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キリシタン問題

 その日、1611(慶長10)年のある日、徳川家康は知人の玄海という仏僧と会っていた。家康が若かりし頃、織田家に囚われていた時期に知り合った僧侶である。その中でキリシタンについてどうするべきかという話が出てきた。異国が侵略する危険性を断つために家康が禁教するべきだと考えている言うと玄海は意外なことに反対した。玄海は、

「キリシタンや南蛮人にも問題がありまするが、禁教するには既に遅すぎまする。やるなら信徒が一握りの時に外国に追い払うか殺すかすべきだったのでござる。既にかなりのキリシタンがおり、禁教されれば、彼らの少なくとも一部は表向きは棄教しても秘かに信仰を保つでござろう。南蛮人の侵攻の可能性だが、相手がやる気なら禁教はかえって攻撃の理由を与えるだけでござる。やる気がない。もしくはその能力がないなら禁教する意味がありませぬ。キリシタンが外敵に協力する可能性にしても、公認すれば監視することもできるが、禁教して信徒が地下に潜めば、それを察知することもできなくなる。それにこれは私的な考えだが、仏僧たちには競争相手がいた方が、堕落する可能性も減るでござろう。さらに種子島(火縄銃のこと)がポルトガルより入ってきたことや、以前あなたに貰った時計を見て感じたことでござるが、南蛮人や紅毛人は、少なくとも一部の技術、特に兵器については、日本よりも優れており、しかも進んでいるようでござる。国を()じればそれが入ってきにくくなる。そうなれば、数十年くらいならともかく、数百年も経てば、日本侵略は、国を鎖さなかった場合よりも容易なことになるでござろう。故にキリシタンの禁教には拙僧は反対でござる」

と主張した。それを聞いた家康は、

「禁教するには、もう遅すぎるか」

と呟くと、玄海は、

「その通りでござる。今国を鎖しても精々時間稼ぎくらいにしかなりませぬ」

と答えた。それを聞いた家康は、

「玄海、そなたはキリシタンをどうすればいいと思う」

と聞いた。玄海は、

「居住は定められたところのみ限り、他人への布教は禁止とすればよろしいかと」

と答えた。それを聞いた家康は、

「わかった」

と答えた。それから数日後、家康は、キリシタンの居住地の制限と非キリスト教徒への布教の禁止、その代わり、信仰は許可するというお触れを出した。他に日本のキリスト教の上層部と接触、信仰を認める代わりに二十年の期限を区切り、以降司教をはじめとする聖職者を日本人化し、外国人聖職者はそれ以降、日本の教会の状況を視察するための巡察使が来る時と司教叙階式のために司教が来る時を除いて、将軍直々の許可がない限り、外国人聖職者が日本へ来ることを禁止することを受け入れるよう要求した。この要求に対し、日本の教会内では激論となった。外国人聖職者の中には十字軍を呼ぶべきだという者もいたが、結局日本の武力が強力で、欧州から遠いことからやむを得ず要求を受け入れることになった。教会側が要求を受け入れると、家康は禁教しないことを約束した。こうして日本におけるカトリックは細々とながら公認されることになった。1630年には日本人が日本司教に任命され、1632年には外国人聖職者のが全て日本から引き揚げ、以降日本の教会は、司教以下日本人聖職者により運営されていくことになる。1637年に起こった島原の乱の際には、長崎にいた司教が、破門をちらつかせて多くの一揆勢を降伏させ、それでも降伏しなかった者に対しては破門したことにより、一揆勢の士気を大いに下げることに成功し、最終的な鎮圧に役立っている。また司教の要請でオランダ船の他、ポルトガル船も一揆勢に対して艦砲射撃を実行している。こうして幕府から一定の信頼を獲得したカトリック教会は、1720年頃には、江戸、大坂、松前に司教を置き、長崎の司教を大司教に昇格させることを認められた他、二十石という微禄ながらも領地ももらい、日本に一定の地歩を築くことに成功する。また神のことを天帝や天主等と呼んでいたため、日本の既存の神々や諸仏も、天使等と共に天帝もしくは天主を護る存在として受け入れる者もでてきた。1715年のクレメンス11世の教皇憲章『エクス・イラ・ディエ』でローマ教皇庁がこれを禁ずると、日本のキリスト教徒の一部は、カトリック教会から分離して、キリスト教に仏教の仏や神道の神々も神よりも上位者である天主を護る護法神として取り入れた天草教会という組織を結成、大司教以下の聖職組織を整えて分離し、幕府の公認を得た。こうして日本のカトリック教会は二つに分裂した。なお、居住制限は、出稼ぎを突破口にして徐々に緩められ、後には有名無実化した。こうしてキリシタン問題を一応解決した幕府は、朱印船貿易を続けることになり、南洋の日本人町もベトナムのダナンとホイアンに残存したのである。なお1725年には、神学校の教師に限り、外国人聖職者の入国が認められ、1859年には、宗門寛容令が出され、信仰や布教は自由となっている。

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