12話 深夜のチェス・ゲーム
晩餐会の喧騒が遠い過去のように感じられるほど、深夜の宰相府は静まり返っていた。
アイリスは、磨き上げられた黒檀の執務机に向かい、カイル皇太子から突きつけられた「帝国の国家予算概略」の写しを精査していた。彼が去り際に手渡してきたそれは、親愛の証などではなく、アイリスという知性への「挑戦状」だった。
「……やはり。北方の要塞建築、石材の輸送ルートが不自然に迂回しているわね。これ、運送ギルドと現地の提督が結託して、輸送費を水増し請求している証拠ですわ。……非効率極まりない」
アイリスが疲れた目をこすり、銀縁の眼鏡を直したその時。
音もなく、執務室の重厚な扉が開かれた。
「……夜分に失礼。アステリアの『眠らぬ宝石』は、今夜も輝き続けているようだね」
現れたのは、宿舎で休んでいるはずのカイル皇太子だった。
彼は礼装を崩し、シャツのボタンをいくつか外した、ひどく無防備で、それでいて毒々しいほどに色気のある姿で立っていた。その手には、精巧な細工が施された象牙のチェス盤が抱えられている。
「カイル殿下……。警備はどうしたのですか? ゼノスが黙って通すとは思えませんが」
「ああ、あの勇猛な騎士団長殿なら、私の従者たちが『裏庭で不審な魔力の反応があった』と、少しばかり遠回りをさせているところだよ。……彼が戻るまで、十五分といったところかな」
カイルは悪戯っぽく微笑み、断りもなくアイリスの向かいの椅子に腰を下ろした。
机の上に、パサリとチェス盤が広げられる。
「一局打とう、アイリス。……書類の中の数字と格闘するのもいいが、たまには生身の人間と知恵を競うのも悪くないだろう?」
「……お断りしますわ。私は今、貴国の放漫財政をいかに立て直すかという、非常に難解なパズルを解いている最中ですの。……チェスなどという遊びに割く時間は一秒もございません」
「冷たいね。……では、賭けをしよう」
カイルは紫の瞳に、獲物を追い詰める猟師のような光を宿した。
「私が勝ったら、明日の公式行事の後、私と二人で王都をデートしてほしい。……君が勝ったら、私が今持っている『北方要塞の裏帳簿、本物』を君に譲ろう。これがあれば、君は私の国の汚職を一掃し、外交カードとして私を意のままに操れる。……どうだい?」
アイリスの手が止まった。
あまりにも破格、かつ危険な賭けだ。カイルは、自国の弱点を晒してまで、アイリスとの「時間」を欲している。
「……乗りましたわ。……その傲慢なキングを、三〇手以内に詰ませて差し上げます」
アイリスが駒を並べる。
深夜、月明かりだけが差し込む執務室で、大陸最高峰の知性が火花を散らした。
カイルの指し筋は、華やかで、かつ残酷だった。
自らの駒を大胆に犠牲にし、アイリスの思考の死角を突いてくる。それは、彼の外交術そのものだった。
対するアイリスは、鉄壁の防御を敷きながら、じわじわとカイルの包囲網を狭めていく。一ミリの無駄もない、完璧な布陣。
「……アイリス。君は、なぜこれほどまでに完璧であろうとするんだい?」
カイルがナイトを動かしながら、ふと、柔らかな声で問いかけた。
「君は、誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、一人でこの国の泥を啜っている。……エリオットのような無能ならいざ知らず、君ほどの女性なら、もっと楽に生きる道はいくらでもあるはずだ」
「……楽な道など、退屈なだけですわ。……私は、自分の手で世界を『最適化』するのが好きなのです。……それ以外の感情は、ノイズに過ぎません」
「ノイズ、か。……君はそうやって、自分の心まで数字に変換して封じ込めているんだね」
カイルが、盤上のクイーンをアイリスのキングの目の前に突き出した。
「だが、君は孤独だ。……私の国へ来れば、君のその孤独を分かち合える者がいる。……私だ。君の冷徹さを愛し、君の知略を称え、君の隣で同じ景色を見られるのは、世界で私一人だけだと思わないかい?」
カイルの指が、駒を動かしたついでに、アイリスの指先に触れた。
熱い。
ゼノスの無骨な熱さとは違う、滑らかで、逃げ場を奪うような、ねっとりとした熱。
アイリスは、心拍数が一段階上がるのを感じた。
初めて、論理では制御できない「揺らぎ」が、彼女の脳内回路を駆け巡る。
「……チェックメイトですわ、殿下」
アイリスは、震えそうになる指先で、カイルのキングを弾き飛ばした。
二九手目。約束通りの勝利。
「……参ったな。完敗だよ、アイリス」
カイルは、倒れたキングを愛おしそうに見つめ、それからアイリスに、降伏の印として懐から黒い手帳を取り出した。
「約束の裏帳簿だ。……君に、私の国の命運を預けるよ。……だが、忘れないでほしい。……君が私を追い詰めれば追い詰めるほど、私は君が欲しくて堪らなくなる。……次は、チェス盤の上ではなく、君の寝室で話をしようか」
「……っ、不敬ですわよ!」
アイリスが顔を赤らめて立ち上がろうとした瞬間――。
「――そこまでだ、銀髪野郎!」
バァン! と、扉が再び勢いよく蹴破られた。
そこには、肩で息をし、全身から凄まじい殺気を放つゼノスが立っていた。その瞳は、文字通り血走っている。
「ゼノス……! お戻りでしたのね」
「戻ったどころじゃねぇ! 裏庭にいたのは帝国製の魔導人形だったぞ! 貴様、アイリスを誘惑するために小細工を使いやがったな!」
ゼノスが大剣を抜き放ち、カイルの喉元に突きつける。
カイルは、優雅に立ち上がり、乱れたシャツを直しながら微笑んだ。
「おや、番犬の戻りが予想以上に早かったね。……アイリス、また明日。……夢の中で、私のチェックメイトを考えておいてくれ」
カイルは、ゼノスの剣先を指で軽く退けると、軽やかな足取りで部屋を去っていった。
「待ちやがれ! 逃がすか!」
「……待ちなさい、ゼノス。……彼は客分ですわ。……それよりも、見て。……これ、帝国の『本物の』裏帳簿よ。……これがあれば、次の通商条約、我が国に圧倒的な有利な条件を飲ませられますわ」
アイリスが手帳を掲げて見せると、ゼノスは毒気を抜かれたように立ち止まった。
だが、彼はすぐにアイリスに駆け寄り、彼女の両肩をがっしりと掴んだ。
「……帳簿なんてどうでもいい! 貴様、あいつに何かされたのか!? 唇は無事か!? 指を触られたか!?」
「なっ……ななな、何を仰るの! 私はただ、国益のために……!」
「顔が赤いぞ! くそっ、あの野郎……次に会ったら絶対にタダじゃおかねぇ……!」
ゼノスは、アイリスの肩を抱き寄せ、彼女を隠すように背を向けた。
アイリスは、ゼノスの胸板の厚さと、そこから伝わる激しい鼓動を感じながら、先ほどのカイルの甘い声を思い出していた。
「孤独を分かち合う」
彼女の完璧な計算式に、未知の変数が次々と書き込まれていく。
氷の女宰相を巡る、帝国の皇太子と王国の守護騎士。
その火花は、もはや外交という名の枠組みを越え、彼女の心を激しく焦がし始めていた。




