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断罪?どうぞご自由に。――婚約破棄を完璧に受理して国庫を整理したら、国王陛下に泣きつかれて次期宰相に指名されました。  作者: 折若ちい
第3章 隣国の皇太子と、甘い外交交渉

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12話 深夜のチェス・ゲーム

晩餐会の喧騒が遠い過去のように感じられるほど、深夜の宰相府は静まり返っていた。

 アイリスは、磨き上げられた黒檀の執務机に向かい、カイル皇太子から突きつけられた「帝国の国家予算概略」の写しを精査していた。彼が去り際に手渡してきたそれは、親愛の証などではなく、アイリスという知性への「挑戦状」だった。


「……やはり。北方の要塞建築、石材の輸送ルートが不自然に迂回しているわね。これ、運送ギルドと現地の提督が結託して、輸送費を水増し請求している証拠ですわ。……非効率極まりない」


アイリスが疲れた目をこすり、銀縁の眼鏡を直したその時。

 音もなく、執務室の重厚な扉が開かれた。


「……夜分に失礼。アステリアの『眠らぬ宝石』は、今夜も輝き続けているようだね」


現れたのは、宿舎で休んでいるはずのカイル皇太子だった。

 彼は礼装を崩し、シャツのボタンをいくつか外した、ひどく無防備で、それでいて毒々しいほどに色気のある姿で立っていた。その手には、精巧な細工が施された象牙のチェス盤が抱えられている。


「カイル殿下……。警備はどうしたのですか? ゼノスが黙って通すとは思えませんが」


「ああ、あの勇猛な騎士団長殿なら、私の従者たちが『裏庭で不審な魔力の反応があった』と、少しばかり遠回りをさせているところだよ。……彼が戻るまで、十五分といったところかな」


カイルは悪戯っぽく微笑み、断りもなくアイリスの向かいの椅子に腰を下ろした。

 机の上に、パサリとチェス盤が広げられる。


「一局打とう、アイリス。……書類の中の数字と格闘するのもいいが、たまには生身の人間と知恵を競うのも悪くないだろう?」


「……お断りしますわ。私は今、貴国の放漫財政をいかに立て直すかという、非常に難解なパズルを解いている最中ですの。……チェスなどという遊びに割く時間は一秒もございません」


「冷たいね。……では、賭けをしよう」


カイルは紫の瞳に、獲物を追い詰める猟師のような光を宿した。


「私が勝ったら、明日の公式行事の後、私と二人で王都をデートしてほしい。……君が勝ったら、私が今持っている『北方要塞の裏帳簿、本物・・』を君に譲ろう。これがあれば、君は私の国の汚職を一掃し、外交カードとして私を意のままに操れる。……どうだい?」


アイリスの手が止まった。

 あまりにも破格、かつ危険な賭けだ。カイルは、自国の弱点を晒してまで、アイリスとの「時間」を欲している。


「……乗りましたわ。……その傲慢なキングを、三〇手以内に詰ませて差し上げます」


アイリスが駒を並べる。

 深夜、月明かりだけが差し込む執務室で、大陸最高峰の知性が火花を散らした。


カイルの指し筋は、華やかで、かつ残酷だった。

 自らの駒を大胆に犠牲にし、アイリスの思考の死角を突いてくる。それは、彼の外交術そのものだった。

 対するアイリスは、鉄壁の防御を敷きながら、じわじわとカイルの包囲網を狭めていく。一ミリの無駄もない、完璧な布陣。


「……アイリス。君は、なぜこれほどまでに完璧であろうとするんだい?」


カイルがナイトを動かしながら、ふと、柔らかな声で問いかけた。


「君は、誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、一人でこの国の泥をすすっている。……エリオットのような無能ならいざ知らず、君ほどの女性なら、もっと楽に生きる道はいくらでもあるはずだ」


「……楽な道など、退屈なだけですわ。……私は、自分の手で世界を『最適化』するのが好きなのです。……それ以外の感情は、ノイズに過ぎません」


「ノイズ、か。……君はそうやって、自分の心まで数字に変換して封じ込めているんだね」


カイルが、盤上のクイーンをアイリスのキングの目の前に突き出した。


「だが、君は孤独だ。……私の国へ来れば、君のその孤独を分かち合える者がいる。……私だ。君の冷徹さを愛し、君の知略を称え、君の隣で同じ景色を見られるのは、世界で私一人だけだと思わないかい?」


カイルの指が、駒を動かしたついでに、アイリスの指先に触れた。

 熱い。

 ゼノスの無骨な熱さとは違う、滑らかで、逃げ場を奪うような、ねっとりとした熱。


アイリスは、心拍数が一段階上がるのを感じた。

 初めて、論理では制御できない「揺らぎ」が、彼女の脳内回路を駆け巡る。


「……チェックメイトですわ、殿下」


アイリスは、震えそうになる指先で、カイルのキングを弾き飛ばした。

 二九手目。約束通りの勝利。


「……参ったな。完敗だよ、アイリス」


カイルは、倒れたキングを愛おしそうに見つめ、それからアイリスに、降伏の印として懐から黒い手帳を取り出した。


「約束の裏帳簿だ。……君に、私の国の命運を預けるよ。……だが、忘れないでほしい。……君が私を追い詰めれば追い詰めるほど、私は君が欲しくて堪らなくなる。……次は、チェス盤の上ではなく、君の寝室で話をしようか」


「……っ、不敬ですわよ!」


アイリスが顔を赤らめて立ち上がろうとした瞬間――。


「――そこまでだ、銀髪野郎!」


バァン! と、扉が再び勢いよく蹴破られた。

 そこには、肩で息をし、全身から凄まじい殺気を放つゼノスが立っていた。その瞳は、文字通り血走っている。


「ゼノス……! お戻りでしたのね」


「戻ったどころじゃねぇ! 裏庭にいたのは帝国製の魔導人形だったぞ! 貴様、アイリスを誘惑するために小細工を使いやがったな!」


ゼノスが大剣を抜き放ち、カイルの喉元に突きつける。

 カイルは、優雅に立ち上がり、乱れたシャツを直しながら微笑んだ。


「おや、番犬の戻りが予想以上に早かったね。……アイリス、また明日。……夢の中で、私のチェックメイトを考えておいてくれ」


カイルは、ゼノスの剣先を指で軽く退けると、軽やかな足取りで部屋を去っていった。


「待ちやがれ! 逃がすか!」


「……待ちなさい、ゼノス。……彼は客分ですわ。……それよりも、見て。……これ、帝国の『本物の』裏帳簿よ。……これがあれば、次の通商条約、我が国に圧倒的な有利な条件を飲ませられますわ」


アイリスが手帳を掲げて見せると、ゼノスは毒気を抜かれたように立ち止まった。

 だが、彼はすぐにアイリスに駆け寄り、彼女の両肩をがっしりと掴んだ。


「……帳簿なんてどうでもいい! 貴様、あいつに何かされたのか!? 唇は無事か!? 指を触られたか!?」


「なっ……ななな、何を仰るの! 私はただ、国益のために……!」


「顔が赤いぞ! くそっ、あの野郎……次に会ったら絶対にタダじゃおかねぇ……!」


ゼノスは、アイリスの肩を抱き寄せ、彼女を隠すように背を向けた。

 

 アイリスは、ゼノスの胸板の厚さと、そこから伝わる激しい鼓動を感じながら、先ほどのカイルの甘い声を思い出していた。

 

 「孤独を分かち合う」

 

 彼女の完璧な計算式に、未知の変数が次々と書き込まれていく。

 氷の女宰相を巡る、帝国の皇太子と王国の守護騎士。

 その火花は、もはや外交という名の枠組みを越え、彼女の心を激しく焦がし始めていた。

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