4.燻される血 SMOKED BLOOD
ジャック・パインドが〝新生ソウルズ〟を掲げた一九六五年。
生成りのコートをなびかせ、ダークブロンドのリーゼントをキメる二十二歳――ジャックは、弱者から金も生活もむしり取る国家の傲慢な経済政策に反旗を翻した。
エルドランド国中の銀行に保管された不動産登記簿を焼き払い、脱税容疑者の預金を強奪してホームレスやスラム街にばら撒いた。住宅ローン返済で苦しむ者、土地を追われ路上にうずくまる者、糧を失い死に急ぐ者たちはジャックを〝魂の英雄〟だと讃えた。権力者は包囲網を張り、その神出鬼没・変幻自在のアウトサイダーを地の果てまでも追跡した……。
****
――俺の名はジャック。ジャック・パインド。
思い出す……あれは晩秋の長い夜だったな。
『OUT OF HERE』=「抜け出す道があるはずだ」と、俺たち二人は逃げるところだった。
つきまとう向かい風に歯ぎしりしながら、俺はシートにもたれていた。軋む車体と熱い息。最高の相棒ブリウスの視線と息遣い。
「傷、深いのか? ジャック、どこかで手当てを」
「いや、このまま行け。大したことはない……」
あいつはどこまでも俺を運んでくれた。
吠える車はどこまでも走り続けた。
密かに誓った想いは忘れない。
すべての責任が取れるよう、一人前の男になるまで、待ってて……。
美しい髪と瞳、頬に潮風が沁みる。ずっと、俺は彼女のことを忘れなかった。
俺は聖者なんかじゃない。
金の亡者をねじ伏せる蛮族だ。
悪党、盗賊、お尋ね者。
独善的な寂しき道化師。自覚はある。
そして四人の使徒の意志を継ぐ者。
酒も煙草も拳闘も好きな、世界を股にかける船乗りだ。
悪戯好きの宿なし、そう……根なし草さ。
右足から血を流し弱っていた俺は、包囲していた警官隊の一人にまた胸を撃たれた。それはまるで一瞬の出来事。
つきまとっていた風が一瞬にして身体を冷たく吹き抜けた。バディの咆哮も遠のいてゆく。
心臓に穴が空き、呼吸が止まり、意識を失い……俺は仮死状態に入った。
****
俺は暗く狭い土の中で何日も過ごした。
硬く冷たい棺桶の中で何年も。
目蓋の向こうで報われない情念が行ったり来たりする。
眠らない悲痛な叫びを聞いた。
語りかける老婆の悲しみを聞いた。
悔しがる青年と笑顔を忘れた女のすすり泣きを聞いた。
無念に貫かれた命と短い人生を呪う声を聞いた。
それでも願い続ける母親と、乳房に吸いつく赤ん坊の不安を聞いた。
腹を空かした犬と烏が通り過ぎ、次の者また次の者が踏み散らかし、また次の者が埋められてゆく。
はるか耳を澄ませば、車が勢いを増し、家が所狭しと建ち、ビルが権力を誇示し、夜も眠らない。
争い事もなくならない。
どれだけ嘆いても悲しんでもなくならない。
互いの正義を振るい、互いの民族を認めない。
どれだけ泣いても。どれだけ土の中から呼び止めても。
弱者は淘汰される。その疑念さえ、愚かなのか。
大地震で霊園が崩潰すると、妹は俺たちを緑豊かな小高い丘に移してくれた。
並ぶ墓石には俺の育ての父ジョージとその妻クリスティーンの遺骨がある。
父とはいつも話をした。
もう泣くなと彼は言い、クリスティーンさんも静かに笑って俺を慰めてくれた。
空気の澄む静謐な場所から海を見つめた。輝く、どこまでも続くありのままの海を。
俺たちを産んだ海とは今も繋がっている。
今も『FREEDOM』=自由に行き来できると切に信じた。
ある夜明けに、足音が近づいてくる。
それは聞き慣れた妹のものでも、バディのものでもない。棺桶の、土の向こうから聞こえる足運びには覚えがあった。〝男〟は周囲を徘徊し、墓石を確かめるとフッと息を漏らす。俺にはわかっていた。
もう充分に癒えた心臓をまさぐり、待ちかねた俺は棺桶の蓋を拳でぶち抜いた。彼のスコップも俺を掘り起こす。蛆虫と泥土がザクザクがなだれ込む中、彼は俺の手を掴み、引き上げた。
光が、朝の光が途切れ途切れに射し込んできた。
「よぉ船長! 我らがキャプテン!」
「……はは。相変わらずだね」
約束通り、来てくれた男。その名はダグラス。
地下組織のリーダー、ダグラス・ステイヤーだ。
しばらく並んで座り、俺たちは海を見つめた。
住んでいた町よりも冷たく厳しい夜明けに身が引き締まる。
太陽が海と岩と地肌を照らしてゆく。大気は清々しく燻され、身体をかけ巡る。
俺の中に流れるキーティングと爬虫人類の血は脈々と、俺を再起動させた。
「やはり最強そうだなキャプテンは」
そう言ってダグラスさんは煙草に火を点けた。座ったまま俺は背伸びをし、首を揉む。
「……うん、でも本当に撃たれるなんて。想定外だった」
「遅くなってすまなかった。あちこち飛んでてな。仲間も随分とやられ……先週やっと帰国できた」
ペコリと謝るダグラスさんに俺は首を横に振る。
「来てくれてありがとう」
ガシリと握手を交わす。困難を掻い潜ってきたダグラス兄貴の堅い握りダコがそこにある。
「すまんな。ブリウスのことも……ほとんど何もしてやれなかった」
「それは俺が悪かったんだ。共犯者にさせてしまって……調子づいてた俺のせいだ」
ブリウスの刑務所での苦痛と寂しさを思うと胸が痛かった。
「ジャック。今の今まで寝てたのか?」
「いや。しばらく起きてたよ」
「何考えてた?」
「……皆の唸り声を。むせび泣く、死人の声を。報われなかった魂の叫びを、俺は聞いてた。彼らのことを忘れ、誇りを踏み散らかす足音も聞いた。この国を建てるために死んでいった者の嘆きを聞いた。死ぬまでにやりたいことを果たせなかった後悔の念を聴いていた。……そのことを考えてた」
ダグラスは煙を燻らせ、俺を見つめる。
「ああ。我々は生かされてる」
「俺は復讐に生きた。でも苦しいだけだった。救われたいと願い、自らのルーツを辿ったんだ」
「血の呪縛はどうあっても消せない。しかし温もりだけは確かに、あったはずだ」
「……うん。血は生きようとしている。いい時はあるがままに受け取り、授かった命に想いをめぐらせた。たとえ棺桶で眠っていてもね」
俺たちは顔を見合わせ、少しだけ笑った。
立ち上がり、俺は気持ちをあらためる。
「ダグラスさん。戦いはまだ終わらないね」
「お前に頼ることもあるかもしれんと言ったろう?」
「第二のナピス。その芽を摘み取るために」
「何もかも、聴こえていたかジャック。そう、彼女が待っている。セリーナがお前を必要としている」
俺は頷き、彼女のもとへ向かった――。
****
一九七一年、ヘヴンズフィールドの緑の丘。
俺は朝の光を纏い、蘇った。
炎を手に運び、共に立ち上がった。
肩を寄せ合い、戦いの口火を切る。
最後に裏切るのはこの肉体。
燻る魂が俺を突き動かす。
燃えあがるような列車に飛び乗る。
君の旅は傷つき、俺に手を伸ばしている。
長く冷たい夜と灼熱と戦ってきた。
君を抱き、髪を撫で、刹那を愛した。
燃えあがる胸に俺の魂を捧げた。
信じて跳び、君の愛の中で生まれ変わる。
山を越え谷を抜け永遠に走り続ける。
指と指を這わせ、そこに辿り着こう。
二人の血はその時ひとつに燃えあがった。
◾️左からライサン(SHINNING HIGH)、ジョー(JOKERMAN)、ライセンス(LICENSE TO KILL)と猫のトム(SPIRITUAL HOME)、クリシアとブリウス(OUT OF HERE)、ダグラス(FURTHER ON)、セリーナとジャック(FREEDOM)。
1971年、並び立つ夢のワンシーン。




