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北方への進出

 新井白石が政治を執った時期(正徳の治)、ロシアの北方からの圧力が強まり、中千島、北千島と北樺太へ探検隊を送り込んだ。北樺太では清朝の官吏とトラブルになり、1708年、北緯50度を清と日本の境とした。千島は1710年には占守島まで探検隊を送り、露領カムチャツカで、ロシア人と接触後、幌筵島で越冬。この前、松前藩はカムチャツカを自領と報告しており、同地域が先にロシア人に入植されていたため、ロシアの先占権を認めざるを得なかったことで、このことを松前藩の失態と見做した幕府は蝦夷地を直轄地化して松前藩を梁川へ転封した他、弘前藩は塙・小名浜・川俣へ、八戸藩は桑折へ、盛岡藩は川浦・水原へ、久保田藩を大森へ転封して、北東北をも幕府直轄地とした。盛岡に城代を置いた他(なお盛岡城代は従四位下大膳権大夫兼権少納言に任ぜられる慣例となった。定員一名。副城代として定番二名が付けられた)、松前にも城に準じた砦を築き、盛岡城代の指揮下にある福山定番を置いた。徳川吉宗が将軍になるとに新井白石が福山定番に任命され、さらに北方への進出を命じた。これらの地域に木材と魚、それにヨーロッパ向けの輸出品として増加していた毛皮を求めてのことだった。北千島から阿留申列島(アリューシャン列島)と新須賀アラスカの新須賀半島に到達、領有宣言をし、新蝦夷地と命名した。それ以降も、田沼意次や松平定信が政治を執った時期にも、さらなる探検と到達地の領有宣言が行われ、最終的に北口川(マッケンジー川)、利用川(リアード川)、藤賀湖(ウィリストン湖)、大荒山脈(ロッキー山脈)以西、北緯49度以北(一時は斯阿取湾からおおよそ北緯47度線以北をエルウェル湖の周辺まで進出していたが、北緯49度以南の地は1832年に英国に売却され、紆余曲折を経て、英領カナダのブリテッィシュカスカディア州となった)の地を、新蝦夷地(後に新北海道と改名)として領有することになった。これらの地域には、鎮北隊と呼ばれる洋式陸軍(かなり長い期間幕府海軍の下部組織として扱われた)と戦列艦をも装備するようになった幕府海軍で防衛された。鎮北隊の兵は、幕府は松前藩等の武士を直臣化したものが多く含まれていた。行政は、城代―奉行所―代官所―場所という系列で行われた。幕府は蝦夷地の先住民を保護するように命じていたが、南樺太や千島辺りまではある程度守られていたが、阿留申列島以遠では、幕府から場所の経営を請け負った場所請負人、鷹待、金堀の恣意が罷り通ったため、しばしば先住民の反乱が起こり、その度に幕府に鎮圧された。これらの地域からは、鰊粕、鯑、身欠き鰊、干海鼠、昆布、干鰯、海獺や貂、海狸、狐等の毛皮、木材、金、鷲羽、鷹羽、鷲、鷹などが運び出され、逆にこれらの地域へは米、酒、砂糖、塩、衣服、煙草、紙、蝋燭、縄、筵、薬、鉄製品、南京玉などが運び込まれた。1820年代頃からは、これらの地域への日本人の入植も進んだ。徳川吉宗の時代の1719年、江戸、大阪等幾つかの町に黒印状を発給して、市長と市参事会員から成る市参事会が設置され、幕府や町奉行からの諮問に答えると共に、小事を独自に決済してもよいとされた。以降、天領の町の多くが黒印状を受けて、市として一定の自治権を承認された。1725年には、江戸―京都間に馬車が通れる道が整備され、郵便と旅客を乗せる駅馬車として運行が開始された。

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