11話 毒入りの晩餐会
アステリア王宮の「黄金の間」は、その名の通り、壁一面に施された金箔と、天井から滴り落ちるようなクリスタルのシャンデリアが放つ光で埋め尽くされていた。
今夜は、ディードリッヒ帝国のカイル皇太子を歓迎するための公式晩餐会。テーブルには、王室御用達の銀食器が並び、最高級のヴィンテージワインが注がれている。
だが、その華やかさとは裏腹に、会場に流れる空気は針を刺すような緊張感に満ちていた。
「……アイリス。君のために、私の領地で採れた最高の白トリュフを持参したよ。アステリアの野趣溢れる料理もいいが、たまには帝国の洗練された味を思い出してほしくてね」
カイル皇太子は、当然のようにアイリスの隣席を確保し、極上の笑みを浮かべて彼女の皿にトリュフを添えた。
彼の所作一つひとつには、大陸最強国の主権者としての余裕と、一人の男としての傲慢なまでの自信が溢れている。
「恐縮ですわ、カイル殿下。……ですが、洗練された味というのは、往々にしてコストパフォーマンスが悪いものですわ。このトリュフ一粒の価格で、我が国の騎士団の馬蹄がどれだけ新調できるか……計算するだけで、喉を通りませんわね」
アイリスは、カイルが差し出した「誘惑」を、事務的なナイフで一刀両断にした。
彼女は、完璧なマナーで食事を進めながらも、その瞳は一切の揺らぎを見せない。彼女にとって、この晩餐会は交流の場ではなく、隣国の内情を探るための「聴取の場」に過ぎなかった。
「ははっ、相変わらずだね。君は美しすぎる計算機だ。……だが、アイリス。君は気づいていないのかい? この国アステリアは、すでに腐りきっている。君一人がどれほど帳簿を清めたところで、根幹の木材がシロアリに食われていては、いずれ倒壊する」
カイルはワイングラスを揺らし、その紫の瞳を細めた。
「君の才能は、この小国には荷が重すぎる。……どうだろう、アイリス。ディードリッヒ帝国へ来ないか。私の『国母』として君を迎えたい。君が望むなら、帝国の国庫の鍵をすべて君に預けよう。……君が愛する『効率的な統治』を、大陸全土で実現させてあげるよ」
それは、プロポーズの皮を被った、国家規模の引き抜き宣言だった。
会場にいたアステリア王国の重臣たちが、一斉に顔を青くして固まる。
「……っ、ふざけるな! 銀髪野郎!」
アイリスの背後に、影のように控えていたゼノスが、思わず一歩前に出た。
彼は礼装を身に纏っているものの、その下にある肉体は怒りで膨れ上がり、周囲に物理的な威圧感を撒き散らしている。
「殿下、こいつは俺たちの……アステリアの至宝だ! 帝国の都合で連れ去られてたまるか! これ以上無礼を働くなら、親善大使だろうがなんだろうが、俺がこの場で叩き出すぞ!」
ゼノスの咆哮に、カイルは退屈そうに視線を向けた。
「おや、番犬が吠えているね。……アイリス、君の趣味には驚かされるよ。あんな野蛮な男を隣に置いて、計算が狂わないのかい?」
「……ゼノス。下がっていなさい。……陛下も見ていらっしゃいますわ」
アイリスは静かにゼノスを制したが、その声には微かな温かみが混じっていた。
彼女は再びカイルに向き直り、扇をゆっくりと開いて口元を隠した。
「カイル殿下。……帝国の国庫を任せていただけるというお申し出、非常に魅力的ですわね。……ですが、私は『投資家』でもありますの。……現状、ディードリッヒ帝国は周辺諸国との軍拡競争により、債務が膨れ上がっていますわね? 特に、北方の要塞建築費用。あれ、見積もりの三倍に膨らんでいませんこと?」
「……っ。なぜそれを君が知っているんだい?」
カイルの余裕の笑みが、一瞬だけ消えた。
「数字は嘘をつきませんわ。貴国の貿易統計と、石材の流通量を照らし合わせれば、自ずと答えは出てまいります。……殿下。私を『国母』として迎えたいのであれば、まずはそのずさんな予算編成を正してからになさることね。……破綻寸前の巨大帝国を立て直すより、この小国を理想の国家に磨き上げる方が、今の私には『効率的』な挑戦ですわ」
アイリスの完璧なカウンターに、カイルは言葉を失った。
彼は、アイリスを「美しい、手に入れるべき駒」だと考えていた。だが、彼女はすでに、彼の一国を飲み込めるほどの「知略」を、ドレスの下に隠し持っていたのだ。
「……面白い。……本当に、君は底が知れないな、アイリス」
カイルは、敗北を認めるどころか、その瞳にさらに深い征服欲の炎を灯した。
彼はアイリスの指先をそっと掬い上げ、今度は手の甲ではなく、指先に軽く唇を寄せた。
「……毒入りの料理は嫌いだが、君の毒なら、喜んで飲み干すとしよう。……明日の朝、君の執務室を訪ねるよ。……今度は、貿易の話ではない、もっと『プライベート』な提案を持ってね」
「……お待ちしておりますわ。……ただし、私の時給は高いですから、覚悟しておいてくださいませ」
アイリスは不敵に微笑み返し、ゼノスが差し出した手を借りて席を立った。
ゼノスは、カイルの手が触れたアイリスの指先を、自分のハンカチで乱暴に、だが大切に拭き取りながら、小声で毒づいた。
「おい、アイリス。あんな奴の話、まともに聞くんじゃないぞ。あいつの目は、獲物を狙う蛇そのもんだ」
「……分かっていますわ。……ですがゼノス。蛇の牙を抜いて、薬にするのも私の仕事ですの。……さて、明日の会議の準備をしましょうか。……今夜も、寝かせませんわよ?」
「……ああ、分かってるよ。最後まで付き合ってやる」
アイリスの背中を追う、二つの強烈な意志。
忠実な守護騎士と、狡猾な隣国の皇太子。
彼女を巡る「三竦み」のバランスは、今夜の毒入り晩餐会を経て、より複雑に、より熱く、加速し始めた。
アステリア王宮の夜は、まだ始まったばかりだ。




