝国内部の複数の商会の紋章が記されている。
「ゼノス。今すぐ、我が国の国庫にある『旧通貨アステル』の残余分、および没収した汚職貴族たちの隠し財産……そのすべてを、帝国の市場へ流しなさい。ただし、直接ではありませんわ。ルキウス様を通じて確保した、帝国内の『ダミー商会』を経由して……帝国の短期国債を、一粒残らず買い集めるのです」
ゼノスは眉をひそめ、書類を覗き込んだ。
「……はぁ!? 意味がわからねぇぞ。敵の借金を肩代わりしてどうする。せっかく手に入れた金を、あんな銀髪野郎の国に貢ぐつもりか!」
「いいえ。……借金を抱えている間は、ただの『債務者』に過ぎません。ですが、その借金をすべて一箇所で握れば……私は帝国の『オーナー(所有者)』になれますの」
アイリスは立ち上がり、窓の外に広がる夜の王都を見渡した。
「カイル殿下は、我が国を『買収』しようとしましたわね。通貨を暴落させ、資産を安値で叩き売らせることで、この国を帝国の属州にしようと。……ならば、私はその逆を行きますわ。帝国の借用書(国債)を私が独占すれば、返済期限が来た瞬間に、私は帝国に対して『全額返済』を要求できます」
「……もし、あいつらが払えねぇって言ったら?」
「それこそが狙いですわ。……『不渡り(デフォルト)』。一国の政府が借金を返せなくなれば、その国の信用は地に落ち、通貨は紙屑になります。そうなれば、私は債権者として、帝国の領土、鉱山、魔導技術、さらには皇室の資産までもを『担保』として合法的に差し押さえる権利を得る。……カイル殿下が私の国を買い取ろうとしたその倍の規模で、私は彼の帝国そのものを、事務手続き(・・・・)だけで解体して差し上げますわ」
ゼノスは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
戦場での殺し合いなら慣れている。だが、目の前の少女が語っているのは、一滴の血も流さずに、大陸最強の帝国を「倒産」させるという、静かなる虐殺だった。
「……貴様、本当に可愛くねぇ女だな。剣を振るう俺が馬鹿らしくなるぜ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。……さあ、ゼノス。時間はありませんわよ。帝国の会計年度が切り替わるのは一ヶ月後。その瞬間に、カイル殿下へ最高に『非効率』な請求書を叩きつけて差し上げましょう」
翌朝。アイリスは休む間もなく、王都のギルド長たちを招集した。
彼女が提示したのは、新通貨「ネオ・アステル」を用いた「先物取引」の概念だった。
「皆さん。これからは、まだ収穫されていない小麦や、まだ掘り出されていない魔導石に値をつけ、それを取引の対象とします。……そして、その決済権をすべて我が国の新中央銀行に集約させるのです」
ギルド長たちは顔を見合わせた。彼らにとって、存在しないものを売り買いするなど、神を欺く行為に等しい。
「……補佐官閣下。そのような実体のない取引に、何の保証があるというのですか?」
「私の(・・)計算が保証ですわ。……私が提示する流通ルートと、私が構築した物流網を使えば、損害は最小限に抑えられます。……もし私の予測が外れたなら、私の全私産を以て補填いたしましょう。……ですが、この波に乗れば、皆さんは帝国の商人すら支配下に置く『世界のルールメーカー』になれる。……どちらを選びますか?」
アイリスの放つ圧倒的な「有能感」と、具体的すぎる利益配分の数字。
保守的だったギルド長たちは、蛇に睨まれた蛙のように、あるいは神託を授かった信者のように、次々と契約書にサインをしていった。
アイリスは、彼らが去った後の会議室で、冷めた紅茶を一口飲んだ。
喉を通る苦味が、彼女の神経をさらに鋭敏に研ぎ澄ます。
(……これで、国内の足場は固まりました。……あとは、カイル殿下がいつ、自国の不渡りに気づくか。……そして、気づいた後に、どのような『野蛮な手段』に出てくるか……)
彼女は、デスクの引き出しから、カイルがかつて贈ってきた「銀のチェス駒」を取り出した。
美しい装飾が施されたナイトの駒。
「……駒を進めるのは、私ですわ、殿下」
アイリスは無造作にその駒を盤上から弾き飛ばした。
それは、アステリア王国という小さな国が、巨大な帝国を「丸ごと買い取る」という、前代未聞のジャイアントキリングへの宣戦布告だった。
だが、アイリスはまだ知らなかった。
自分のこの行動が、カイル皇太子の中にある「歪んだ愛情」をさらに加熱させ、彼を「経済」というルールを逸脱した、狂気の武力行使へと駆り立てる引き金になることを。
その第一段階である「経済的王手」が、今、静かに指された。




