1話 嵐の前の静けさと、筒抜けの計画
鏡の中に映る自分は、どこからどう見ても「悲劇のヒロイン」だった。
パサついたように見えるよう敢えて艶を抑えた金髪。寝不足を装って薄く引いた目の下の隈。そして、不安に震える唇を演出するための淡い色のルージュ。
公爵令嬢アイリス・フォン・ベルシュタインは、満足げに口角を上げた。鏡の中の哀れな少女が、一瞬だけ獲物を狙う猛禽の顔を見せる。
「完璧ですわ。これなら、誰が見ても『婚約者の心変わりと嫌がらせに心身を削りながらも、健気に耐え忍ぶ婚約者』に見えますことよ」
独り言を呟き、アイリスは重厚なシルクのドレスの裾を整えた。
今日は、王立学園の卒業式。そして――私が、愛する(予定だった)婚約者、エリオット第一王子から、全校生徒の前で華々しく「断罪」される予定の日だ。
「お嬢様、お迎えの馬車が参りました。……その、本当によろしいのですか?」
控えていた侍女のアンが、沈痛な面持ちで問いかけてくる。彼女はアイリスが裏で進めている「準備」を唯一知る協力者だ。
「ええ。準備は万端。あの阿呆……失礼、エリオット殿下が用意した『偽造証拠』の数々、すべて私の手元にあるものとすり替えを終えているわね?」
「はい。殿下の側近たちが隠し持っていた、お嬢様を陥れるための偽の手紙や証拠品は、すべて『殿下自身の横領と不貞の証拠』に差し替えておきました。……誰一人、気付いておりません」
「ご苦労様。彼ら、詰めが甘いのよ。暗号も古典的だし、保管場所もあんなに分かりやすいなんて。次代の国を担うエリートたちがこれでは、この国の先行きが思いやられますわ」
アイリスは深い溜息をついた。
計画を知ったのは、ちょうど一週間前のことだ。
偶然、王宮の図書室の隠し通路――歴代の王族が密会に使っていた古臭い場所――で、エリオットと、最近話題の「聖女」リリアが睦み合っている現場に居合わせたのが始まりだった。
『リリア、あんな鉄面皮の女との婚約など、卒業式ですべて白紙に戻してやる。公衆の面前でアイリスの罪を暴き、国外追放を言い渡すつもりだ。そうすれば、君を正妃に迎える道が開ける』
『まあ、エリオット様……。でも、アイリス様は公爵令嬢ですわ。証拠もなしにそんなこと……』
『ふん、証拠など作ればいい。あいつが君を階段から突き落とした、教科書を破いた、暗殺者まで差し向けた……いくらでも捏造してやるさ。側近たちも私の味方だ。あいつに味方する者など、この国には一人もいないよ』
壁一枚隔てた向こう側で、エリオットは高笑いしていた。
その時、アイリスが感じたのは悲しみでも怒りでもなかった。
(……やっと、解放される!)
という、震えるほどの歓喜だった。
第一王子の婚約者という地位は、アイリスにとって苦行以外の何物でもなかった。
王子の尻拭い。遅滞する公務の代行。放蕩三昧の彼に代わって、王宮の予算編成を裏で操り、破綻寸前の国庫を維持する日々。
それなのに、彼はアイリスを「可愛げのない女」「計算高いだけの女」と蔑み、現れたばかりの、ふわふわとした「聖女」に夢中になった。
ならば、望み通りにしてあげよう。
ただし、ただで追い出されるほど、アイリス・フォン・ベルシュタインは慈悲深くはない。
「アン、忘れないで。今日の主役は私ではなく、殿下よ。彼がいかに華麗に自爆するか、特等席で見届けましょう」
アイリスは扇で口元を隠し、淑やかに笑った。
馬車に乗り込み、学園へと向かう道中、アイリスは脳内で今日のタイムスケジュールを確認する。
卒業式の開始は午前十時。
断罪劇が始まるのは、おそらく式典後の祝賀パーティー。もっとも人が集まり、王族や他国の使節も出席する時間帯だ。
(エリオット殿下は、劇的な演出がお好きですものね。自分の正義を誇示するには、最高の舞台。――そして、奈落に突き落とされるのにも、最高の舞台だわ)
アイリスは膝の上に置いた小さな革の鞄を愛おしそうに撫でた。
この中には、最新式の魔導具が入っている。映像と音声を広範囲に投影できる、まだ試作段階の高級品だ。これを開発した魔導具ギルドには、個人的に多額の出資をしてある。
さらには、ベルシュタイン公爵家として、この事態をどう政治的に利用するか。
父である公爵には、すでに「王子が私を陥れようとしている」という事実と、それに対する「カウンタープラン」を報告済みだ。
父は最初こそ激昂したが、アイリスが提示した「王家から勝ち取れるであろう譲歩案」のリストを見た途端、ニヤリと笑って「好きにしろ、バックアップは任せろ」と言ってくれた。
学園の門をくぐると、そこはすでにお祭り騒ぎだった。
正装した生徒たち、誇らしげな保護者。その中で、アイリスを見つけるなり、周囲がヒソヒソと騒ぎ出す。
「見て、アイリス様よ……」
「最近、エリオット殿下が聖女様とばかりご一緒だから、あんなにやつれて……」
「可哀想に。公爵令嬢として完璧に振る舞っていらしたのに」
(ふふ、いいわ。もっと同情なさい。その同情が、数時間後には殿下への鋭い刃に変わるのだから)
アイリスは俯き加減で、時折小さく肩を震わせる仕草を混ぜながら、会場へと足を進めた。
その背中に、遠くから熱い視線が注がれていることには、まだ気づいていなかった。
校舎の二階、バルコニー。
銀色の髪を風になびかせ、鋭い眼差しでアイリスを見つめる青年がいた。
「……あれが、例の公爵令嬢か。あんなに弱っているように見えるが、足取りには一切の迷いがないな」
「殿下、あまりジロジロ見ると失礼ですよ。彼女は他国の、それも王子の婚約者です」
青年の傍らに控える従者が苦笑する。
青年――隣国の皇太子、カイル・ヴァン・ディードリッヒは、面白そうに目を細めた。
「いや。面白いことが起きる予感がする。あの女の目は、追い詰められた獲物の目じゃない。……仕掛けた罠に獲物がかかるのを待つ、狩人の目だ」
アイリスの「逆転劇」まで、あと数時間。
彼女が用意した爆薬の導火線に、エリオット王子自らが火をつける瞬間が、刻一刻と近づいていた。




