8.愛しきお前へ
そこは病院のベッドの上。
目覚めたダグラスは歯噛みしながら思い出す。
叩きつける雨の中、彼は必死で〝白鯨〟の前まで這っていった。
墓守の老人に手首の縄をほどいてもらい、ゴミと一緒に雨に流されまいと路面に爪を立て前へ進んだ。通行人のざわめきと、ブライアンの呼び声が脳裏に浮かんでくる。
「ダグラス! 誰にこんな……」
「ギャレンて……クソ野郎だ」
――心配かけてすまねえ……。その思いが強かった。
ベルザも、クリスティーンも見舞いに来てくれた。
ハリーも珍しく泣いてた。
シェリルも来てくれた。工場勤めは辞めると言う。そう。きっとその方がいい。
あちこち痛かったが、俺は不死身だ……こんなことでくたばるか! ……死なねえ、死なねえよ――。
燃えたぎる思いでダグラスは再起を睨んだ。
二週間後退院し、晩秋の寒空に煙草の白煙を燻らせた。
とにかくシェリルのことが心配だった。
話したいことがあると彼女は電話で言った。
その夜、ダグラスはバスで工場前に向かった。
ちょうどシェリルはギャレンの配下によって愛車のタクシーに乗せられるところだった。嫌がる彼女を無理矢理押し込む奴ら。
バスから降りたダグラスは飛びかかってトランクに隠していた金属バットを掴んだ。そして配下二人を叩きのめしシェリルの手を取り、タクシーも奪い返した。
二人は逃げた。
プリテンディアの最果てまで。
砂漠の手前の静寂へとたどり着いた。
退職願いを出したが目の前で破られたとシェリルは言う。助手席で彼女は震えていた。
「何故かそれ以上逆らえなかった。急に頭が重くなって、声が出なかったの。信じて」
退院したばかりのダグラスの顔の絆創膏と腕の包帯を見つめ、シェリルは深く悲しんだ。
また血が滲むのに、優しく笑う彼を見ると余計につらかった。そして彼女は目を赤く腫らして謝った。
「大丈夫だって……なんだよシェリル。あらたまってさ」
「ダグラス。私……」
「ん? 告白? なんつって」
「ごめんなさい。私、あなたを騙してた」
「……え?」
「上に指示されてたの。二回目の、あのカフェから。あなたを探れと」
「俺の……何を?」
「サンダース・ファミリーの者かどうかを」
「……うむ」
ダグラスはそれも心得ていた。
すんなりつき合えたのも覚悟があった。自信があったわけじゃない――俺も同じように君を利用するため近づいたのだし。
ダグラスを見つめてシェリルは言った。
「でも、あなたについて報告したのは障害のことと親切なタクシードライバーだってことだけ。ほんとよ。……結局私は役立たずって言われて終わり」
「……一緒さ。俺も」
「え?」
「君がロレンツォの工場で働いてるって、ある人から聞いて知ってた。会社のことを知りたかった」
「え、そうなの?」
「俺は〝ソサエティ〟って地下組織の人間だ」
愕然と肩をすぼめるシェリルの手を、ダグラスは握る。
「……でも君と話してると楽しくて、嬉しくて。正直そんなことは二の次になっちまった。やっと、君と一緒に働きたいって言えたけど」
「ダグラス……」
「過去を隠すつもりはなかったさ。確かに、俺は七年、サンダース・ファミリーに育てられた。いろいろあってね。でも今は違う。それは信じてほしい」
「……うん。あなたのことは信じてるわ」
重ねられた手の甲を、彼女は切なく撫でた。
「……職場もね。変だと思うことが多かったの。友達が何も言わず急にいなくなったり外国人が大勢入ったと思ったらまた大勢が行方知れず。きつい仕事だから仕方ないけど」
「君も半日働くの、当たり前になってたしな」
「うん。でももういいの。……叔母さん家の近くで募集してた交通誘導員の仕事でもするわ」
「うーん、それはどうかな。みんな君に目を奪われて事故っちゃうぜ」
「……もう」
シェリルはうつむいて、ぼそりと悔いる。
「あなたを探った私も……大した女優でしょ?」
「オスカーもの。俺だって、なかなかのもんだったろう?」
思いやってくれるダグラスの口調が身に沁みた。
お互い求め合ってると、ダグラスはシェリルの肩を手繰り寄せた。
彼女の見つめる瞳に嘘はない。
気がつくと心底彼女に惚れていた。
――愛するシェリル。君との時間が、俺の癒しだ。
二人はホテルのベッドで愛を確かめ合った。
もう泣くなとダグラスは彼女の頬にキスをし、シェリルは彼の傷口を舌で慰めた。
手と手が絡み合い、激しく揺れた。
濡れる肌と肌がひとつになった。
朝、シェリルが目を覚ますとダグラスはいなかった。
穏やかな朝陽がカーテンから漏れている。
その先の小さなテーブルに書き置きがあった。
それは別れと意志の文面。決意の文面。
そしてシェリルは左手小指の指輪が外されていることに気づいた。
****
その夜。
闇に吠える街はずれ、ダグラスは公衆電話からブライアンを呼んだ。
「なあ、ブライアン」
《どうしたんだダグラス。傷はどう、無理してない?》
「ああ。大丈夫だ。ありがとな。それよっか俺たち、これでよかったのかな?」
《は? 何のこと? お前、なんだか声震えてるぞ》
「さ、寒いんだよ。……お前とハリーと一緒で、俺は後悔してないぞ」
吐く息は白く、熱かった。
ブライアンは部屋で髪を掻きむしりながら受話器の向こうのダグラスの不穏を必死で見つめる。
《おかしいぞダグラス。何考えてる》
「ブライアン。また訊くが、あの時サンダースについていって、よかったのかな俺たち」
《え? ああ……俺も後悔してない。お前は俺とハリーの兄貴分だ。信じてる。喧嘩してもな。お前はいつも俺を制御してくれるだろう?》
「……うん。そう……あの時、俺は金持ちに惹かれたんじゃない。悪魔に魂を売ったつもりもない。あれは信じられない大人たちに対する、一か八かの賭けだった。サンダースの目を信じたんだ」
《わかってる、わかってるさ》
「正義なんて理想だろう。こんな不条理な世の中で。それでも俺は信じたいんだ。ベルザが胸のうちで祈る姿を」
《ああ。俺とハリーはそんなダグラスについていく。どこまでもな》
「……そっか。俺も……お前たちといたから強くなれたんだ。お前たちに、育てられた」
《……ハリーとは? 何か話したのか?》
「いや。大丈夫。いつもつらい思いをさせる。すまないな」
鼻水を啜って喚くブライアンとの電話を切り、ダグラスは歩き出した。
ダグラスは黒い死に装束を纏う。
左薬指には微笑む髑髏の指輪。
墓場へのブーツには幸運のサイン。
そして寒さを忘れるために歌を口ずさみながら、
マフィンの工場を潰しに行く。
ギャレンを倒しに行く。
組織の実態をあばき、
ロレンツォを殺しに行く。