86.迷子にならないように
朝七時。
萌香が厨房の手伝いをしていると、コンコンと後ろからドアをたたく音が聞こえた。振り返るとアルバートが呆れたような顔をして立っている。
「あらまあ、アルバート様。おはようございますね」
「あれ、アルバートさん。おはようございます。早く着いたんですね。朝食までもう少しお待ちくださいね」
ヘディが鍋をかき混ぜている後ろで、萌香が配膳のため皿を並べていく。
アルバートと、昨夜泊ったパウル。それからクリステルはこれから西のダイニングで朝食をとることになっている。
普段朝食の支度はヘディ一人で切り盛りしているのだが、今日は朝食の時間が通常より一時間ほど早いため、萌香も手伝いを申し出たのだ。
「萌香。おまえ、何してるの?」
「ヘディさんとおしゃべりするついでに、お手伝いです」
仕事は昼過ぎからだが、午前はパウルたちと話し合いなどの予定が入っている。
とはいえ早朝に予定はないため、一人でいるヘディの所へおしゃべりを兼ねて遊びに来ているのだ。お手伝いはついでである。つまり仕事ではないのだ。
「今日、ここでの仕事はないはずだろ?」
そんなこととは知らないアルバートの声には呆れと、それから少し心配そうな響きがあり、それに気づいたヘディが「ふふっ」と笑いをこぼした。
「エリカ様はお小さいころから、厨房に来るのが好きだったんですよ」
他に人がいない為か、ヘディがいつものいかめしい顔を隠し、人のよさそうな笑顔を浮かべる。その表情と言葉に、アルバートが驚いたように目を瞬かせた。
「ヘディさんは昔イチジョー家にいたんですって。私が小さい頃、初めて包丁を握らせてくれたのもヘディさんなんですよ」
「へえ?」
それはどっちのエリカ? と目で問われ、萌香は自分だと目で答える。
驚いたように目を見開く彼の顔が子どもっぽく見えるのがおかしくて、萌香はクスクスと笑った。その様子を見ながら、ヘディがじわっと涙ぐみエプロンで目元を押さえる。
「懐かしいですね。お二人がこうして並んでいる姿を、もう一度見られるなんて」
彼女の目には萌香たちの小さい頃の姿が見えているのかもしれない。そう感じ、萌香はくすぐったい思いで笑みを深めた。
「さあさあ、ヘディさん。もう朝食をワゴンに乗せないと」
ヘディの感傷をあえて笑い飛ばしつつ、テキパキと盛りつけた皿をワゴンに並べ、最後にヘディがスープを乗せれば完了と言うところまで整えた。
すべて乗せてスイッチを入れれば自動でダイニングまで運ばれる。今朝は萌香もエリカとして同じ席につく。そのためメイドや従僕も含め、他の人を入れないよう給仕なしなのだ。
「ああ、そうですね。エリカ様、今日はどうもありがとう。楽しかったですよ」
「私も楽しかったです。じゃあ、行ってまいります」
軽く一礼してアルバートと共に厨房を出、急いで自室に戻ろうと早足になる。
「アルバートさん、すみません。すぐ着替えて向かいますから、先に行っててください」
なぜ彼が厨房にいたのか不思議に思いつつ踵を返す。だがアルバートに「ちょっと待て」と、二の腕を掴まれてしまった。
「忙しいな、まったく。おまえに用があって行ったんだよ」
そう言うとポケットから新しいカードを差し出す。それを見た萌香が花が咲くようにぱっと笑顔になり、アルバートが目を細めた。
「ありがとうございます。見ても構いませんか?」
「ああ。もちろん」
キョロキョロと周りを見て、廊下の大きな柱と花瓶の陰に隠れるように移動してカードを開く。そんな萌香を隠すようにアルバートが前に立つと、少しだけ安全な場所に来たような安心感に心が満たされた。
ふと――この人の腕の中は居心地がいい――などと思ってしまい、同時に昨日パウルから助けてもらった事を思い出し頬が熱くなってしまった。
――猫みたいに、高いところから助けてもらう縁があるのかもね。
アルバートに顔を見られないよう俯きながらカードを開くと、美味しそうなお好み焼きのイラストが描かれているのが目に入る。しかもマヨネーズ付きだ。
「ん?」
「どうした? 気に入らなかった?」
動きが止まった萌香にアルバートが不思議そうに首を傾げる。
「あの、もしかしてカードのイラストって、アルバートさんが描いてるんですか?」
「そうだけど……」
――そうだったんですかぁ?
「どうした、目が真ん丸になってるぞ?」
「だって私、アルバートさんからもらうカードのイラストがすごく好きで。その、画集なんかあったらほしいなぁ、なんて思ってたからびっくりしちゃって。アルバートさん、絵がお上手なんですね」
あらためて見ても上手だとしみじみ頷く。
同じ人が描いているという点は当たっていたけれど、まさかアルバートが自分で描いているとは思ってなかった分びっくりだ。意外な才能!
とはいえ、いつも内容にぴったり合っている絵だったことを考えれば納得かも知れない。
「いや。絵は仕事でも描かなきゃいけないから……」
なぜかもごもごとした声に顔をあげると、口元を押さえそっぽを向いたアルバートの耳が真っ赤だ。
「アルバートさん、顔が赤い?」
「赤くない」
「え、でも」
「気のせいだ」
絵を褒められた事が、そんなに嬉しかったのかな?
首を傾げつつジーッと見ていると、あっという間に首まで赤くなっていく。顔は怒ってるふりをしようとして失敗しているような表情なので、萌香は必死で笑いをこらえた。
「アルバートさん、可愛い」
「なっ!」
アルバートが目を見開くのを見て、萌香はつい心の声が漏れたことに気づいたが、結局「ふふっ」と、笑ってごまかすことにした。
「そういうところ、エリカだよな」
少しだけイヤそうな顔になっているが、照れ隠しにしか見えないので気にしない。だいたい自分も絵梨花も同じ人間なのだから、大きく違いがあるほうがおかしいのだ。
「同じ人間だから仕方ないですね」
「……性格変わってないか?」
「色々あって、地が出てきただけです」
萌香がにっこり笑うと、アルバートは再び左手で顔を覆ってしまった。
それを見て、萌香は彼に伝えておこうと思ったことを思い出した。
「アルバートさん。前にお願いした絵梨花の婚約者候補の振りですけど、あれ、なしで大丈夫です。絵梨花が戻ってきたときのためのことは、もう考えなくてもいいから」
デズモンドが怖いのは変わらないが、あくまで自分のことなのだから自分で対処するべきだろう。
本音を言えば怖い。二度と会いたくない。
絵梨花の日記を見ても、あの男との接点はほぼなかった。
何かを勘違いさせる出来事や要素が何もなくて、絵梨花はあの男を、まるで常識も言葉も違う異次元の人のようだと嫌い、同時に怖がっていた。
もし万が一、本当にあの男が異世界の人だったとして、だ。その世界で違う自分が彼の恋人だったとしても、文字通り息ができないようにされたのは異常だ。本当に死ぬと思ったのだから。
それでもこれはエリカである自分の問題。無関係のアルバートに甘えるのはいことではない。
そんな怖さを隠して笑顔で告げた萌香に、アルバートは何かに気づいたような顔をしたあと、
「わかった」
と、あっさり頷く。
そのあまりにあっけない返事に少しだけ胸の奥がチクリと痛んだが、元々彼は絵梨花が苦手だと言ってたのだ。
迷子にならないようつないでいた手を離されたような心細さを感じたけれど、それも多分、いずれは慣れるはず。
少しうつむくと、クシャっと頭を撫でられて驚く。目をあげると、一瞬だけ優しい表情だったアルバートがニヤリと少し意地悪く微笑んだ。
「萌香、さっさと着替えて来い。ここで待ってるから」
「先に行ってていいんですよ?」
「待 っ て る か ら な!」
一音一音はっきりと言われ、萌香はぷっと噴き出す。まるで目を離すとすぐ迷子になる子どもになったような気分になり、それが妙にくすぐったい。
つないだ手を振り払おうとしたのは多分萌香のほうだ。彼はそれをつなぎ直したように感じる。以前と変わらないようでいて、その実、少しだけ手探りのような視線や仕草に気づき、彼が本当に一から、萌香として接しようとしてくれてるのだと気づいてしまった。
――どうしよう。なんだかすごく嬉しい。
「はーい。急いで支度してきます」
◆
朝食の席では、昨夜アルバートが帰ってからのことについて話が始まった。
萌香がファン・マリー宛に送った見舞いカードの返事が、彼女の実家から届いたのだ。そこには丁寧な礼と、しばらく見舞いは遠慮してほしい旨が記されていた。
「もしOKだったら、明後日からのお休みで行けるかなと考えてたんですけど」
急に降ってわいた休暇は月曜から金曜までの五日間。それに通常の休日である土曜日が加わり六日間の休みになっている。イチジョーに戻って鈴蘭邸を調べるかマリーの見舞いかと考えていたが、見舞いは断られてしまっては仕方がない。
「でな、十一月末からエステルのところで短期メイドを募集することになってたから、そこに行けばいいって話してたんだよ」
パウルの言うエステルとは、彼の亡くなった妻の姉のことだ。
彼女は現在白薔薇亭という宿を切り盛りしているのだが、この宿が例の幽霊がでるという噂のアウトランダー城なのだ。以前萌香がクリステルに相談したとき、ちょうどその話が出ていたそうなのだが、あまり萌香が遠い場所にいくのも心配だと考えていたらしい。
それでもまずは色々話や調整が必要なことなので、とりあえず保留ということになる。
次に萌香に見てほしいという品物の話になり、クリステルは退室する。アウトランダー関連だからだ。
「これは今回の調査で見つかったものの一部なんだ」
それは折りたたまれたりちぎれたりしている紙と数種類の箱。デザインも質感も違うそれらの中で、萌香はたたまれた紙に注目した。これだけ明らかに新しい。そして、妙に見覚えがある。
「触ってもいいですか?」
「壊さなければ問題ない」
「了解です」
手袋をはめて目を付けていた紙を取り上げ、光に透かす。
――これ絶対、元々ノートとかレポート用紙だよね。
エムーアの紙とは明らかに質感が違うツルッとした白い紙面には、等間隔で薄い線が引いてある。その紙がハート型に折られているのだ。
「なつかしい」
小中学校の時は、友だち同士でまわす手紙をハート型やシャツ型に折るのが流行っていたのだ。
するっと開くとアルバート達が焦った声をあげたが、萌香は「元に戻せますから」と言って中をあらためる。
薄々予想していた通り、そこには少し癖のある可愛い文字が並んでいた。予想外だったのは最初に「えりもえか様」と書かれていたことだ!
――私宛?
地底湖の奥から見つけたハート型の手紙のあて先はなんと萌香?
いったい何が?




