81.はじめましてから始めよう
「うん、それは知ってる。でもお前は萌香だろ。俺が知っている、前のエリカじゃない」
はっきりそう告げたアルバートにまっすぐ見られ、萌香は頑張ってにっこり笑った。パウルにも笑顔を向けるが、実際は緊張で心臓がバクバクだ。
「絵梨花と私が同じ人間だということはご存知ですよね。私が日本から来たことも」
アルバートとパウルが同時に頷くことにほっと息をつく。
アルバートの側にいると、つい素の自分が出てしまう。
最初から素の心を剥き出しに泣き叫んだところを見られ、はじめてここで自分を萌香と呼んだ人だからかもしれない。
樹から落ちたところを助けてくれた命の恩人で――さっき思い出した、萌香が付いて回っていた小さい方のお兄ちゃんはトムではなくアルバートだ。ファーストコンタクトもセカンドコンタクトも、彼が高いところから助けてくれた人であることを面白く感じる。
萌香に小さいころの記憶はほとんどない。それでもエリカとしての記憶が一部とはいえ綺麗に思い出せたことが少し嬉しいと思った。
「私はエリカとしてここで生まれ育ち――五歳の時に、日本に飛びました」
「はっ?」
目の前の男二人が声をハモらせ、目を見開く。
「アルバートさんが知っている絵梨花は、本当は萌香なんです。彼女のほうがアウトランダーだったんですよ」
次元の異なる萌香と絵梨花が五歳の時に入れ替わっていたこと。
絵梨花には日本の記憶が残っていたこと。
あの事故で、再び萌香がエムーアに戻ったことで、おそらく絵梨花は萌香のいた世界に戻っているであろうことを説明していく。
「アウトランダーは一方通行、だ」
パウルがうめくようにそう言った。
消える人や物があっても、多分外の世界にいったと思われるだけで、実際のところは分からない。だから前に萌香が日本に帰りたいと訴えたところで、それは彼らからすると「母親のおなかに戻りたい」と言うくらい無茶な話だったのだと、今なら理解できる。
「同じ人間が入れ替わっただけだから、誰も気づかなかったんです。もしも近い次元で入れ替わってたなら、本人でさえ気づかないと思います。絵梨花はそれを、スライドと呼んでいました」
それを推理し教えてくれた人が鏡の中のR。外の世界の物語や科学を教えてくれた、絵梨花の秘密の友達だった人。
「絵梨花は、イチジョー・エリカを演じてたんです。すごく頑張ってエリカとして振舞ってくれました。たぶん、いつか戻るであろう私のために……。私はいつか絵梨花が戻ってくることを考えて行動しましたが、真実は逆だったんですよ」
一瞬感情が高ぶりそうになり、込み上げた涙をねじ伏せる。
萌香がエリカだったことに気付いてからは手帳の解読もほぼ終わり、その上日記をもう一つ見つけた。ドレッサーの引き出しに、模様のように漢数字が入っている極小のマスがあり、試しに萌香の誕生日を針で押していくと引き出しの一部が外れ、もう一つノートがあったのだ。
絵梨花の残した鈴蘭亭の鍵を使えば、もっと色々見つかるのだろう……。
「アルバートさんは、エリカが何を考えているかよくわからなくて苦手だったと言いましたよね」
「ああ」
少し気まずそうにアルバートが頷く。あの時はお酒のせいでぽろっと本音が出たのだろう。
「たぶんそれは、絵梨花がエリカを演じていることの違和感だったんだと思います」
――そしてもう一つ。絵梨花が必死にある感情を隠していたから。
絵梨花の心は複雑だった。
萌香が最初に感じたように、絵梨花はアルバートのことが好きだったのだ。新たに見つけたノートはエムーアの文字で認められていた。それには絵梨花がアルバートに惹かれて惹かれて、それでも押さえつけていた想いにあふれていて、萌香は胸が苦しくなった。
そして――鏡の向こうの「R」は、違う世界のアルバートだった。
区別するためにAlをRと表記していたのかもしれない。
同じ声、同じ姿。
でも絵梨花には婚約者がいて、アルバートには常に恋人が途切れない。
婚約者と兄の親友で常に目に入る存在。
フリッツを愛そうと努力しても、アルバートがそばにいることで常に心をかき乱されてきた。婚約者だということを考えなければフリッツのことは大好きだっただけに苦しかった。
――日記を見る限り、絵梨花がフリッツさんに感じていた愛情は、本当に家族のようなものだった。恋を知ることがなければ、彼と穏やかな家庭を築くことができたと思えるくらい。とても大事に思ってたけど、それでも恋と親愛は別なんだ。親の思いがどうであれ、やっぱり子どもの内から許嫁がいるって大変だよね……。
それでもフリッツの心が別の女性に動いた。絵梨花は本人たちよりもずっとずっと先に気付いていた。なんと無自覚期間が二年近いのだ。フリッツ自身も葛藤があったのかもしれないが、絵梨花がずっとじれったく思っていたのがよく分かる。
でもそのことをきっかけに、絵梨花が恋をしているとはっきり気づいたのは「R」のほうだった。それでも……
(同じ人だけど違うの。わかっているの。わたくしはアルのことを愛しているわけじゃない。でも彼と同じ姿、同じ声で、彼が違う女性に愛を囁く姿を見ると心がよじれそう。こんなの間違っていると思うのに、どうしてもそう感じてしまって胸が苦しい。きっとRのほうにも恋人がいるもの。違うなんてありえないでしょ)
恋を綴った絵梨花のノートは、苦い想いに満ち溢れていた。
めったに会えない、しかも鏡の向こうにいる「R」。Rと同じ人物であることで、どうしても惹かれてしまうアルバート。混乱し、心を整理し、その結果、手も触れられない遠い世界にいる相手のほうが本命だと気づいてしまった。
もしスライドが起こらなければ、普通に恋できたはずの相手のほうを。
萌香はもう一人のアルバートを知らないから、もしかしたら外国の人なのかもしれない。それでも絵梨花なら、きっと彼に会いに行き、隣に立つはずだ。そうあってほしい。
――でも、もしアルバートさんが絵梨花の婚約者だったら、私はここに戻ることはなかった。
ノートを読んで絵梨花の想いに触れ、萌香は以前も感じたことに確信が深まる。
フリッツとの婚約解消の後にもアルバートにアプローチしなかったのは、彼がRではないから。それと同時に、次元を超えることに失敗し、絵梨花として生きた場合のことを考えたから。エリカという存在であることを重視した絵梨花。
でも初めからアルバートが婚約者だったら? きっと絵梨花は、そばにいるアルバートを心から大切にしたと確信できるのだ。
――でもこれは、誰にも内緒。
絵梨花の想いをアルバートにはもちろん、ほかの誰にも告げるつもりはない。彼女が隠したことを萌香は尊重する。そして、苦しみながらもエリカという存在であることを大事にしたことも。
――私は、こんな風に恋をしたことはないわ……。
萌香がふとした時にアルバートを意識してしまうのは、きっと何らかの理由で絵梨花に同調してしまうからだと思った。この激しさは、萌香には体験したことがないものだから。
――同じ人間でも、絵梨花は光で、私は影。絵梨花が表舞台に立つ女優なら、私は裏方。
絵梨花のような華も、天才的な頭脳もない、平凡で地味な女。それが萌香。
でも萌香はそんな自分が好きだし気に入っている。
それでも今の自分には「聖女」という役割があるから、絵梨花同様それを演じようと決めていた。何が起こるか分からない、あまりにも不安定な未来に受けて立つと。
だから、今も心の奥でコトコト動き、ふとした瞬間に顔を出そうとする「何かの感情」に厳重に鍵をする。これは、気のせい。ただのまやかし。本物じゃ、ない。
絵梨花が代わりに背負っていてくれたものを、無責任に放棄しないようにするために。
しばらく沈黙が落ちた後、パウルが空気を換えるように大きく微笑んだ。「これは新たな発見だな」とはしゃぐように言った後、
「じゃあ、改めてはじめまして、だな。エリカ、それとも萌香?」
優しい目でそう問いかけられる。
「どちらでも。本名はエリカですし、仕事用の名前は萌香ということになってますから」
「じゃあ家族からは?」
アルバートが、静かな夜の湖のような目で萌香を見てそう尋ねた。
「家族は、愛称として萌香と呼んでくれます」
クリステルも含め。
「じゃあ」
そう言って右手を差し出すアルバートに(握手?)と思って萌香が手を出す。すると右手を握られ指にキスをされたので、ビックリして手を引っ込めた。
「えっ、なっ」
――なんで?
真っ赤になってキスをされた手を胸元にあて左手で隠すと、アルバートとパウルは一瞬顔を見合わせニヤッと笑った。
「初めましての挨拶ですよ、萌香さん」
萌香さんって……。
唖然とする萌香の左手を、今度はパウルがとって、ちゅっとキスの真似をする。
頭の中で必死で初対面のマナーを思い返すと、確か小説の中にそんなシーンがあったことを思い出した。だがそれは結構昔の宮廷マナーだ!
ニヤッと笑うアルバートを涙目で睨むと、彼は改めて
「初めまして、萌香さん。俺はダン・アルバートといいます。以後お見知りおきを」
と、芝居がかった仕草で一礼し、パウルも面白そうに追随した。
「あ、アルバートさんに萌香さんとか言われるとムズムズします」
「でも初対面で、愛称とはいえ女性を呼び捨てにはできません」
しれっと丁寧ぶって答えるのが憎たらしい。
「絵梨花のこともさん付けしてましたか?」
「さあ、どうだったかな?」
どんどんアルバートの目が面白そうな色を深めていくのを見て、これは最初から絵梨花は呼び捨てだったなと確信した。
「はじめましてでも久しぶりでも、私はトムの妹ですし、二週間一緒に暮らしたんだから、そこまで他人行儀も変でしょう。もともとアルバートさんが言ったんですよ。私はアウトランダーの記憶を持ったエリカじゃないかって。それが一番近いんです!」
ぷくっと膨れる。
なんでまた意地悪?
「じゃあ俺が愛称で君を呼ぶなら、君も俺のことはアルと呼ばないと」
「そ、それは馴れ馴れしくてイヤ」
脊髄反射で拒否してしまい、萌香はハッと口を押える。
ここは絵梨花モードでニッコリ笑ってアルと呼んでやるべきだった!
そう気づくが、年上の男性を愛称で呼ぶのは、萌香にはハードルが高かった。
「ふーん?」
アルバートが憎たらしい目で萌香を見下ろした後、ぷっと吹き出し、パウルと二人で笑いだす。意味が分からず萌香が唖然とすると、アルバートは目に笑いを残したまま萌香の頭をするっと撫でた。
「からかって悪かった。状況がさらに複雑でもう少し頭の整理もしたいが、絵梨花は探さない。それでいいんだな?」
「はい。万が一にでも連れ戻すこととかも考えないでほしいです」
萌香がまじめな顔で「ごめんなさい」と頭を下げると、アルバートは少しだけ不思議そうにしつつも「わかった」と頷いた。
「じゃあ、はじめましてから始めよう。――萌香」
「はい。記憶喪失みたいなもので世間知らずだからご迷惑をおかけすると思いますけど、よろしくお願いします」
そんな萌香たちをニヤニヤを隠すように見ていたパウルが何か口を挟もうとした時、ドアの外から料理を持ってきたと声がかかった。
萌香(こっちは真剣なのに遊ばれてる~(´;ω;`))
アル(もともと、1から始めようと思ってたからな……)
パウルとアルバートが相手だと、どうやらシリアスにはなれないようです。
次は「お好み焼き」。




