第5話
割れんばかりの打音と怒声は続いている。
音も無く近づく武州、遅れて来た惣兵衛に目で確認するが、困惑した表情で首を横に振る。
腰の刀にそっと片手を添え、空いた手で心張り棒を外した途端、揃いの半纏に股引姿の屈強な男が三人、雪崩れ込んでくる。
男たちは、蝋燭の灯を背に聳え立つ大男の前に立つと、
「居やがったか!」
「勝手はさせん!」
恐れも見せず鳶口を手に飛びかかっていく。
刹那、先頭の男が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。武州が顎に軽く当てた掌底に意識を刈り取られたのだ。二人目の鳶口を武州が掴む。慌てて全身の力で振り解こうとするが、微動だにしない。着物の袖から覗く古木の幹のような腕がさらに膨らんだように見えた瞬間、鳶口は奪われ、男の左肩にめり込む。
意を決して飛び込もうとする最後に残った男を、惣兵衛と一郎太が同時に制する。
「やめなさい!」「新兄ィ、違うんだ!」
たたらを踏んで止まった新十郎と武州の間に入った一郎太、
「武州さま、新兄ィは町火消しの頭です」
開け放たれた戸から、冷たい風が吹き込む。
奉公人たちに介抱されて意識を取り戻したのは、昼間見かけた火消したち。
彼らはばつの悪い表情で、引き戸の側に下がって深く頭を下げる。
「相済まぬ!」
長年、町火消しに多額の支援をしている山崎屋に見知らぬ浪人が入っていったと聞いて、
「押し込み強盗の類かと、かっと頭に血が登っちまいまして」
「ははは、新兄ィらしい……、痛っ!」
軽口を叩く一郎太に拳骨を落とす新十郎。場が一気に和む。
「まったく子供の頃から変わらないねぇ」
惣兵衛は隙間風に身体を震わせると、ちょうど食事と酒を用意したところだから、新十郎たちもお上がりなさいと声をかける。
「待て」
武州は惣兵衛や奉公人たちを制して、一歩前に出る。
開いたままの入り口の向こうは墨を流したような漆黒の闇夜。向かいの店すら見えないほど深い闇の帷から、白地に花を散らした小袖姿の若い娘がふっと浮かび上がる。
俯き、その表情は窺えないが、武家の子女のような凛とした佇まいだ。
ただ立ち尽くす娘に「ご用なら中に入りなせえ」と火消しのひとりが声をかける。
こくりと頷き店の中に入る娘。ゆっくりと顎を上げると、薄ら蒼色を感じるほど白い肌に吸い込まれるような黒く大きな瞳、そして馥郁たる香り。
あまりの美しさに目が離せない火消しは蕩けそうな表情を浮かべるが——
その顔が凍りつき、ごくりと喉を上下させる。
この娘には、影が無い。
シャッと蛇が威嚇するような音を発すると同時に、娘は二寸はあろうかという鋭利な爪を火消しの胸に突き立てた。
間一髪、武州が火消しの襟を掴んで引き倒し、勢いのまま空を切った娘の腕を蹴り上げる。
その反動を利用して後ろに蜻蛉を切った娘は、もうひとりの火消しに襲いかかると白い牙をその首へ深く立てる。
壁に散る鮮血。
武州は一息のためらいもなく娘の背を袈裟がけに斬る。
——瞬きひとつの間の出来事である。
苦悶した火消しが身をよじったため武州の刀は逸れ、娘の右腕を着物の袖ごと切り裂いた。
だが、娘の身体からは一滴の血もこぼれない。
一瞬振り向いた娘の目は金色に変わり、口には獣のような白い牙が光る。
愉悦の表情で倒れた火消しの首に再び噛み付くと、ごくりごくりと音を立ててその血を飲み干す。
信じられないことに、裂けた着物から見えていた腕の傷が、たちまちのうちに塞がっていく。
武州は神速で踏み込み、逆袈裟から左一文字に振り斬るが、娘は火消の身体を盾に跳躍して逃れる。見れば、腕の傷は跡形も無い。
睨み合うふたり。
「……ば、化け猫!」
かすれた声は一郎太か。
背後で女中のひとりが失神して崩れ落ちた。
その僅かなざわめきに乗じ、娘は壁を駆け上がって奥へと逃げ込む。
半拍遅れた武州が小さく舌打ちし、すぐさまその後を追う。
武州は鬼神の走りを見せるが、じわりと離されてしまい、わずかな香りを残して娘の姿は廊下の闇に消える。
乱暴に戸を開ける音が聞こえ、逃がしたかと顔を顰め角を曲がると、
娘が、開け放った戸の前で立ち尽くしている。
一息で三度、刀が閃く。
手応えはあった。
だが武州は刀を正眼に戻して、動かぬ娘をじっと見つめる。
(ひとつ、ふたつ・・・)
常より早い己の脈を十まで数えぬうちに、新十郎らが駆け付ける。
刀を構えたままの武州に声をかけようとしたその瞬間、
すうと娘の首がずれ、床に転がる。
遅れて身体が、まるで正座をするように沈み込む。
開け放たれた部屋の中。
娘が死の寸前に見つめていたものは、数多の蝋燭が灯った色鮮やかな祭壇だった。
問いかけるように目を向けると、ミネが静かに瞑目し両手を組んでいた。
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