10話 銀髪の来訪者
アステリア王国の王都港に、見たこともないほど巨大で優美な白銀の魔導帆船が停泊した。
船体に刻まれているのは、軍事・魔法共に大陸随一の国力を誇る「ディードリッヒ帝国」の双頭鷲の紋章。そこから降り立ってきたのは、太陽の光を反射して発光しているかのような、美しい銀髪の青年だった。
「ようこそ、アステリア王国へ。カイル・ヴァン・ディードリッヒ皇太子殿下。……アステリア国王の名において、心より歓迎いたしますわ」
港に設けられた歓迎の赤絨毯の先で、アイリスは完璧なカーテシーを披露した。
今日の彼女は、宰相補佐官としての正装――金糸の刺繍が施された漆黒のコートドレス。眼鏡を外し、公爵令嬢としての気品と、一国の政を担う者の威厳を同居させている。
カイル皇太子は、エスコートの騎士たちを下がらせると、ゆっくりとアイリスの前まで歩み寄った。
彫刻のように整った顔立ち。アメジストのような紫の瞳が、獲物を定めるようにアイリスを捉える。
「……会いたかったよ、アイリス・フォン・ベルシュタイン。卒業式のあの素晴らしい『演説』以来、君のことが頭から離れなくてね」
「……? 殿下、私共がお会いしたのは今日が初めてかと存じますが。……もしや、卒業式の混乱をどこかでご覧になっていたのですか?」
アイリスが不審げに眉を寄せると、カイルは低く、官能的な笑い声を上げた。
彼は迷いなくアイリスの右手を手に取ると、手袋越しではなく、わざわざ手袋を外させたその白い甲に、深く、熱い口づけを落とした。
「ッ……!?」
周囲の文官たちが息を呑み、護衛として背後に控えていたゼノスの手が、反射的に大剣の柄にかかった。
「貴様……! 初対面の淑女に対して、無礼だろうが!」
ゼノスが怒鳴り声を上げようとしたが、カイルはそれを涼しい顔で受け流し、アイリスの手を離さないまま、至近距離で囁いた。
「君のような美しい薔薇が、泥舟のようなこの国で枯れていくのを見るのは、耐え難い悲劇だ。……どうだろう、アイリス。君が望むなら、今すぐ私の船に乗せてあげてもいい。君の才能に見合った、最高の地位と、私の隣の席を用意しよう」
衆人環視の中での、事実上の「引き抜き」宣言。
しかも、その瞳には外交官としての打算だけでなく、男としての確かな熱情が宿っている。
だが、アイリス・フォン・ベルシュタインという女は、そこらの令嬢とは「演算」の仕方が違っていた。
「……カイル殿下。大変光栄なお申し出ですが、その『最高の地位』の待遇について、詳しく伺ってもよろしいかしら?」
「おや、前向きだね。……もちろん、帝国財務省のトップ、あるいは私の個人顧問――」
「いいえ、そうではありませんわ。……我が国アステリアと貴国ディードリッヒの間には、現在、輸入品に対する一五パーセントの関税障壁がございます。……殿下のご提案は、私という『人的資源』の移動を条件に、この関税の撤廃、あるいは相互優遇措置を含むものと考えてよろしいでしょうか?」
アイリスが真顔で問い返すと、カイルは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
そして、腹を抱えて笑い出した。
「はっ……はははは! 関税!? 君は、この状況で愛の言葉ではなく、貿易協定の話をするのかい!?」
「効率的でしょう? 私という個人の身の振りを議論するより、国家間の利益を確定させる方が、生産的ですわ」
アイリスは、カイルに握られたままの手をスッと引き抜き、事務的な笑みを浮かべた。
彼女にとって、カイルの甘いマスクも情熱的な瞳も、現時点では「隣国からの挑発的な外交カード」に過ぎなかった。
「……ゼノス、そんなに殺気立たないでください。カイル殿下は、我が国との経済連携を強化したいと仰っているだけですわ。……さあ、殿下。王宮までご案内いたします。馬車の中で、先ほどの関税のシミュレーション結果をお見せしますわね」
「……チッ。アイリス、貴様、こいつの顔をよく見ろ。こいつは貿易のことなんて、これっぽっちも考えてねぇぞ」
ゼノスが忌々しげにカイルを睨みつけながら、アイリスの隣を死守するように歩き出す。
カイルは、アイリスの背中と、それを守る狂犬のような騎士を見比べ、愉快そうに唇を舐めた。
「……アステリアの王。君はとんでもない宝を、野に放つどころか、戦場(政界)に放り込んだようだね。……いいだろう、アイリス。君のその『冷徹な数字』ごと、私が愛してあげるよ」
銀髪を翻し、カイルは優雅な足取りでアイリスの後に続いた。
アイリス・フォン・ベルシュタイン。
彼女は気づいていなかった。
自分が提示した「関税撤廃」という言葉以上に、彼女自身の存在が、隣国の若き天才皇太子の征服欲に火をつけてしまったことに。
アステリア王宮を舞台にした、知略と情熱が入り乱れる「外交(恋の駆け引き)」の幕が、今、華やかに上がった。




