第8話
それは、紅色の服を身にまとった唐人の女だった。
洋卓を一足で飛び越えた女が武州の顎を蹴り上げ、掌底、回し蹴りと、目にも止まらぬ連撃で襲いかかる。
僅かな動きで攻撃を捌かれ、身体が泳いだ女の目の前に、武州の巨大な拳が迫り、一寸に満たない距離で止まる。
遅れて届いた風の圧に女は堪らず両目を閉じ、すとんと尻をついた。
割れんばかりの拍手と称賛の声が響く。
「ハハハ、見事だ!」とウィレムの上機嫌な声。
やれやれといった表情の武州。
老いた唐人が女を優しく嗜める。
「メイリン、悪戯はその辺にしておきなさい」
ひとり蚊帳の外の惣兵衛が目を白黒させる様子に武州が笑みを零し、笑い声が部屋を満たしていった。
黒い帽子に墨色の唐服姿の老いた唐人は、杖を軽く突くと姿勢を正し、
「大変失礼いたしました。リュウ・ジンと申します」
「我が友リュウは、唐の商人たちの代表なのですよ」とウィレム。
「代表とは烏滸がましい。一番歳を取っている、それだけのことです」
小柄で枯れ木のような細い身体だが、声には張りがあった。
「この未熟者は——、不祥の孫、メイリンです」と紹介する。
紅の唐服を着こなした長身の女は不機嫌な表情を隠さず、武州から目を逸らさない。
「メイリンは少林拳を修行しており——」
「修行は済んだ。……おい!」
ジンが杖の石突で床を軽く叩き、中国語で叱責する。
それを聞いたウィレムは、小声で、
「吠えるのは子犬だけだ、虎の尾を踏むでない——と言っていますよ」
と武州に囁き、片目を瞑ってみせる。
ジンからさらに叱責を受け、メイリンは不承不承退室する。
椅子に腰掛けた惣兵衛と武州は、ウィレム・デ・フリース商館長とリュウ・ジン大老に、鍋島で起きた化け猫騒動の顛末を語り始める。
「ただの娘が一変して襲いかかる——獣のように跳躍、ですか」
「血を啜り、傷が瞬時に治る……」
流れる雲が太陽を覆い、室内が薄暗くなる。
瞑目したまま動かないリュウ・ジン。
ウィレムが沈黙を破る。
「武州殿は化け物が耶蘇教と関わりがあると言われた。ミネさまの祭壇を見ていたのは確かだとして、それだけで推量されたのですか」
「推量ではない。わかったのだ。貴殿も武人なら、その意味、承知しているだろう」
武州は揺るぎない声で答え、
「もうひとつ。これは平戸を訪れてから腑に落ちたことだが、女から漂っていた香り——果実や香辛料が入り混じったような、あるいは珍蛇酒にも似た——、あれは貴殿ら、南蛮の民が身に付ける香の類だ」
平戸を支配するふたつの勢力の頂点に立つふたりが、迷い、言葉を探している。
惣兵衛が掠れた声で尋ねる。
「イレムさま、リュウ大老、もしやお心当たりが——」
先に心を決めたのはリュウ・ジンだった。通る声でメイリンを呼び、
「西班牙の商館に向かえ。ディエゴ師に来てもらうのだ」
四半時が過ぎたころ、ようやくメイリンが戻って来る。
伴ったのは、惣兵衛とさして変わらぬ背丈の小太りの男。薄汚れた立襟の白い長衣を身につけ、首に金色の十字架を下げている。
「申し訳ありません。商館の聖堂にはおらず、蔵の酒を飲んで酔いつぶれておりました」
頭を下げるメイリン。
ウィレムは大きく溜息を吐くと、
「ディエゴ・フェレイラ神父、西班牙の神父——伴天連です」
酒の匂いを漂わせ、死んだような目で室内を見回す男を紹介する。
読んでいただきありがとうございます。
10話まで毎朝8時に更新予定です、とお伝えしてきましたが、
続きがなかなか進みません。頑張ります……。
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