第二十一話 影姫
火衣を纏い橋本の影から生えた腕の攻撃を飛び越える。
上に伸びたのかと思ったら突然九十度角度を変え曲がり、俺の腹を抉り取るようにして引っ掻いたその腕は飛び越えるとすぐに消えてしまった。
「影を操る」能力。
内容はわかっていたが中々に強力な妖術だ。
今は腕一本だけだが、これが何本かに増えるとなると火衣だけで避け切れるかどうかは怪しいところだな。
影から生える腕の攻撃を避けながら頭の中で思考を巡らせる。
おしろいを塗ったかのように白い肌と貞子のように長い髪、そして塗り潰されたかのように黒でぐちゃぐちゃなあの瞳。
俺は、あの妖怪のことを知っている。
あれはかっぱを月冴の家に引き入れてから三日後の話。
俺がかっぱの様子を見に行った時。
かっぱが話した内容をそのまま思い浮かべる。
「元々私はここの武蔵野って所にいたわけじゃなくてね、ここからずっと西にある……そうそう八王子! 私はそこに住んでいたんだよ。それでね、最初は他の妖怪たちとかとみんなで暮らしていたんだけど、急にあの妖怪が現れてさ。そう、私は逃げてきたんだ、めっちゃ怖かったよ、腕がバーって伸びてきてさ。え、妖怪の名前? それはね」
嫉妬の姫君「影姫」
月冴の話によると昔、京都の花街で花魁として生活し一時は輝かしい生活を送っていた「椿」と言うそれはそれは美しい女がいた。
しかし、椿はある一夜に出会った男と恋に落ちそのまま駆け落ち。
最初は幸せな物語かと思われたがそれは急に一転し、不幸なことに駆け落ちした男は春を売る仕事をしている者で彼女は身売りに出されてしまった。
さらに不幸だったのは身売りされた先で、そこは女に飢えた貴族たちの巣窟。
その後影姫は貴族たちの玩具として扱われ、かろうじて巣窟から抜け出すことはできたが自分の人生に価値を見出せなくなり、寒い冬、橋の上から冷たい水の中へと身を投げた。
というところまでが人間時代の話。
妖怪になり変わってからは嫉妬心に満ちた人間、今で言えば橋本のような人間に取り憑き悪行を行うようになったらしい。
話からわかることだが、影姫は妖怪になってから既に百年以上は経過している。
妖怪の世界も一応弱肉強食というものがあり弱いやつから消えていく。
つまり影姫は俺が今まで戦ってきたどんな相手よりも強い。
手強い相手になりそうだ。
飛びかかってくる腕を避け上空に飛び上がる。
橋本は気づくと生気が抜けたようにその場で倒れていた。
完全に力は影姫の物ってわけか。
再び角度を変え飛びついてくる腕を手の手根部で下に叩きつけ角度をずらす。
気づけば腕は三本に増えさらにスピードを増していた。
これは憶測だが太陽が沈むに連れて影姫の能力値が向上しているのではないか?
そうだとしたら橋本、じゃなくて影姫が屋上に場所を移したのも太陽の沈みを確認するためだと考えれば合致がいく。
早めに倒すことが最善。
太陽が落ちるまでがタイムリミットということか。
「返して……返して……」
鼻をさすり、馬鹿正直に俺は走り出す。
前方からは三本の腕。
角度を変え俺の背後を追うようにして永遠に伸びてくるその腕はやはり速さを増していた。
しかし、逃げる中で気づいたことが一つある。
それは俺がやつの体に少しだけでも近づくと伸びた影たちはやつの体を取り囲むようにして引っ込み纏わりつく。
相手に近づいた時攻撃は手薄になるのだ。
思考しながら行動していた体はすでに影姫本体の側まで寄っていた。
案の定腕は橋本の体を取り囲み壁を作った。
「チャンス」
壁のすぐ側まで近寄り力を込めた右足で影姫の頭上を飛び越え後ろ姿を視線に入れる。
このまま、刀で首を断ち切ってさえ終えばこれで終わりだ。
ゆっくりと体が空中落下していき目線の前に頸が映る。
取った!
と、勝利を確信し腰に手を当てた。
「なっ!?」
そこで俺は気づいたのだ。
いつも妖怪と対峙する際腰にかけている刀がないことに。
そうだった。
俺は下校の途中で学校に戻ってしまったから刀を持ってきていないのだ。
今更気づいても遅く、驚き戸惑う俺の体を影の腕は最も容易く弾き飛ばした。
「いって……」
弾かれ吹き飛んだ俺の体は鈍い音を奏でながら落下防止のために設置された金属ネットに当たり、背中の肉を網目に抉り込ませた。
背中を抑えながら立ち上がる。
体の当たった金属のネットは完全に凹んで原形を留めていない。
凄い威力だ、最初の動きからは考えられない。
ひりつく背中をさすり急いで思考を巡らせる。
まさか自身の武器である白夜を忘れるなんて思ってもいなかった。
薄々だが理由はわかる。
なぜか無意識的に自分の近くに白夜が存在する感覚があったのだ。
刀なんて持っていないのに。
再度腰元を触るがやはり手応えはない。
この感覚はなんなんだ?
休む暇もなく再び三本の腕が俺に向かって飛んでくる。
単調な攻撃だが今の俺にとってはどんな攻撃も変わらない。
痛む背中を無視して攻撃を避けるために駆け抜け走り出す。
少し休ませてくれても良いんじゃないのか?
そんな期待を込めるが影姫は答えてくれるはずもなくただ笑い声を響かせながら俺を攻撃してくる。
段々と俺は防戦一方になり始め、とうとう腕の数は五本になった。
まだ疲れてはいない、疲れてはいないがさっき金属ネットにぶつかったせいで背中と右足が悲鳴を上げ始めている。
これは時期に使い物にならなくなってしまうかもな。
俺は腕を誘うようにして立ち止まる。
角度を変え、俺の方に勢いよく飛んでくる腕たちはまるで誘導ミサイルだ。
違和感を抱えながら腕が近付いてくるのを構えて待つ。
一発ぐらいはあいつに当ててみないとな。
炎を真下に叩きつけ煙幕を作る。
辺りは煙で立ちこみ影姫の腕は地面を叩きつけた。
煙を巻き付けながら俺は上空を飛ぶ。
影姫の腕はまんまと騙され伸びて動いていない。
つまり影姫の守りはガラ空き、今度こそ!
影姫は飛び出した俺を見つけると真っ黒な目と口を目一杯開いた。
予想外だったらしいな。
俺も同感だ。
自由落下する体を制御しながら影姫に向かって手を伸ばす。
大きく開いた、口元目掛けて。
「火ノ鳥」
影姫の口内から炎の双翼が現れる。
影姫は顔から炎とモクモク炊ける煙を出しながら暴れ叫び俺を振り払った。
白夜が無くとも俺の妖術ならこいつには通用する。
再度放った火球は腕に防がれてしまったが、俺は攻撃を受けず扉の前で滑り止まった。
あいつの前のめりな姿勢から完全に怒っていることがわかる。
俺だってやられたんだ、あれぐらいなら当然だろう。
現在影姫の腕は六本に増え日没までの時間はそれほどない。
間に合うかはわからない。
だが、やらなければどちらにせよこいつには勝つことができない。
窮地に追い込まれながらもニヤけてしまう口をブレザーの袖で隠しながら、俺は間髪入れず再び影姫の方向へと走り出した。
辺りは暗くなったはずなのだが何故か俺にはその感覚はなく影姫のことをはっきりと認識できる。
火の妖術だからだろうか。
火球を飛ばし意識を錯乱させる。
いくら妖怪だとは言えど、視覚さえ潰してしまえば相手は俺を追うことはできなくなるはずだ。
立ち上る煙に紛れて俺は影姫の懐まで近づく。
力を目一杯込めた拳に炎を纏わせ影姫の腹部を目掛けてぶん殴る。
拳は目標を一直線に捉え真っ直ぐ飛んでいく。
だが、ゆっくりと動く世界の中で反応出来ていたのは俺だけではない。
紙芝居のように視界が一枚一枚途切れるのと同時に影姫の体から薔薇のように尖った棘が現れ俺の指先を貫いた。
痛みを増す拳で影姫を殴りつけダメージは五分といった感じになったが、俺の指先からはドクドクと血が流れていく。
「反射で避けようとして余計に掠っちまったな」
徐々に、俺は体を蝕まれていった。
大きなダメージは入らないがお互いに攻撃を当て合い体には擦り傷が増えていく。
腕は十本にもなり辺りは完全に暗くなった。
光は小さく光る周りの街灯と雲に隠れて光る月だけだ。
雨の匂いがこびりついた風が吹き俺の髪をさすり荒くなった息が強調され目の前の影姫が蜃気楼のように動く。
さすがに体も限界だ。
重くなった体を堪え上げ目を瞑った。
体の中にはまだ白夜の存在がある。
普通に生活している時は何も感じないあいつの感覚がそこにはある。
俺は今白夜に何かを求めているのか?
いやいや、刀に何かを求めるなんて。
だが、無意識に白夜の意識を寄せる。
「返して……返して……」
大きくなった掠れ声が飛んでくる。
目を開け、目の前からは無数の腕。
自然と腰に手をやる。
しかし、そこに白夜はいない。
いや、いるはずだ、ただ俺が求めていないだけだ。
白夜は、俺を信じた時からずっとそばにいた。
胸の辺りが熱くなる。
白夜の存在が近くなる。
目の前には俺の顔目掛け飛んでくる腕。
左足を引き、思うがままに。
「行くぞ、白夜」
一間に腕が切れ落ちる。
影姫は叫び、再び影の腕を何本も飛ばす。
何回も見た技だ、今度は逃げる番じゃない。
まず飛んできた二本の腕を叩き切り俺は疾風の如く走り出す。
火衣の炎が羽根のように舞い上がり火羽の雨をその場に降らす。
影姫はたちまち手を反発して後ろに飛び、俺を囲い込むようにして全ての腕を投げつけてた。
俺は滑り止まり、居合の姿勢をとる。
大体四秒か、間に合うな。
頭の中にはまるで白夜が俺にアドバイスをするかのように新たな思考が流れ込んできた。
流石、剣豪たちの愛した刀だ。
左手の親指で唾を押し、柄を力強く握った。
「居合抜刀『火岸花』」
周りの影の腕が崩れ落ちる。
刀身を鞘に戻した瞬間、俺は左足を踏ん張り上げ影姫の胸元まで体を寄せた。
影姫は大粒の涙をその綺麗な翡翠色の目から流し肌色のうでは懇願するように尖った耳を塞いだ。
そうだ、こいつも元は人間、死にたくなんかない。
一瞬柄を持つ手が緩む。
…………でも、これは俺の仕事だ。
俺がやらなければいけない。
左手の親指で唾を押し、柄をもう一度力強く握って右腕を前に押しつけ影姫の首に刃を送る。
そして、その首は真っ二つに切れゆっくりと朧煌めく月の中に溶けていった。
* * *
橋本が目をパチパチとさせながら目を覚ます。
ギラギラと光る月のせいか、眩しそうにしている。
きっと今の状況に気づけていないのだろう。
まあ、無理もない。
「俺は、何を?」
「どこまで覚えているんだ」
「確か……教室でお前に心の内を吐き出して、それで……」
言葉が詰まり、顎に手をやる。
そこからの記憶はない、つまり俺が影姫と戦っていたことは知らないのか。
俺は安堵して暖かい息を真上に吐いた。
「お前、なんだよその服!」
「あーえっと……あ、これは一年でお化け屋敷をやるクラスがあるだろ? それの衣装なんだ」
「なんでその服をお前が着ているんだ」と言う顔をするが、それ以上は何も聞いてこなかった。
橋本は少し前に話した感じとは違って今はおおらかな感じだ。
あの時から取り憑かれていたのか?
優しくなったことは嬉しいが少し変な感じだ。
そう考えていると、
「神代、今まですまん」
謝る橋本に少し驚いたが直ぐに俺は返答した。
「大丈夫だよ」
「いや大丈夫じゃない、俺はどうかしてたんだ」
「どうかしてたって?」
「それが少し前から変だったんだ、なんだか自分の気持ちが抑え切れなくなる」
きっと影姫に取り憑かれていたからだ。
じゃあ、こうなったのは考えればあの古水とバスケをした日よりも前からということだな。
俺は鼻先をさすりスマホで時刻を確認した。
そろそろ帰らないとだな。
橋本の腕を取り体を持ち上げる。
「なあ、火月」
「……どうした」
「俺、これからどうすればいいと思う?」
「そうだな……」
空はまた月が雲に隠れて光っていた。
風は生ぬるく俺の体を包むように吹く。
橋本は俺の顔を窺っているのかじっくり俺の方を見る。
「橋本のこれから」そんなものを俺が考えるべきではない。
自分の人生は自分で決めろとは言わない。
でもそれを俺なんかに聞くべきではない。
だがそうだな、一つ言うなら……
「橋本の、今考えていることをすれば良いんじゃないか?」
「え……」
驚いた顔をして、少しどこかを見た後また俺の方に向き変える。
何か俺に言って欲しいのだろう。
だが、別に伝えることなどない。
俺は手をポケットの中に入れ空を仰ぎながらため息をつく。
この休みが終われば次は文化祭か。
……たまには休暇も必要だな。
「さて、そろそろ帰ろう」
「……ああ」
俺たちは乾いた笑いを月に捧げた。