15話 泥濘(でいねい)からの生還者
アステリア王国の最北端、一年を通じて太陽の光が厚い雲に遮られる「ヴォルガ大鉱山」。
そこは、王都の華やかな夜会や、アイリスが磨き上げている整然とした事務室とは対極にある、絶望が結晶化したような場所だった。
地表から数百メートル。湿った土と、混じり気のある魔導石の塵が肺を焼く地下坑道で、一人の女が泥にまみれて這いつくばっていた。
「……はぁ、はぁ……っ。なんで、私が……こんなところで……」
リリア・カステロ。
かつて「聖女」と崇められ、第一王子エリオットの腕の中で甘えていた彼女の姿は、今や見る影もなかった。
かつて桃色に輝いていた自慢の髪は、栄養失調と不衛生な環境でボロ雑巾のように汚れ、鼠色に変色している。陶器のようだと讃えられた肌は、岩肌に擦れて無数の傷跡が刻まれ、その爪は、硬い岩を素手で掘り続けたせいで、すべて剥がれかけていた。
彼女がここに送られたのは、アイリスによる「厳格な法執行」の結果だった。
公金横領の片棒を担ぎ、国を揺るがす冤罪を仕掛けた罪。アイリスは彼女に対し、死刑という「慈悲」すら与えなかった。
『死ぬまで働いて、あなたが浪費した国民の血税を、その一滴まで返済なさい』
判決の際、アイリスが冷徹に告げたその言葉が、今もリリアの耳の奥で呪いのように響いている。
「あいつ……あの、眼鏡の女狐……! 私がどれだけ苦しんでいるか、分かってるの!? 私は、愛されるために生まれてきたのよ! こんな泥を掘るために生きてるんじゃないわ!」
リリアは、手にした古びたツルハシを岩壁に叩きつけた。火花が散り、彼女の手に衝撃が走る。
彼女には、生まれつきの特殊な才能があった。それは、自分の声を聴かせた相手に、無意識の好意を抱かせる「魅了」の魔力だ。かつては、この力を使ってエリオットを、そして学園の男子生徒たちを意のままに操ってきた。
だが、この鉱山の監視員たちは、アイリスが特別に配備した「感覚遮断」の魔導具を装着している。リリアがどれほど甘い声で命乞いをしても、彼らは無機質な石像のように、ただ彼女に重労働を強いるだけだった。
「……リリア様。……随分と、お疲れのようですね」
突然、背後から声をかけられた。
リリアはビクリと肩を揺らし、泥だらけの顔を上げた。
暗闇の中から現れたのは、鉱山の囚人服ではなく、上質な漆黒の法衣を纏った一人の男だった。
「だ、誰……? 監視員じゃないわね……」
「私は、かつてこの国で光を広めていた教団の司祭……いえ、今はただの『忘れ去られた者』です。……アイリス・フォン・ベルシュタインという不信心な女によって、職を追われ、神の教えを否定された被害者ですよ」
男は、這いつくばるリリアの前に跪き、汚れた彼女の頬を優しく撫でた。
その指先からは、リリアがかつて愛用していた「魔導触媒」と同じ、微かな甘い香りが漂った。
「リリア様。……我々は知っています。貴女こそが、この国の真の聖女であることを。……アイリスは、数字と効率という冷たい鎖で、民の心を縛り付けている。……今、王都では、彼女の強引な改革に疲れ果てた人々が、救いを求めて泣いていますよ」
「……救いを? 私に?」
リリアの濁った瞳に、かつての虚栄心が火を灯した。
「ええ。……貴女が、あの女を倒すのです。……貴女のその『愛される力』を使えば、民衆は再び貴女を救世主として迎えるでしょう。……そのための準備は、すべて整っております」
男は、懐から小さな、だが強大な魔力を秘めた紫色の魔石を取り出した。
「これは、帝国の技術で作られた『増幅器』です。……これを使えば、貴女の魔力は王都全域に届くでしょう。……人々を熱狂させ、アイリスを『魔女』として断罪する。……その快感を、もう一度味わいたくはありませんか?」
リリアは、震える手でその魔石を掴んだ。
冷たい石の感触が、彼女の脳内に、自分を冷遇した者たちへの凄まじい復讐心を呼び起こす。
「……あは……。あはははは! そうよ、そうに決まってるわ! 私がいないから、みんな不幸なのよ! アイリス……! あんたのその冷たい眼鏡を、私の前で絶望に濡らしてやるわ!」
リリアの狂った笑い声が、狭い坑道に反響した。
彼女を唆した男――帝国の息がかかった保守派の残党は、闇の中で冷酷な笑みを浮かべた。
(……そうだ、踊れ。哀れな偽聖女よ。……お前が王都を混乱させればさせるほど、帝国の『経済的侵攻』は容易くなる。……アイリス・フォン・ベルシュタイン。……君がどれほど完璧な防壁を築こうとも、内側から崩れる民衆の心までは計算できないだろう?)
数日後。
ヴォルガ大鉱山の名簿から、一人の女の名前が消えた。
脱走。あるいは、事故死。
報告を受けたアイリスは、執務室で僅かに眉を動かしたが、すぐに次の予算書類へと視線を戻した。
「……非効率な攪乱を。……ゼノス、北方の監視体制に穴がありましたわね。事後の対応、速やかにお願いしますわ」
「……ああ、分かってる。……だがアイリス、あいつ(リリア)の執念は異常だ。……死んだと決めつけない方がいい」
「ええ。……もし現れるのであれば、その時は。……彼女が最も信じる『感情』という不確定要素を、完璧な絶望で上書きして差し上げますわ」
アイリスは、ペンを力強く走らせた。
泥濘から這い上がった偽りの聖女と。
王宮で国を支え続ける、鉄の女宰相。
アステリア王国の命運を懸けた、二人の女性の再戦の幕が、今、静かに、そして残酷に上がろうとしていた。




