13話 拉致未遂と騎士の咆哮
ディードリッヒ帝国の皇太子カイルが帰国の路に就く当日。王都の港へと続くメインストリートは、豪華な馬車を一目見ようとする群衆と、厳重な警備を敷く騎士たちで埋め尽くされていた。
アイリスは、カイルと同じ馬車に同乗していた。これは表向きには国賓に対する最高の敬意を示すための「送迎」だが、実態は馬車内という密室を利用した、最後にして最大の「外交交渉」の場であった。
「……では、カイル殿下。先ほどのチェスでの戦利品――貴国の北方要塞における不正蓄財の証拠を盾に、我が国への魔導石の輸出関税を、今後五年間、三〇パーセント引き下げる。……これで、調印をいただけますわね?」
アイリスは揺れる馬車の中でも、膝の上で淀みなく書類を整理していた。眼鏡の奥の瞳は、別れを惜しむ乙女のそれではなく、獲物の息の根を止める執行人の輝きを放っている。
「ははっ、完敗だよ、アイリス。君は私の国を救うための特効薬だと思っていたが、猛毒だったようだね。……だが、いいだろう。君にそれだけの価値があることを、改めて思い知らされたよ。……この契約書は、君への『求婚の贈り物』の頭金として受理しよう」
カイルは優雅に羽ペンを走らせ、サインを終えると、その手をアイリスの頬へと伸ばした。
指先が彼女の柔らかな肌に触れようとした、その瞬間――。
――ズ、ズゥゥゥン!!
鼓膜を突き破るような爆発音が轟き、馬車が激しく跳ね上がった。
「なっ……!?」
「殿下、伏せて!」
アイリスは瞬時にカイルの胸元を突き飛ばし、座席の下へ身を隠した。
直後、馬車の天井が紙細工のように吹き飛び、凄まじい衝撃波が室内を駆け抜ける。
馬車を襲ったのは、対物用の超大型魔導爆弾だった。
朦朧とする意識の中、アイリスが目を開けると、そこは火の海と化した大通りだった。逃げ惑う群衆。倒れ伏す馬。そして、瓦礫の向こうから、不気味な魔力の輝きを放つ武装集団が現れる。
「……アイリス・フォン・ベルシュタイン! 貴様さえいなければ、我らの利権は守られたのだ! 貴様を殺し、帝国の皇太子を拉致すれば、この国は再び我ら保守派のものとなる!」
現れたのは、アイリスによって地位を追われた汚職貴族たちが私費で雇った、禁忌の魔導師集団だった。彼らは、アイリスとカイルを同時に始末し、その責任を互いの国になすりつけることで、戦争を引き起こそうと画策していたのだ。
「……非効率な真似を。……私を殺したところで、一度動き出した改革の歯車は止まりませんわよ」
アイリスは瓦礫を支えに立ち上がろうとしたが、足に深い切り傷を負っており、力が入らない。
そこへ、カイルが素早く彼女を横抱きに抱え上げた。銀髪を乱し、その紫の瞳には、先ほどまでの余裕をかなぐり捨てた「狂気」が宿っている。
「……私の国宝に傷をつけたね、愚か者共。……アイリス、私に掴まって。このまま私の船へ運んであげよう。……君を守れるのは、アステリアのような弱小国家の騎士ではない。帝国の力だ」
「カイル殿下、何を……っ、降ろしてください!」
「いいや、降ろさない。……これは『正当な救出行為』だ。君は私の国で、誰よりも安全に、誰よりも高く、私に跪けばいいんだ」
カイルが転移魔法の詠唱を始めたその時。
空から、一つの「雷撃」が落ちた。
「――っ、その汚ぇ手を離せと言ってるだろうがぁ!! 銀髪野郎!!」
轟音。
カイルと暗殺者たちの間に、巨大な黒鋼の大剣が突き刺さった。
土煙を割り、現れたのは、全身から蒸気を発し、瞳を怒りに燃え上がらせたゼノスだった。彼は爆発の直後、馬車から数キロ離れた地点での撹乱を瞬時に見抜き、馬を殺す勢いでここまで駆け戻ってきたのだ。
「ゼノス……!」
「アイリス! 無事か!」
ゼノスは、カイルの腕の中にいるアイリスを確認すると、野獣のような咆哮を上げた。
「おい、帝国皇太子。恩を売るつもりか知らねぇが、そいつは俺が守るって決めたんだ。……他国の人間が、土足で俺の主に触れてんじゃねぇよ!」
「おやおや、遅かったじゃないか、番犬君。……君が間に合わなかったせいで、彼女は怪我を負った。……無能な護衛に、彼女を預けるわけにはいかないな」
カイルが冷ややかに言い放ち、魔力を練り上げる。
周囲を取り囲む暗殺者たちは、二人の英雄が放つ絶大なプレッシャーに、蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
「……うるせぇ。……アイリス、目をつぶってろ。……こいつらも、あの銀髪も、まとめてブチのめしてやる!」
ゼノスが大剣を構え、大地を蹴った。
一振り。ただの一振りで、周囲の建物が風圧で軋む。
暗殺者たちが放つ闇の魔弾を、彼は正面から肉体で受け止め、文字通り「粉砕」しながら突進する。
カイルもまた、片腕でアイリスを抱いたまま、もう片方の手で高位の雷撃魔法を無造作に放つ。
「邪魔だ、消えろ」
カイルの放つ紫電が、暗殺者たちの陣形を内側から焼き尽くす。
アイリスは、自分を奪い合う二人の男たちの腕の中で、揺れていた。
一人は、圧倒的な暴力で世界を薙ぎ払う守護者。
一人は、神の如き冷徹さで運命を支配しようとする支配者。
爆炎と閃光が入り乱れる中、アイリスの思考回路は、極限状態で一つの結論を弾き出していた。
(……ああ。……なんて、非効率な愛し方なのかしら)
彼女は、カイルの胸元に手をかけ、魔法の詠唱を妨害するようにその腕を強く握った。
「カイル殿下、降ろしてください。……ゼノス、無茶な突撃はやめなさい。……二人とも、私の計算に従えば、被害は最小限で済みますわ!」
アイリスの声が、戦場に響き渡る。
二人の男は、同時に動きを止めた。
怪我を負い、泥に汚れながらも、アイリスの瞳はかつてないほど鋭く、支配的な輝きを放っていた。彼女はカイルの腕から、あえてゼノスが差し出した左手へと飛び移り、彼の肩を支えにして立った。
「……暗殺者の親玉は、あの時計台の三階ですわ。カイル殿下、あなたの広域雷撃で、建物を壊さずに中身だけ焼きなさい。ゼノス、あなたは私の正面を守りなさい。……一秒でも遅れたら、予算をさらに一割削りますわよ?」
その言葉に、カイルは苦笑し、ゼノスは顔を引き攣らせた。
「……ははっ、本当に君という女性は。……分かったよ、閣下」
「……チッ。給与の話を出すんじゃねぇよ! 守りゃいいんだろ、守りゃ!」
氷の女宰相の采配。
大陸最強の皇太子と、王国最強の騎士が、彼女の一言で「駒」へと変わる。
暗殺者たちは、その後の三分間で、この世の地獄を見ることになった。
一人は逃げ場を奪われ、一人は灰すら残さず消え去った。
事件は解決した。……だが、アイリスを巡る真の戦争は、ここから本格的な火蓋を切ることになる。




