日本乞師
1645年から南明の一部勢力が、日本へ援軍を求めてきた。幕府では消極論が強かったが、三代将軍徳川家光はある程度関心を示した。そこである幕閣が、武器、弾薬、兵糧は幕府で調達し、兵員は浪人から志願者を募って送り込み、船は南明側が用意するという案を出した。これには家光や他の幕閣からも、浪人を外国へ厄介払いできるというので、ある程度の支持が集まった。そこで南明の使節と協議の上、総大将役を名乗り出た徳川光国(光圀)を「個人的な参加」という形で総大将とした五万の兵を南明の鄭成功への援軍として送った。その後も志願者を募り、後詰としてさらに五万ほど、合計十万ほどを南明に送った。援軍は中国大陸である程度活躍し、光国(南明滞陣中に、水戸藩の藩主となる)の奮戦と、光国の軍師となった由井正雪らの働きもあり、一時は南京を奪還することにも成功した。しかし、清軍の反撃も激しく、南京からは撤退せざるを得ず、最終的には浙江南部と福建一帯をどうにか保持するという状況になった。この状況に対して、鄭成功は当時オランダ領だった台湾を奪取することで、状況を打開しようとする。しかし台湾を奪取したところで鄭成功は死去してしまった。これに対する報復としてオランダが長崎と平戸を砲撃し、五島列島で略奪を行った上、日本から南明へ向かう商船を襲撃するという事件が起こったこともあり、幕府は講和を決断、鄭成功の後を継いだ鄭経に対し、講和交渉を行うことを説得、中国大陸の支配地を手放すのと引換に台湾、澎湖諸島の保有を認めてもらうという条件で清との講和を試みた。講和交渉は当初あまりうまく進まなかったが、鄭経側が清の大臣たちに、講和使節を通じて多額の賄賂を贈ったのが功を奏して、1666年、台湾、澎湖諸島を領土とし、鄭氏を王とする東寧王国が、清へ三年に一度朝貢することを条件に講和が成立した。これ以降鄭氏は清から東寧王に封じられることになった。他に、南明の寧靖王朱術桂を花蓮候に、魯王朱弘桓を台東候に封じられることになった。三藩の乱の時にも東寧王国は、幕府の総目付の説得で反乱側に与せず、安定して存続することになった。一方、東寧王国は、日本に対して、浪人軍に付いていた幕府の目付を台湾総目付として駐在させること、浪人軍の生き残りを台湾へ入植させ、それ以外に日本からの移民を送り込むことを認めること、将軍の代替わり時に祝賀使を送ることを認めさせられた。さらに、東寧王国建国と同時に結ばれた約定で幕府も清へ朝貢することを条件に、五年に一度、二隻の進貢船を清の寧波へ送ることを認められた。一方、オランダとは、鄭氏の水軍が商船を護衛するようになって日本船や南明船襲撃の効果が上がらなくなったこと、日蘭交易が途絶えてオランダ側も財政的に大分苦しくなったこともあり、最終的に長崎、基隆(鶏籠から徳川光圀が改名)での自由貿易を認めること、東寧側が銀三十万両をオランダに台湾買収料として払うことを条件に講和が成立したが、オランダとは微妙な関係が続くことになる。この後、オランダ船による日本船襲撃により少なからぬ被害を被った幕府は、イングランドから教官団を招き、西洋式の海軍の建設を開始した。もっとも当初は、コルベットが主力で、フリゲートが少数というものであった。朱印船貿易に使う船も、日本前と呼ばれる和洋中折衷タイプの船の他、ガレオン船も使われるようになり、1700年頃から天竺船と呼ばれる船が導入されると、ほぼ完全に洋式の帆船に変わった。さらにまた1652年の承応の変以降、幕府は政治方針を、武断政治から文治政治へ転換した。1669年に、松前藩側の不公正な交易が原因で、シャクシャインの戦いが起こり、鎮圧された際、幕府は清の北方からの圧力を警戒し、松前藩に命じて、樺太南部や南千島まで交易船を派遣させ、これらの地域に商場(後に場所と改称)を設置した。朱印船も1685年から1718年まで年十隻と制限された時期もあったものの、1718年に隻数制限が解除され、1726年には、老中奉書のみで渡航可能とされた奉書船に切り替えられ、渡航先も東南アジア諸国だけでなく、印度や波斯、アフリカ東岸、欧州にまで拡大された。後、奉書船も、海外渡航の完全自由化に伴い、1866年に廃止となった。