1話
初めて書きます、拙い文ですみません。
初めて明確に何かを感じ取れた時の事。
七歳の時、父が死んだ。
俺が夏休みの終わり頃、ばあちゃん家に泊まりで遊びに行っていた時だった。
病気で体の調子が悪かった旅行好きの父が、自身の体がもう長くないことを覚り、まだ動けるうちに最後の旅行に出掛けたのだ。
ばあちゃん家にかかってきた電話の音を聞いた瞬間どうしようもない不吉さと焦りを覚え、おかしな黒い靄が被ったような黒電話に出たばあちゃんが驚いた顔をした瞬間、俺は確信したのだ、父に何かあったのだと。
父はおかんに
「金を掘りに佐渡島行ってくるわ」
と冗談を言って出かけたらしく、佐渡島観光の途中でフェリー乗り場で倒れてしまい、通りかかった人に発見され病院に搬送された。
その後おかんに病院から連絡が有り、急いで佐渡島の病院へ向かうと、もうあまり持たないと知り、ばあちゃんにすぐ俺を連れて来て欲しいと連絡してきたらしい。
電車、飛行機、船を乗り継ぎ佐渡島に到着した俺はもう動かない父を見て
あぁ、人が死ぬのってこーなるのかぁ
と悲しみもせず漠然とそんな事を思っていた。
何故自分は泣けないのだろうか?
薄情な人間なんだろうか?
なんて考え込んだりもした。
それと不吉な電話の時から視えるようになった黒い空気の層のようなものが亡骸となった父にも纏わり憑いていたのを嫌な気持ちで感じていたのだった。
おっさんになった今ならわかる、単純に心が追い付かなかっただけで後日おもっくそ泣いたから。
それと当時の俺には降って沸いたような感覚(霊感)に振り回されて自身の寿命が父と同じく、後厄と共に尽きる予感を受け入れるところから始めないといけなかったのが泣いてられなかった原因だと思う。
7才にして自身の寿命を感じ取ってしまった俺は残り35年もあると思い、とりあえず一旦棚上げしたのである。
…普通に早死になだけ…
それなりに人生の時間はあるなと考えた俺は明日に回せることは今日しなくていい精神で見事なまでの棚上げを決めて見せるのだった。
昭和60年頃、遺体を自宅に連れ帰るため父の友達が伝を頼って佐渡島まで車で棺と母子を乗せてくれるドライバーさんと車を準備してくれたことは今でも感謝だ。
北陸自動車道も所々しか開通してなかった当時、休憩もせずに走り通してくれたドライバーさんは俺の中ではある種のヒーローに見えた(笑)
俺は俺で棺を乗せるため後部座席全てを取り払い、座席のなくなった車内後部で後ろのタイヤの上あたりに座り、泣き言を一切言わず、帰りの道中はずっと棺に寄り添っていた。
時折蓋を開けては父の顔を覗き見している時だけが父と子の最後の時間の延長戦のように感じていたのだ。
今思うと遺体とこれほど長い時間、二人きりではないけどそばに居られる事は無いなと今は思う、10時間近く車に揺られていたのだから。
家に到着すると大人たちに褒められ、我ながら頑張ったとあの時は自負していた。
叔父や両親の友人達によって葬儀の準備が出来ており、到着したらそのまま通夜。
翌朝告別式と進み、その日の夜に気がついたら心配してくれていた友達が遊ぼうと誘ってくれていた。
どこか様子がおかしかったらしい
その辺りの記憶があまり無いし元々ボンヤリしている性格だが、いつにもましてぼうっとしていたのかもしれない。
あっという間に残りの夏休みが終わり、心の整理もしないまま登校し、日常が戻ってきたと思った矢先、小学校の道徳の時間に「お父さん」という題で作文を書く授業に直面する。
泣いた。
一文字も書けずただただ泣いた(笑)
泣いた俺を見て担任の先生はしくじった顔をしていたが後の祭りだ。
とても好きな担任の先生だったが
「がんばって書こうな」
の一言が止めの一撃だった。
おかんは先生に抗議するって息巻いたが止めた、だって好きな先生だったから。
この時が死んでから初めてだったんだろうな、父が死んだことに向き合ってしまったのは。
葬儀から10日程の事だったと思う。
おとーさんはどーして死んだんだろう
なんでもう居ないんだろう
毎日父方のばあちゃんから父に貸していたと言う300万の借金の返済の催促電話が朝7:50に掛かってくるんだろう
放っておくと60コール位で切れるのは何故なんだろう?
明日から僕の生きる為のお金はあるのかな?
おかあさんの人生の邪魔になるのはやだなぁ…
等々めっさ思ってたね、ほんとこんなことばっかぐるぐる回ってたね。
それからかな、死んだらどーなるのかを気にするようになったのは。
そしてなんとなく体の中のエネルギーみたいなものを水のイメージで捉えていたのは、後々それが気であり属性であることを知るけどこの時はまだイメージ程度。
たまに夜中に訳のわからない声を聞いてしまった事もあるけど高校卒業あたりまでは色違い靄を見かける程度だった。
19で車の免許を取得し、一年ほど経った頃から黒い靄が視える頻度が増えた。
短大を卒業し、働き始めた頃靄に気付き、気になって仕方がなかったので思いきって頭に浮かんだ友人に
「交通事故に気を付けて」
と伝えてみたら一週間後あたりに軽い接触事故に遭ったと連絡が来た。
ぶつけられたらしいのだが、彼は
「お前が気を付けてと言ってくれたから軽くで済んだ気がする、ありがとう」
などと礼を言われた。
でも俺はどうにも居心地が悪かった。
解っていてもどうにもならない事、そのことが辛く感じてしまったのだ。
こんな不吉を感じる出来事が数年の間に何度も起こり、靄の濃さが違うことで危険度も違うなと気付き、父の時の黒さが一番濃かった事から命に関わる場合はあの黒さなのかもと思うようになっていった。
たまに何も起きない事もあったが灰色から黒色の濃さに見えたときは大抵何か起きていた、確率で言えば8割くらいか。
25才で結婚した。
この頃には靄に気付いても知らん振りを決め込む事が殆どだった。
良くない事が起こると気付いても自身では変えられない事を知り、諦めてしまったのだ。
無力だなぁ、なんで不吉なことだけ気付いてしまうのかなぁと思いながらダラダラと日々が過ぎていく。
それから三年後息子が生まれた。
28才のあの日、息子が生まれたあの日に全ての「何か」
が失くなった。
なんの予感も働かず、予測も出来ない。
これが普通の感覚なのか!?
突然フワッと軽くなった感触とともになんにも解らなくなった自分が嬉しくてたまらなかった、これで何も知らずに生きていけると思えた。
だが何故消えた?
状況的にはついさっき生まれた息子に移ったのか?
等と考え、だとしたら今までのはご先祖様が守っててくれたのか!?
親父か!?もしや息子に憑いてくれたのか?
なんて考えたが、変な霊感はあるくせに幽霊とかまともに視えた事がない俺は確かめられないのでそうであれ!と思い込む事にした。
三十台の頃、家系的な難病が遺伝しており徐々に体がうまく動かせなくなってきていた。
なんとか仕事は出来ていたが、回りの人ほど動けていない自身の働きぶりに心苦しい想いが募っていった。
なにより子供が駆け出したときに同じように走って着いて行ってあげれない事が悔しかった。
悔しくても虚しくても物理的に出来ないものは出来ない
そう線引きして心に蓋をし、諦め、必死で伸ばし続けていた手を弛めてしまった。
現状維持することを目標とし、上を向くのを止め、戦わずに生き残りたいをモットーに只ひたすら同僚に迷惑を掛けないよう立ち回るだけの十年が過ぎた頃、どこか情けないおっさんが鏡に写っていた。
お読み下さり有難うございます。m(_ _)m