19話 迫り来る「帝国」の影
アステリア王国の王都に、奇妙な静寂が訪れていた。
前日のリリアによる暴動と、アイリスによる電撃的な「新通貨ネオ・アステル」の発行宣言。民衆はまだ、自分の財布の中にある旧貨幣が、明日には紙屑になるかもしれないという恐怖と、アイリスが提示した「魔導技術担保」という未知の希望の間で揺れ動いていた。
その混乱の最中、王都の高級宿舎の一室。
ディードリッヒ帝国から「親善商談員」という名目で送り込まれた一人の青年が、窓の外を眺めながら不敵に笑っていた。
「……面白い。実物資産を飛び越えて、未来の技術(期待値)を通貨の裏付けにするとは。アステリアの女宰相、君は中世の殻を破り、一気に『信用創造』の領域に踏み込んだわけだ」
青年の名は、ルキウス。
カイル皇太子がその知略を認め、帝国の金融部門を若くして任せた「黄金の相場師」である。彼の前には、帝国製の最新演算魔導具が置かれ、そこにはアステリア国内の物価、物流、そして通貨の流通速度が刻一刻とデータとして刻まれていた。
「だが、信用というのは脆いものだ。……アイリス、君が積み上げたその精巧な積木細工、どこまで耐えられるかな?」
ルキウスは手元の端末を叩き、帝国本国へ向けて一つの命令を飛ばした。
――「アステリア国内の全穀物商に対し、新通貨での決済を拒否させろ。支払いはすべて、帝国金貨のみで行わせる。……兵糧攻めだ」
数時間後。宰相府のアイリスの執務室は、怒号と悲鳴に近い報告で溢れかえっていた。
「補佐官閣下! 大変です! 王都の主要な穀物問屋が、一斉に『新通貨は受け取れない』と言い出しました! 彼らは帝国の商人と結託し、帝国金貨での支払いを要求しています!」
「……なるほど。通貨の『通用力』を直接叩きに来ましたわね」
アイリスは、山積みの報告書から目を離さず、羽ペンを走らせる速度を一切落とさなかった。
隣で剣の柄を握りしめ、今にも問屋へ殴り込みに行かんばかりのゼノスが、歯噛みしながらアイリスを見た。
「アイリス! 何か手はねぇのか! このままじゃ、新通貨は発行初日でゴミ同然だぞ! 民衆が飢えれば、またリリアの時みたいに暴動が起きる!」
「……ゼノス、落ち着きなさい。……計算外ではありませんわ。……敵が『金』で殴ってくるなら、こちらは『仕組み(プラットフォーム)』で殴り返すだけです」
アイリスは、ペンを置き、眼鏡をゆっくりと外した。その瞳には、徹夜の疲労など微塵も感じさせない、冷徹で鋭い知性が宿っている。
「……ゼノス。……我が国の国庫に眠っている、あの『廃棄予定の魔導触媒』をすべて運び出しなさい。……それと、王都中の酒場と宿屋に、一つの布告を出しますわ」
「……廃棄物? そんなもん、どうするんだよ」
「……『ポイント還元』ですわ」
アイリスが仕掛けた反撃は、ルキウスの予想を遥かに超える斜め上のものだった。
彼女は、新通貨「ネオ・アステル」で決済を行った者に対し、本来は高価な魔導石の再利用品である「魔導触媒」を無償で提供すると発表した。この触媒は、家庭用の魔導コンロや照明の燃費を劇的に向上させる。
つまり、新通貨を使うことは、単なる買い物ではなく「生活コストの恒久的な引き下げ」に直結するという付加価値を与えたのだ。
「……商人が受け取らないなら、消費者が商人を教育すればよろしいのです。……新通貨を使わない店には客が行かなくなる。……この『利己的な選択』こそが、市場を動かす最大の原動力ですわ」
アイリスの狙いは的中した。
生活に直結する魔導触媒の魅力に、民衆は飛びついた。
帝国金貨しか受け取らない頑固な問屋の前からは客が消え、新通貨を導入した若手の商店には長蛇の列ができた。
さらにアイリスは、追い打ちをかけるように、帝国の商人たちが買い占めていた穀物の「保管場所」を特定。
「……ゼノス。……あそこの倉庫、消防法違反で差し押さえなさい。……延焼の危険がある場所に、これほど大量の可燃物(小麦粉)を放置するのは重罪ですわ」
「……っ、ハハッ! 了解だ、アイリス! 法律を武器に戦うってのは、こういうことかよ!」
ゼノス率いる騎士団が、合法的に倉庫を接収し、没収された穀物はそのまま「新通貨限定」の公設市場で安価に放出された。
ルキウスが仕掛けた経済封鎖は、アイリスの「超法規的な事務処理」によって、わずか一日で瓦解した。
その日の深夜。
敗北を認めるしかないルキウスは、カイル皇太子からの通信魔導具に向かって、苦々しく報告していた。
「……申し訳ありません、カイル殿下。……アステリアの女宰相は、経済の理論ではなく、人々の『欲望の導線』を完璧に制御しています。……もはや、一介の相場師が勝てる相手ではありません」
『……くっ、くくく……。それでいい。それでこそ、私が認めた女性だ』
通信の向こう側で、カイルの狂おしいような笑い声が響く。
『……ルキウス。……君はそのまま滞在を続けろ。……彼女が、我が帝国の貨幣価値をどこまで追い詰めるか、その特等席で見届けるんだ。……私は、もう我慢ができそうにない』
カイルは、手元のワイングラスを握り潰し、赤い液体が指を伝うのを眺めながら、独り言ちた。
『……アイリス。……君が国を豊かにすればするほど、君を奪った時の喜びは大きくなる。……君が作ったその完璧な王国という宝石を、私という台座にはめ込んであげるよ。……例え、そのために大陸の半分を焼き払うことになってもね』
一方、アイリスは。
執務室で一人、冷めたコーヒーを飲みながら、カイルからの宣戦布告とも取れる「帝国金貨の大暴落」のグラフを眺めていた。
「……さて。……カイル殿下。……あなたの愛がどれほど重くても、私の計算機を狂わせることはできませんわ」
彼女は、カイルがかつて贈ってきた銀のチェス駒を、無造作にゴミ箱へと放り込もうとして――。
一瞬、躊躇ってから、それを引き出しの奥に隠した。
「……非効率な感傷ですわね。……次は、帝国の『国債』そのものを買い叩かせていただきますわ」
アイリス・フォン・ベルシュタイン。
彼女の戦いは、ついに「アステリア王国の防衛」から、「ディードリッヒ帝国の経済的買収(M&A)」へと、その攻撃的な牙を剥き始めた。
氷の女宰相の伝説は、ここから「大陸統一経済圏」の構築という、人神をも欺く領域へと突き進んでいく。




