5.夢
次の日の昼間。
街頭で手を振る客をダグラスは車に乗せた。ビシリときめたスーツ姿の男二人を。
オールバックで額が広く、眼鏡をかけた方は有名人。前にも乗せたことがあるデイヴィス。次の市長になりたがっている元検察官のクラレンス・デイヴィスだ。
対抗馬の牧師ブラッドレーの過去をぶち撒けた小ずるい奴だと、ダグラスは胸の内で嫌っていた。
ブラッドレーが昔少年院にいたことをデイヴィスはメガホンを手に大声で罵り、スラム街を腰を屈めて掃除して回る彼を残飯漁りだと呼んで蔑んだ。
デイヴィスは後部座席で秘書らしき片割れとぐちゃぐちゃ喋りまくる。
「ああやってブラッドレーはイメージアップを謀るが、ただ自分のホームタウンをうろついてるだけさ」
「ええ。町のゴロツキどもに人気があるだけです。貧乏教会で選挙資金もそろそろ底を突くはず」
「はは。市をクリーンにするには金が要る。上との繋がりが大事ってことだ。町はずれで小銭を拾い集めるか? ハッ、薄汚い前科者には無理な話よ」
「我々には強力な支えがあります。なぁに、あなたが尽くした見返りですよ」
ダグラスは以前ブラッドレー牧師を訪ねていって話を聞いてもらったことがある。
ヘイトクライムで銃撃された教会の壁を修繕する手を休め、ブラッドレーは親身に話を聞いてくれた。
「過去は死ぬまで付きまとうが、何よりこの瞬間を懸命に生きることだ。我々は授かりもの。今日の仕事に、衣服に、寝ぐらに、食べ物に、感謝を忘れぬように」
小さな背の、優しき牧師の言葉は忘れない。
言葉だけではない。思いやってくれた口調も穏やかな響きも……。
デイヴィスの繰り出す毒舌に一瞬眉をひそめたダグラスを彼は見逃さなかった。身を起こしてネームプレートを確かめ、ミラー越しにデイヴィスは訊く。
「前にも私を乗せてくれたか? ではタクシードライバー・ダグラス君。君はあの牧師と私の次期市長選、どちらが勝つと思う?」
眉をくりりと上げニヤつく元検察官。
漂わせる余裕綽々の安物のコロンが不快だった。
「……さあ。どうでしょう。う〜ん……〝伯夷叔斉〟」
どういう意味だと訊かれる前に、ダグラスは薄笑いでミラーを見て答えた。
「市をクリーンにするには……先ずそういう人間でなくては」
****
午後六時半。
昨日話したそのカフェで向かい合い、シェリルはココアを、ダグラスはミルクティーを頼んだ。
嬉しそうに自分のことを語るシェリルの目をダグラスは見つめた。
イタリアから来たという彼女は、ふた隣り田舎の叔母の家に部屋を借りているという。
「叔母さんをあてにして来たっていうのもあるわ。夜勤だからすれ違いだけどいつも起こしてもらうから遅刻はないの。私けっこう寝ぼすけなのよ」
「俺も目覚まし三個ないとダメ。つい飲みすぎるってのもあるけど」
「ふふ。叔母さんのカラバッチャ、寝起きに最高なの。畑で作ってる玉ねぎ。たまーに手伝うのよ畑仕事」
「おぉたくましい。じゃあいつか二日酔いにオニオンスープをご馳走してもらおう」
家族のことを話す娘はいい娘だとハリーから聞いたことがある。どれだけ愛されて育ったか、それをどれだけ愛して育ったか、聞いていてわかる。
その点、――俺は語れるかと、ダグラスはシェリルに微笑んだ。
「育ててくれたボブ(ストーン・サンダースの別称)おじさんは自分よりもオレらにたらふく食わしてくれた」
「ふーん」
「人が旨そうに食べてんの見るのが好きなんだって」
「ふふ、わかる。あなたは人に優しそうだからボブおじさんもいい人なんだって、わかる」
シェリルは頷き、ココアを啜った。
赤いジャケットにかかる彼女のブロンド。 肩までの髪が美しく流れてる。
キリリとした目尻と青く潤む瞳、頬の緩やかな隆起と口角のしわがチャーミングだ。
ただ、気になるのは左手小指のやや厳つい指輪。服に合わせたものではない、昨日もつけていた指輪。
シェリルはため息まじりに言う。
「ああ、早く帰りたい。あと半年。しっかり稼がなきゃ」
「……え? もう、帰りたい?」
「……ん? あ、違うわ。故郷にってこと。時にはね、母に会いたいの。でも自分で決めたことだからがんばる」
ぐっと小さくガッツポーズ。よっしゃとダグラスも小さく真似る。そして母ひとり子ひとりで育ったと言う彼女の強さと脆さを静かに感じとった。
ダグラスは茶色の髪を後ろに撫でつけ、顎髭をつんつん引っ張りながら彼女の器用そうな指先を見る。
「精密機械の組み立て期間工か。そういうのに興味あるの?」
「あはは。実は機械音痴。これはただのお金稼ぎ。わざわざ海を渡ってエルドランドに来たのは夢を叶えるためよ」
「夢?」
シェリルは前のめりに言う。
「女優よ」
「え? ま、じ?」
「うん」と満面の笑みで答える彼女にダグラスは言葉なく、素直に感動してしまった。その純粋さに。
「そう。女だって野望があるのよ。この(仕事の)募集を見てひらめいたの。エルドランドの実業家ロレンツォ・マフィンは映画会社も持ってる。業界にも顔がきく。だから選んだの。今は班長だけどもっと昇りつめてロレンツォにアピールする。いつか映画に出させてって」
「ぶっ飛んでない? 女優なんてそんな甘かないぜ」
「ちょっとぉ、これでもテレビ出たのよ。ドラマにコマーシャル」
「わ。そうなんだ」
「エキストラでね。刑事ドラマの殺人事件現場の人集りとか百人乗っても大丈夫な物置のCM。その百の中の一人。こ〜んな小ちゃく」とシェリルは指で丸を作り、自分で吹き出して笑った。
「まぁ大女優は無理だけど。お芝居が好きなの。今はしばらく働いてお金を実家に送って、全部済んだら夢に向かう。だから、故郷に帰るのはしばらく我慢する」
そう微笑んで言う彼女を見ながらダグラスはミルクティーを啜り、讃えた。
「……いける。君には華がある。その……鼻のラインがいける」
「プッ、なにそれ」
「うん。君は輝いてる」
お腹が空いてきてフルーツサラダとチーズバーガーを頼み、チョコレートパフェも食べた。
ダグラスが最後のスプーンをぺろりと舐めると
「それやめたほうがいい。育ちが悪そうに見える」とシェリルが優しい目でたしなめた。
またやってしまった悪い癖だと彼はポリポリ頭を掻いた。
たくさん食べて二人は店を出た。いろいろ話して打ち解けた。
ダグラスはいつになく喋る。喋り過ぎだとわかっていても、楽しくて抑えるのがやっとだった。
波長が合うのはすぐにわかる。相手が自分に興味があるのかないのかも。
「ダグラス。そのお友達とは会ってるの?」
「ハリーとは八月に。あいつの夏休みだった。ブライアンはよくタクシーに乗っけるから」
「タクシーも自分で買ったなんてあなたお金持ちよね。すごーい」
「ギャンブルで稼いだのさ。カジノでね」
本当はベルザからのプレゼントだが。
「ギャンブラー嫌〜い。金銭感覚がわかんない」
「もうしないさ。〝ノム・ウツ・カウ〟はノムのだけ。お酒を嗜む程度。賭け事はしない」
「……うん。でも私も人に言えないか。ある意味一か八かの賭けで、この国へ来たんだもの」
「ああ……一世一代って時が、皆あるものさ」
並んで歩きながらダグラスの顔を確かめるシェリル。近くなって彼の右手と彼女の左手が微かに触れた。
「……ねえ、さっき話したボブおじさんとは? アナザーサイドには帰らないの?」
「……うん。帰らない。もう二度と」
どうして? と訊かれる前にダグラスは微かに触れた自分の手を見つめ、そしてシェリルの左手を指した。
「その……指輪」
「え? あ、これ?」
「やたらゴツいなあ」
「この中には工場に入る時の認証コードが登録されてて……」
一瞬シェリルは口ごもった。
「変でしょ微笑む髑髏の指輪」
ダグラスは彼女の目を確かめた。
「でも何故か外せないの。むくみかしら。最初は嫌だったけど今はどうでもよくなって不思議と気になんない」
「そうなんだ」
決してお洒落とはいえないシルバーのピンキーリング。――社員証の代わりということか。
「なんだかんだ仕事人間なのよね私。無遅刻無欠勤なんだよ」
「忙しいのも華だからな。まあとにかく君んとこはいろいろ規則が厳しそう。お給料もいいはずだ」
「どう? あなたも働かない?」
「集団無理だし俺。……でも君の班なら考えてもいいかな」
「ほんと? いいわよ。その代わりコキ使うから」
「わはは。そいつは怖い」
「もーう。わはは」とシェリルも真似して笑い、すっかり打ち解けたところでその夜はまた駅前で別れた。